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ブックマーク / finalvent.cocolog-nifty.com (590)

  • [書評] ケマル・アタチュルク (小笠原弘幸): 極東ブログ

    中公新書の新刊とされている『ケマル・アタチュルク』の表紙を見たとき、ほんの数秒だが、私にはちょっとした混乱があった。「あれ?改版したのかな」と勘違いしたのである。「ケマル・アタチュルク」という表題のインパクトが強く、その上部に記されている著者の小笠原弘幸氏の名前にふとした失念があった。が、すぐに、「ああ、『オスマン帝国』の小笠原さんか」と思い出しつつ、書を開いた。 冒頭、「トルコ共和国の首都、アンカラ。その丘のひとつに建立された、巨大な廟がある。」と読むや、私も見た、壮大なアタチュルク廟の思い出が蘇った。 書を見たときの、この、自分の、わずかだが、混乱の理由は、「すでに中公新書には大島直政氏の『ケマル・パシャ伝』があるではないか?」と連想したからである。勘違いである。それは新潮選書であり、大島直政氏の中公新書の書籍は『遠くて近い国 トルコ』である。この新書は1968年の刊と古く、先の新

  • 初詣を見に行った: 極東ブログ

    初詣を見に行った。初詣に行ったのではない。初詣してもいいかなとは思うし、たまに行くことはあるが、三が日が明けてからのことだ。人出が嫌いなのである。三が日だと、どこへ行っても初詣なんか無理だなあというくらい人が並んでいる。 では、まあ、初詣ではなく、初詣の人を見に行くかと出かけたのである。さて、どこへ。都心側は混むから郊外がいい。というか、東京の逆方向がいい。大宮なんかもいいが、ここはここで混むだろう。地図を見ながら、そういえばと、拝島大師を思い出した。だるま市が立っているはずである。 行ってみた。混んでいた。幸い、拝島大師はけっこう広いので、ラッシュアワー状態というか、明治神宮お馴染みレミング風行進もそれほどない。賑わいを見て回るうち、観音堂が意外と閑散としていたので、詣てきた。なーんだ、初詣じゃないか。 それにしても、元旦、三が日とどうしてかくも、初詣客で賑わうのだろう。日人は無宗教と

  • [書評]森有正先生のこと(栃折久美子): 極東ブログ

    大人にしかわからない上質な苦みのある、美しく同時に醜悪な恋愛小説のように読んだ。五十五歳の知的な男に三十九歳の才能のある女が十年ほど恋をする物語。さりげないフレーズに当の恋愛にはこの感触があると何度も煩悶のような声が自然に喉を突く。恋愛といっても、肉体的な交わり……少なくとも肉体の哀しみと歓びは表向き描かれていない。その契機が存在してなかったようにも読める。が、この物語の質はキリスト教のいう肉、サルクスというものの、胸引き裂かれるような絶望感にある、と思う。 小説ではない。森有正という男と栃折久美子という女の現実の物語だ。私もこの物語のある重要人物を知っていたので、この物語のごく一部だが魔法のように織り込まれたような感覚を味わった。しかし森有正という男を知らない今の日人でも、大人ならこの物語の味わいがわかるのではないか。と、自分がさも大人であるかのように書くのだが、そういう大人とは大

  • 昨今の年金問題の発生源を探してみたら、なんだこりゃ案件だった: 極東ブログ

    6月3日に発表された金融庁審議会の報告書が火元になって、老後の生活費は年金では足りず、老後の30年間のためには各人が二千万円の蓄えが必要だ、という話題になり、国は国民の生活を守らないのかうんぬんプンスカ、という話題になっている。そしてさらに、有識者に報告書作成を依頼する立場の麻生金融担当相が、これじゃ国民に誤解と不安を与えるから報告書を受理しない、とし、なんだその無責任さはプンスカ、という話題にもなった。かくしてネットにはこの話題がいろいろ広がり、まあ、いろいろ意見もあるようだ。 私としては、19年間近くもブロガーやっているので、さーて、こうした炎上案件では第一次資料を見るかなと、見てみた。『金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書』である。副題は「高齢社会における資産形成・管理」である。発表日は令和元年6月3日である。冒頭はこう。 はじめに 近年、金融を巡る環境は大きく変化している。例

