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戦後59年 語り継ぐ戦争 十勝の体験者たち△6▽
帯広空襲 怖さ、おろかさ伝える役目 敵機来襲 街を一斉攻撃 野田たみ子さん (71)帯広在住 「ちょう... 帯広空襲 怖さ、おろかさ伝える役目 敵機来襲 街を一斉攻撃 野田たみ子さん (71)帯広在住 「ちょうど国道を挟んで、真向かいのあの辺り。私は防空ごうの中にいて、大きな衝撃を受けました」 帯広市西2北1の自宅で、真昼の日差しが差し込む窓を指さし、野田たみ子さん(帯広市在住)は帯広に空襲があったあの日を語り始めた。終戦記念日のあす15日に72歳を迎える。 必死で防空ごうに 帯広大谷高等女学校の生徒で12歳だった。当時の自宅は市内西2南1。1945年7月15日午後3時ごろ、空襲警報のサイレンが鳴り、自宅庭にあった防空ごうに隣家の赤ちゃんを抱いて入った。『ドーン』とものすごく大きな音がして、赤ちゃんが火のついたように泣いた。 大人5、6人は入ることができた立派な防空ごう。厚さ15―20センチの木製のふたが衝撃ではね上がり、空が見えた。どのぐらいたったか、「敵機が去った」という大