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武家家伝_合志氏
肥後の戦国時代における国人領主のひとりとして知られる合志氏は、宇多源氏佐々木氏流と伝えられている... 肥後の戦国時代における国人領主のひとりとして知られる合志氏は、宇多源氏佐々木氏流と伝えられている。しかし、合志氏の場合、藤原姓菊池氏流合志氏、中原姓竹迫氏流合志氏、そして佐々木氏流合志氏の三つの系統があったと『合志川芥』に記されている。菊池系図によれば、「経隆-経明(合志五郎)-高明(菊池四郎、又は合志四郎)」とみえているが、南北朝の早い段階に断絶したようだ。 ところで、佐々木合志氏は系図によれば、佐々木四郎高綱の子重綱の後裔ということになっている。すなわち、重綱の後裔四郎左衛門長綱は、正応三年(1290)三月の浅原八郎為頼の乱に与して比叡山に逃れた。比叡山座主法燈僧正は密かに長綱を匿って、延暦寺領の肥後合志郡に遣わし寺領奉行とした。そして、長綱は現地に赴き、合志郡真木村に住んで合志と称したというのである。 一方、『肥後国志』によれば「佐々木四郎左衛門尉長綱、大友氏の裁許によりて当国に下向