  • 詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人: 極東ブログ

    今朝、Googleを見たら、ウマル・ハイヤームみたいな人の絵がある。 右手で幾何学、左手にぶどう。数学者でもあり詩人でもありということの表現だろうか。そもそもウマル・ハイヤームかなと、リンク先を見たらWikipediaの「ウマル・ハイヤーム」の項目に飛んだ。読むと、詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という記載はなかったように思う。日だけ知識が遅れているのかと、自分が理解できそうないくつかの言語の項目も見たが同様だった。もしかしてペルシャ語のならと、自動翻訳で見ただけだが、やはり詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という話はないようだった。通説ではないんですかね。とか言うと、とんでも歴史を素人が書くんじゃないと歴史学者に知られてしまうだろうか。 詩人のウマル・ハイヤームと数学者のウマル・ハイヤームは別人という話は以前、このブログにも書いた。放送

  • 紅茶についての些細な話: 極東ブログ

    私は紅茶好きなのでこのブログにも紅茶の話はなんどか書いているが、紅茶の話とかそれほど詳しいわけではない。が、先日、ちょっと人に紅茶の話をしたおり、結果としてうんちくのような長い話になってしまった。で、こういうのブログにちょっとまとめておいてもいいのかもしれないと思った。とはいえ、思いつくまま。 紅茶をいれるゴールデンルールに疑問 紅茶の話でよくゴールデンルールというのが出て来る。これはけっこう疑わしい話だなと思っていた。どのあたりが疑わしいかというと、ジャンピングというあたりである。ジャンピングというのは、ゴールデンルールに従って紅茶をいれると、ティーポットの中で茶葉が対流のように上下運動するというのだ。これがあたかもジャンプのようにも見える。これによって、茶葉の一片一片にお湯が混ざり、おいしい紅茶になるという。ガッテンでもやっていた。 この話がなぜ疑わしいかというと、ダストとか細かく砕い

  • 「令和」の違和感: 極東ブログ

    「令和」の違和感について、2点ほどブログに書きこのこしておきたい。最初に言っておくと、この新元号をくさす意図はないので、ご安心をというか、ご期待に添えずというか。 なぜ、「令和」は「れいわ」で「りょうわ」じゃないのか まず第一点目に、なぜ、「令和」は「れいわ」で「りょうわ」じゃないのか? 自分も当初疑問に思ったし、ネットでも疑問の声があるわりに、解答がないので、解答を書いておこうと思った。では解答。 「令」の字に「りょう」という読みはありません というのは、ブログっぽい釣り風味なんで、正確に言い直そう。 「令」の字に常用漢字表では「りょう」という読みはありません そう。ないのだ。 日政治制度の基となった「大宝律令」は、「たいほうりつりょう」。これは、小学生でもそう学ぶと思うので、「令」は「りょう」という読みがあるのは知っている人が多い。 しかも、万葉集の時代、奈良時代の漢字は、呉音で

  • 新元号決まる: 極東ブログ

    毎年4月1日のブログには馬鹿話を書くのが恒例だった。今年も結局そんなことになるだろう。 さて、新元号が決まった。蓋が開いてみれば、なるほどという思いと、意外という思いがあいなかばというところだった。 予想していたかというと、予想できなかった。新元号名はローマ字でKで始まる音から選ばれるとして絞り込んでしまったのが、敗因というか、失敗だった。明治・大正・昭和・平成としてM・T・S・Hなので、濁音は嫌うだろうし、Nは紛らわしいので、KかRだろうと予想したが、Rは日語になじまないだろうと思ってしまった。 まったく予想できなかったかというと、蓋を開けてみればわかるが、出典に万葉集が来ることは予想可能だった。3月19日朝日新聞『新元号、初めて日の古典由来に? 漢籍とのダブル説も』のような誘導はあった。 今回の改元で政府は、複数の国書の専門家に内々の考案を依頼。政府が数案に絞り込む前の段階の20案

