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武家家伝_浪岡氏
北畠顕家を祀る霊山神社は「笹竜胆」を神紋としており、ご子孫の北畠誠悟様からも「笹竜胆」との情報を... 北畠顕家を祀る霊山神社は「笹竜胆」を神紋としており、ご子孫の北畠誠悟様からも「笹竜胆」との情報をいただいた。また、『応仁武鑑』では行岳(浪岡)氏の家紋は「笹竜胆車」となっている。一方、『姓氏録』には「北畠氏、幕紋は割菱也」とあり、伊勢の北畠氏は割菱を用いていた。そして、浪岡氏の子孫では「丸の内に割菱」を用いる家が多いという。 中世の津軽郡浪岡に拠って「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏は、南北朝時代初期に奥羽南朝方の中心人物として活躍した北畠顕家の後裔と伝えられている。いわゆる村上源氏ということになる。 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、元弘三年(1333)、東国武士の勢力基盤である奥州・出羽を鎮撫する任に義良親王を任じ、北畠親房・顕家父子にこれを補佐させた。顕家は従三位・陸奥守に叙任され、元弘三年十月、義良親王を奉じて陸奥へ下向した。一方、京では後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足した。 奥州