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ブックマーク / azumy.hatenablog.com (9)

  • 吹奏楽男子や合唱男子は本当にモテるか - 深く考えないで捨てるように書く、また

    面白い記事が匿名ダイアリーにあった。 非モテ男子予備軍の君へ 要約すると、吹奏楽やると意外と彼女ができるもんだよ! ポイントは「女子と男子の比率とその土壌」(リンク先記事より)だよ! という話。思わず「あるある、かも!」と手を叩いてしまった。 私は大学時代、大学の合唱団サークルに所属していた。ここで見た様子が、まさにそんな感じ。非モテが云々、というのはよくわからないが、団内カップルというのは比率的に多かった。団内同士ではないけれど、交流のある他団の人と交際している、という人もいて、交際している相手がいるが合唱とは全く関係ない、という人は正直言って少なかった*1。 吹奏楽に限らず、合唱や他の楽器(室内楽など)の音楽アンサンブル系の部活・サークルでは、男子がもてやすいかどうかはともかく、男子と女子の間の障壁は低くなるな、というのは実感として思う。その理由を考えると、おそらくこんなふう。 音楽

    吹奏楽男子や合唱男子は本当にモテるか - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fuji_hajime
    fuji_hajime 2007/11/29
    だから、合唱やってたけどなかったっつーの/id:p_shirokumaさん、後半同意
  • なにも言わない幸せ - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ブログを書いていると、つい頭の中で思ったことを次から次へと言葉にしてしまいたくなるけれど、当は別にそんなしゃかりきになって言葉にしなくてもいいんだな。 思いついたけれどそのまま流してしまってなかったことにしてもいいし、そうすることはなんらもったいないことでも残念なことでもない。 このダイアリーのタイトルは「深く考えないで捨てるように書く」だけれど、深く考えないで捨てて、そのまま書きも言いもせずに終わってしまってもいいんだよな。 言わないことで腹がふくれてしまうこともあるが、言わなくても腹がふくれないなら、別に言わなくてもいい。 twitterやブログやはてなブックマークのリストなどを見ていると、なんだか言えることは全部言わなくちゃいけないような、言うべきであるような気になってしまうことがあるが、そんなはずはない。ない。と、ちょっと自制する。 そしてホッとする。

    なにも言わない幸せ - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fuji_hajime
    fuji_hajime 2007/11/09
    「言わないことで腹がふくれてしまうこともある」
  • おばさん関連のメモ - 深く考えないで捨てるように書く、また

    http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071105/1194266672 「おばさん」に関する話の続きだが、こちらを読んで、あ、それそれ、と思ったことがあったので、メモとして。 まだまとまらないメモなので、トラックバックは送りません。 さて、内実はジタバタなのであるが、表向き「♀やめました」を宣言するとしたら それは一体誰にどんな効果を期待して言うのだろう? おばさんであることと女を捨ててることは何が違うのだろう? それらは「かわいい」とどういう関係にあるだろう、、、ということでもこれから考えてみたいと思います。 http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071105/1194266672 その1。 「おばさん」になる=女をやめます、ということだととりあえずすると、その方向は自分自身に対して、と、他者に対して、の2つのベクトルをもつ。 現

    おばさん関連のメモ - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fuji_hajime
    fuji_hajime 2007/11/06
    10代前半で「オッサンくせぇ」と言われ、20代で「しゃべりや仕草がおばちゃんw」と言われた私はどうすれば(何
  • 早くおばさんになりたかった - 深く考えないで捨てるように書く、また

    http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071029/1193662554(主にコメント欄) http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071030/1193745937 こちらを読んで、つらつらと。主に自分語り。 以前、ここでこんな記事を書いたことがある。 「女らしくしたくない」女のとる、もう一つの道 - 深く考えないで捨てるように書く 私は10代の頃から、早く「おばさん」になりたいと思っていた。 「おばさん」になれば、女として競わなくてすむから、と思っていた。 10代女子は、ただ10代女子というだけで、自分の望むと望まざるとに関わらず、女として評価を受ける場に置かれる。容姿のことだけでなく、性格の傾向やいわゆる「女らしさ」、見合いの釣書に書かれるようなこと(家庭的だのなんだの)に対して。これから生殖適齢期に向かう生物としては当然のことで

    早くおばさんになりたかった - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 「○○ー!」と呼ぶ - 深く考えないで捨てるように書く、また