  • ただ恋があるだけかもしれない: 極東ブログ

    LGBTは、性的マイノリティー(性的少数者)とも見られることがあるが、定義上は違うようだ。概念的には、性的マイノリティーのなかにLGBTが含まれるのだろう。では、その差分は何か。あるいは、LGBTにさらにIやQをつなげてその概念を拡張することもあるようだが、その拡張が性的マイノリティーに至るのかというと、そう考えられるわけでもないだろう。とすれば、ある理想形としての差分がありそうにも思える。それはBDSMなど性的な嗜好を指すのかもしれないが、そもそもBDSMを性的な嗜好という嗜好の概念で捉えてよいかもわからない。PTSDなど何らかの要因が表面的に嗜好のように見えるものを形成しているだけかもしれない。映画『愛の嵐(Il Portiere di notte)』を連想するように。意外とこの問題は難しい。 と書き出して、私は遠回しになにか異論を述べたいわけではない。 あるいは、異論ということではな

  • ブログで語るということ: 極東ブログ

    事実上ブログを休止していた前の出来事になるのか、目黒での女児虐待死事件はあまりに痛ましく、というか、自分のトラウマのスイッチを押してパニックになりそうなくらいだった。ブロガーとしておよそ何か言及できるもんじゃないなと思っていた。ちょっと誇張するけど、ブログ休んでいるとこの問題について書かなくて楽、という感じもしていた。あれから、三ヶ月ほどたち、世相の話題からもあらかた消えたかにも見えるが、自分の心はというと、あまり変わらない。ただ、少し間接的に触れてみたいことがある。 そういう思いがしたのは、イミダスというサイトの「女児虐待死事件から感じた危険な空気」(参照)というコラムを読んだことからだった。冒頭、ああ、それな、と思ったのだった。 2018年3月に東京・目黒で起きた女児虐待死事件。児童相談所が関与していたにも関わらず、5歳の少女の命を守れなかったこの事件を受けて、児童相談所の虐待情報を警

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2018/07/04
    「見渡す範囲に人はいても誰にも語れない何かを抱えてしまったら、どうしたらいいのだろうか」
  • 日の丸についてのトンデモ私説: 極東ブログ

    最初にお断りしておくが、以下はトンデモない話であって、きちんと主張しているわけではない。いつかきちんと主張したいと思っていたが、関心も薄く成りつつあり、関連蔵書は処分したし、貯めていた資料ももう散失してしまった。もう自分の人生で展開する機会もない。ただ、余興みたいにブログに書いておくくらいはいいだろう。 日の丸とは蛇の目(ジャノメ)である。それが私が日の丸について二十代の後半に考えた推論で、大筋では吉野裕子の学説と絵巻の史学的な考証でなんとかなるかなと思ったが、その後の民俗学の動向を見ていると吉野裕子学説はあまり顧みられているふうでもない。が、アマゾンを見ると復刻は多く、読者は少なくはないのだろう。 蛇の目というからには蛇の古代信仰に関連する。ということで「日人の死生観―蛇・転生する祖先神」(参照)や「蛇―日の蛇信仰」(参照)が主要著作になる。これらは詳細にはいろいろ問題があるだろうが

  • コーラン(クルアーン)の背景を考える: 極東ブログ

    今週のニューズウィーク日語版「神の啓示につけた疑問符」関連を書く。 ニューズウィークは所詮米国系の雑誌なのであおりは「殉教者に与えられるのは『美女』ではなく『ブドウ』、コーランの誤りを大胆に指摘した新著が呼ぶ波紋」ということになる。著書は"Die Syro- Aramaeische Lesart des Koran. Ein Beitrag zur Entschluesselung der Koransprache(Christoph Luxenberg)"である。記事のオリジナルタイトルはこうだ。 "Challenging the Qur'an: A German scholar contends that the Islamic text has been mistranscribed and promises raisins, not virgins" というわけで、「コーランの誤

