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「小栗判官」とは何だろうか~説教「をぐり」の世界:「小栗判官」
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(TOP) (戻る) 吉之助が浄瑠璃をもう一度読む・Ⅰ 「小栗判官」とは何だろうか~説教「をぐり」の世界 ... (TOP) (戻る) 吉之助が浄瑠璃をもう一度読む・Ⅰ 「小栗判官」とは何だろうか~説教「をぐり」の世界 *本稿では「吉之助が浄瑠璃を読む」というシリーズの第1編として説教「をぐり」を取り上げます。いくつかの浄瑠璃作品を逍遥するなかで、語り物(物語を説き聞かせる行為)としての浄瑠璃を考えることを目的としています。 1)餓鬼阿弥について 『世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。子供の頃は、道頓堀の芝居で、年に二三度見かけたのが、小栗物の絵看板であった。ところの若い衆の祭文と言えば、きまって「照手車引き近江八景」の段が語られたものである。芝居では、幾種類とある小栗物のどれにも「餓鬼阿弥」の出る舞台面は逃げていた。祭文筋にも、餓鬼阿弥の姿は描写していなかった。私どもも、私より古い人たちも、餓鬼阿弥の姿を想い浮かべる標準をば持たなかったのである。だから私どもは、餓鬼阿弥