    人を呼ぶときに、「○○ー!」と名前しか呼ばない人がいる。 一方、家の中で人を呼ぶときに、「○○ー、ちょっと来てー!」と呼ぶ人がいる。 「○○ー!」とだけ呼ばれたとき、「はーい、なにー?」と言いながら、そちらへ向かう人がいる。 「○○ー!」とだけ呼ばれたとき、「はーい」とだけ言って、そのまま次の言葉を待つ人がいる。 「はーい」と言われたとき、また「○○ー!」とだけ呼ぶ人がいる。 「はーい」と言われたとき、「○○、ちょっとこっち来て」と言う人がいる。 「はーい」と言われたとき、何も返事しない人がいる。 「はーい」に対して何も返事しない人は、おそらく、「呼んだんだから、すぐに来ればいいじゃん! 来りゃわかるんだし」と内心ブチ切れているのだろう。 「はーい」としか返事しないほうは、おそらく、「名前を呼んだだけで、どうしてほしいか言ってないんだから、こっちはとりあえず聞こえたよ、という意味で『はーい

    「○○ー!」と呼ぶ - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 違う人間≠敵対する人間 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    私とあなたは違う人間。あなたと私は違う人間。私と他人は違う人間。 これは当たり前といえば当たり前なのだけど、これを安定して受け入れるためには、それなりの基盤が必要なんだろうと思う。 言うなれば、違う人間=敵対する人間、ではない、という認識。 この認識は双方向ある。一方向は、自分と異なる考え方、感じ方をする人に対して、それは違ってる、よくない、だめだ、と攻撃する必要は必ずしもない、ということ。*1 もう一方向はその反対。自分と異なる考えや感じ方をもつ人はすべて、常に、自分を攻撃してくるというわけではない、ということ。 自分が何か意見を述べたとき、「自分はそうは思わない。かくかくしかじかと思う」と言われたとする。「ああ、そうか、あなたはそう思うんですね。私と違いますね」と返す。 なんらかの結論を出さねばならない議論のように意見のすり合わせを行う必要がない場合は、これで済んでしまうはずなのだが、

    違う人間≠敵対する人間 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fuji_hajime
    fuji_hajime 2007/10/03
    そういう「基盤」を構築し損ねるとどうなるかって話を昨日読んだのでブクマ。
  • 自分の内の快感・不快感と向き合う:続き - 深く考えないで捨てるように書く、また

    前回の記事の続き。 快感・不快感というのは、理屈や論理ではなく、感情あるいは感覚だ。時として、思想や倫理や事前の思惑とは全く別の次元で生まれてくる。 喜び、悲しみ、楽しみ、怒り、その他の感情は、意外と現実の現象とリンクさせやすい感がある。感情自体は自然に不作為に生まれるが、自分でも、こういうことが起これば嬉しい、こういう事柄には怒りを感じる、というような学習が比較的容易だ。 快・不快というのはもうちょっとプリミティブで、感情というよりは感覚に寄っている。思いもかけないことでスカッと心地よくなったり、逆にこんなことで? と思うようなことでひどく不愉快になったりすることもある。そのぶん、こういう状況なら快、こうなら不快、と予測することが比較的難しいように思う。 そのぶん、今現在自分は快に感じているのか? あるいは不快に感じているのか? ということを、折々に自分自身に問いかけながら、心の中を探索

    自分の内の快感・不快感と向き合う:続き - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 幼児の「女の子らしくしたい」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    最近つらつらと考えているのは、人はいつから男/女になって、いつから男/女でなくなるのか、ということ。 もちろん、基的には受精した瞬間からオスかメスのどちらかに決まっていて、この世に生まれた瞬間からオス=男、メス=女ということになって、生きていく。ヒトは性染色体の異常がない限り(表現形と一致しない場合はあるが)オスかメスのどちらかで、性染色体の異常がある場合でも、表現形としてはオスかメスかどちらかになる。 一方では、心理的に男でも女でもない時期というのもある。小さな赤ん坊は、自分が男であるか女であるか分からない(それ以前に人であることもまだ分からないのだが)。自分の経験や観察からは、だいたい3歳くらいで男と女には違いがあることに気づき、自分はそのどちらであるか自分なりに規定する、という感じのようだ。2歳ではまだそのあたりの区別はあまりついていない。しかし、この3歳の時点ではまだ単なる区別で

    幼児の「女の子らしくしたい」 - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また

    属性を嫌ったり憎んだりするのは、実は楽なんだ。その相手人と直接対峙しなくて済むから。 この歳になると、ひと人と対峙することがそう苦痛でなくなって、誰かを嫌ったり憎んだりすることも自分自身の重荷として直接自分で担えるようになったから*1、属性だけで判断しないようにしよう、という心がけができるようになった。しかし、やはり若いころというか、思春期にはなかなかそうはできなかった。 男は云々。大人は云々。社会は云々。etc. レッテル貼りともちょっと違う。レッテル貼りは、まずそこに一人の人がいて、その人をジャンル分けしてそのジャンル・属性で判断する、という行為。 属性を嫌う、憎むのは、そこに人がいてもいなくても、その属性自体に対して判断している。つまり、実際に存在する人を嫌ったり憎んだりしなくても済む。 人を嫌ったり憎んだりするのは、やはりネガティブなエネルギーを発するものだし、それに伴う罪悪感

    属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また
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