  • 森友問題の現状についてブロガーのいち見解: 極東ブログ

    森友問題の現状について、自分の考えを、アウトラインだけだが、まとめておきたい。自分の考えが正しいとも、強く主張したいというものではない。当然、異論は多いだろうと思う。また、誤認もあろうだろうと思う。あくまで、こういう考える人がいるという程度のものである。ブログというのは、その程度のものである。なお、森友問題の解説記事ではないので、基的な説明は含めない。 昭恵夫人の関与はないだろう 昭恵夫人の活動は賛同できないものが多いが、今回の件では、構図的には籠池容疑者に利用されただけで、経緯を見る限り彼女の影響力があったようには見えない。また、今回削除された文書での彼女の名前の記載も籠池容疑者の伝聞に過ぎない。彼女を国会に呼ぶ理由は現状ではない。 政治家の関与はあったかは個別には不明 文書の削除部分にある政治家についても概ね関与はないと思われるが、各政治家の個別の背景についてはわからない。が、安倍首

  • [書評]さまよう魂(ジョナサン・コット): 極東ブログ

    邦訳「さまよう魂 ラフカディオ・ハーンの遍歴」(参照)が出版された1994年にざっと目を通していた記憶があるが、この年沖縄出奔など私事いろいろなことあり、そうした記憶に埋もれてしまっていた。ラフカディオ・ハーンほどではないが、自分もさまよう人生になりそうだなと思っていた。先日「極東ブログ: [書評]転生 古代エジプトから甦った女考古学者(ジョナサン・コット)」(参照)でも触れたが「転生」を読んだ後、こちらのも続けて読んだ。非常に面白かった。 書はラフカディオ・ハーンが日に至るまで、新聞記者として書いたコラムが数多く掲載されている。アンソロジーの趣向もある。前世紀のシンシナティ、ニューオーリンズの情景も米国という国の理解を深める点で興味深い。また、マルティニークの描写にも心惹かれる。 引用というのは長すぎる随所のラフカディオ・ハーンのコラムだが、読み続けていくうちに、コットがラフカディ

  • 梅を見に百草園に行ってみた: 極東ブログ

    そうだな、梅を見に行こうかなと思った。梅を見るのがそれほど好きというものでもないし、私も年を取ったのだけどこれは年寄り趣味というほどでもないつもり。それに梅の花を見るだけなら、けっこう東京各所にあったり、少し郊外に行けば梅の畑みたいなのもあり、そこは満開。逆にいうと、梅畑みたいじゃないほうがいい。それに梅というのは、花や香り以外に枝ぶりを見るものだし、と思い巡らしていて、そうだ、百草園に行こうと思った。随分昔に行ったことがあるように思うのだけど、しかと記憶にない。ついでに近くの高幡不動にも行こうかと思ったが、結局、そこは行かず。 百草園は梅の名所である。だから梅を見に行くという単純な話でもある。いろいろな梅もあって楽しい。場所は、東京の郊外、多摩地域にある。新宿からは京王線。京王八王子線の急行に乗って聖蹟桜ヶ丘駅で各駅停車に乗り換え一駅で、百草園駅に付く。すごくべたな駅名だから、駅から降り

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2018/03/08
    なんどか行ったことがあり、たしかに坂がきつい。そのかわり眺めはすごくよい。廃仏毀釈のくだりは初めて知る。
  • 「お前は安全圏から発言するな」について: 極東ブログ

    賛否が分かれる社会問題に言及すると、その言及の賛否のスペクトラムに対応して反論が生じるのはしかたないし、それが現在の、表面的に匿名のネット利用者の世界だと、言論の責任が曖昧な罵詈雑言的な状態になるのもしかたないとは思う。となると、何を言ってもこうした問題は敵対関係に置かれるので、そこまでしてブログなんていうものをする意味があるのかということにもなる。これは昨年の休止期間にも考えた。「ないんじゃね」とかなり思っていた。今はどうかというと、よくわからない。でも、僕はブログを書き続けようかとは思いなおしつつある。と、前置きはしたものの。 こういう状況で、ある、ひとつの典型的な揶揄がある。「お前は安全圏から発言するな」というものだ。まあ、これは共感しないではない。私は1994年から8年ほど沖縄県民であの、少女レイプ事件からの激動の時代を過ごしたが、沖縄県民となってみて、しかもそれなりに沖縄の地域社

