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弘安の役とその後
使者を斬る(元の怒り) 文永の役の翌年,建治1年4月15日杜世忠(と・せいちゅう)を正使(せいし=... 使者を斬る(元の怒り) 文永の役の翌年,建治1年4月15日杜世忠(と・せいちゅう)を正使(せいし=使いの代表)とした元の使い一行が再び日本にやってきました.彼らは戦いのあった博多をさけて長門の室津(現在の山口県豊浦町)に上陸しました.これは使者たちが,うらみのある博多の人々に狙われるのをおそれたからと考えられています.元の使い5名はとにかく天皇や将軍にあって国書を渡す使命がありました.文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的でしたが、今回は,「今度はもっとたくさん軍隊を送るよ・・言うことを聞くなら今のうちだよ」というつもりでやってきたのです. しかし,杜世忠一行を待ち受けていたのは厳しい処遇でした,大宰府に移りさらに鎌倉に送られた一行は「龍ノ口」(たつのくち=当時刑場だったところ)で全員処刑され,見せしめとして首はさらされました.その時,杜世忠は34歳でした.杜世忠の辞世(じせ
2014/11/21 リンク