エッダ、サガに登場する粗野でたくましい死者のイメージは、中世後期の『黄金伝説』『奇跡をめぐる対話』では、生者に助けを求める哀れな姿となる。その背景には何があったのか? キリスト教と「贖罪規定書」そして告解の浸透……。「真実の告白が、権力による個人形成の核心となる」(M・フーコー)過程を探り、西欧的精神構造の根源を解き明かす。(講談社学術文庫) ミシェル・フーコーは、ヨーロッパにおける「個人」と「権力」の関係についてこう述べています。 「個人としての人間は、長いこと、他の人間たちに基準を求め、また他者との絆を顕示することで(家族・忠誠・庇護などの関係がそれだが)、自己の存在を確認してきた。ところが、彼が自分自身について語りか得るかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という手続きの核心に登場してきたのである」
一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第四十三号]社会史とはどういう学問か 一橋大学社会学部教授 阿部 謹也 はじめに 本日は大変名誉ある会に御招待をいただきましてありがとうございました。 いまお話しがありましたように社会史という学問は、戦前から名前としてはございますが、例えば、三木清、本多謙三、林達夫氏らの「社会史的思想史』あるいは喜田貞吉さんなどが社会史という言葉を使っておられますけれども、いまわれわれが考えている社会史という学問はごく最近、せいぜいこの二十年ぐらいの間に起こってきたものと言って差し支えないかと思います。 歴史をさかのぼれば戦前までいくのですけれども、日本では比較的新しい学問です。そして社会史について語るとなると大変むずかしい問題があるわけです。 例えば、増田四郎先生もごく最近岩波書店から『ヨーロッパ中世の社会史』という本を書かれております。そのほかに社会史と名を付けられた
「平和喪失の宣告とは、誰でもその人間を殺してもかまわない、つまり彼を守る者は誰もいないという状態におかれることで、国の中に住むところがなくなるのです。つまり小宇宙に住むことが許されず、森に逃げていかねばならないのです。このような平和喪失者を当時の言葉でヴァルグス Wargus といいますがこれは狼を意味し、狼のように人間に追い立てられ、誰が殺してもかまわない存在になったことを示しているのです。」 「平和喪失の宣告をうけることは死の宣告に等しかったのです。(中略)彼は小宇宙をはなれ、その瞬間に死者の世界に足を踏み入れるのです。ときには狼の頭をかぶせられて追放された例もあります。「人間狼」は小宇宙から大宇宙へ追放された人間なのです。」 (阿部謹也 『甦える中世ヨーロッパ』 より) 阿部謹也 『甦える中世ヨーロッパ』 日本エディタースクール出版部 1987年7月30日 第1刷発行 1991年3月
「しかし社会史の研究においてはちゃんとした人間だけが対象となるのではない。(中略)われわれはジプシーの世界を観察することを通じて、ヨーロッパの民衆の世界をみなければならないのである。これほど長い間、現代にいたるまでヨーロッパ世界のほとんどすべての人びとから賤視されつづけてきたジプシーの目には、ヨーロッパの定住民の側に立つかぎりみえない何かがみえていたに違いないからである。」 (阿部謹也 「ジプシー」 より) 阿部謹也 『中世を旅する人びと ― ヨーロッパ 庶民生活点描』 平凡社 1978年6月14日 初版第1刷 1979年11月9日 初版第10刷 251p あとがき2p 文献目録vi 口絵(カラー)2p 20×15.5cm 角背紙装上製本 カバー ビニールカバー 定価1,900円 装幀: 勝井三雄 本書「あとがき」より: 「『月刊百科』に連載した「中世庶民生活点描」を集めて一書とした。新た
阿部謹也(参照)の訃報を聞いた。七一歳だったとのことなので、報道通り急性心不全なのだろう。書架を見ると「ハーメルンの笛吹き男」(参照)も「中世を旅する人びと」(参照)もない。ニューアカ関連の本と一緒にごそっと捨ててしまったか何度かの引っ越しでこの手の本はがさばるから処分したか。自分はアカデミックな人生を歩むことはなかったが、今の歳になって読み返すといろいろ思うことはあるかとぼんやり思った。 と、書架の新書のところに阿部謹也の文字があった。「いま「ヨーロッパ」が崩壊する―殺し合いが「市民」を生んだ」(参照)である。阿部の講演部分を読み返した。昨晩なんとなく読んでいた別の本との連想で少し物思いにふけった。 NHKでも田中角栄という人が訴えられたときとたんに、容疑者になりました。それまでは「前首相」とか「元首相」と言っていたのが「田中容疑者」と言いはじめた。 日本語には「ミスター」とか「ミス」「
僕にとってゼミとは大学生活のすべてといってよいほどのものである。大学生活や大学の勉強を語る上で、自分が経験したゼミを抜きに議論することはできない。そこで、少しまとめて書いてみよう。この記事は大学2年のゼミの思い出だ。 ゼミ旅行の記事でも書いたが、一橋大学はゼミの結束力が非常に強い。僕が学部生時代だった20年前にすでに1・2年を対象とした基礎ゼミがあったし、3・4年ともなれば全員がどこかのゼミに所属する。講義は1度も出なかったが、ゼミは1度も欠席しなかったというものがごろごろいるくらい、大学生活はゼミ中心の生活になる。一橋大学オリジナルの言葉もある。「ゼミテン」とはゼミのメンバーのこと(ゼミナリステンつまりゼミ生のドイツ語の略語のことか?)。ゼミの幹事は「ゼミ幹」、ゼミのコンパは「ゼミコン」。「ゼミ合宿」は当たり前のように行われ、神戸大・大阪商大・一橋大の「三商大ゼミ」は毎年どこかの大学の持
1. 著作 『阿部謹也著作集』東京 : 筑摩書房, 1999-2000. 10冊 第1巻『ハーメルンの笛吹き男 ; 中世の星の下で』東京 : 筑摩書房, 1999.11 【2300:255:1】 第2巻『刑吏の社会史 ; 中世賤民の宇宙』東京 : 筑摩書房, 1999.12 【2300:255:2】 第3巻『中世を旅する人びと』東京 : 筑摩書房, 2000.1 【2300:255:3】 第4巻『中世の窓から ; 逆光のなかの中世』東京 : 筑摩書房, 2000.2 【2300:255:4】 第5巻『甦える中世ヨーロッパ ; 西洋中世の罪と罰』東京 : 筑摩書房, 2000.3 【2300:255:5】 第6巻『西洋中世の男と女 ; 西洋中世の愛と人格』東京 : 筑摩書房, 2000.4 【2300:255:6】 第7巻『「世間」とは何か ; 「教養」とは何か ; ヨーロッパを見る視角』東
お久しぶりです。 書評を書けない日々が続きました。読書が断片的になっていたのです。勿論、断片的な読書が悪いわけではありません。それは生きてゆくうえで、必要な様式です。 感想が持ちにくい読書もまた然りです。それもまた人生に欠くべからざる、ある動作(たとえば経済活動)をするために全く有効なものです。軽んずべからざるものです。 しかし、やはり、一冊の本を、自分の魂のような、心のような、思いのような、そんなものを揺らがせ、戦がせ、ざわめかせ、燃え上がらせ、ふと想いより我に返ったりしながら読むのはやはりいいものです。生きる目的足りえる、優れて人間にしかできない営為です。 さて、私は表題の書「自分のなかに歴史をよむ」と言う、一冊のちくま文庫を数日かけて読みきりました。200ページ強の文庫本ですから、入門書的な人文書ならば数時間で読める本です。昔の自分なら展開が楽しみで、すぐに読んでしまったでしょう。
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