  • ためらいながらではあるけど: 極東ブログ

    人と限らず多くの人がフィギュアスケートの羽生結弦選手の活躍を賞賛しているなか、こういう意見を述べるのも、悪意のように取られるのではないかと恐れるが、自分としては若い選手の将来を思ってこういう意見もあるという、一つの小さな例として、ためらいながらではあるけど、書いておきたい。繰り返すが、こう思う人もいるというくらいの些細なブログ記事であり、強く望むという大それた主張ではないし、私はたぶん間違っているのだろうという疑念もあるので、そこは理解していただきたいと願う……私は羽生結弦選手は平昌冬季オリンピックに出場しないほうがよかったと考えていた。 理由は、NHKスペシャル『羽生結弦 五輪連覇への道』を見たおり、昨年11月の怪我が深刻なものに思えたからだ。同番組では「自らの限界を超えて五輪に挑もうとする羽生結弦」というトーンで推していたが、そしてそれ自体はスポーツ選手として素晴らしいことではある

  • [書評] 歳月がくれるもの まいにち、ごきげんさん(田辺聖子): 極東ブログ

    「神」という言葉に人はいろいろな意味を与える。日人の場合は、西洋キリスト教あるいはイスラム教のような絶対神は、随分と欧風化したはずの若い世代にもなじまない。というか、戦後70年以上も欧風化を続けているはずの日なのに、それが日にはなじまないという歴史を築いて来た。それがいいことか悪いことかわからないし、そもそもそういう問題でもないのかもしれない。他方、日人にとって「神」というのは、八百万の神のように、あるいはギリシア神のように基的に多神教的な神である。さらにネットでの用法では(これは現代米国などでも同じ面があるけど)、「ありえないほど優れた人や、自分にとって奇跡的にベネフィシャルな人」という意味もある。いずれも絶対神的な観点からは、聖人に近いだろうが、「人」にすぎない。それでも、と、私は日人として歳を取ってきて思うのは、そういう日的な神になじむわけでもないが、ある種の人生の知恵

  • [書評] キリスト教は役に立つか(来住英俊): 極東ブログ

    教会に通うこと絶えて久しいという年月を重ねていたが、昨年は何度か教会に通った。自分が通い慣れた教会以外へも行った。なかでもカトリックのカテドラル関口教会と聖イグナチオ教会が印象深い。正直に言えば、キリスト教的な関心よりも、パイプオルガンの音に魅せられたためである。が、結果としてごミサに参加したのも深く心に残った。 若いころ聖書やキリスト教を学んで、それなりにキリスト教には詳しいつもりでいたし、そのころは教会にも通い讃美歌などもいくつか自然に覚えたものだが、振り返ってみるとその讃美歌からして日基督教団的であり、関連する神学も基的にプロテスタント神学だった。海外でも教会を見て回ったりしたが、多くは正教の教会で、カトリックの教会も見学したりごミサを傍観したりもしたが、実際に参加すると随分と印象が違った。まず私はカトリックの信者ではないので、聖体を受けることはできない。でも、祝福を受けることは

  • [書評] ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥): 極東ブログ

    仏教学者の佐々木閑に、仏教者と称する評論家・宮崎哲弥が、仏教とは何かといったことを問うという、出版社あるあるの対談書だろうと、『ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)』(参照)について予断をもっていた。というのも、宮崎について、もうずいぶん昔になる、というか曲がりなりにも小林よしのりのゴーマニズム宣言を読んでいたころのことだ、宮崎が仏教者であることがその漫画でおちょくられていた。小林に共感しない私ではあったが、宮崎の仏教観もヘンテコなものだなと思ったものだった。人の宗教観というのは存外に変わらないものだから、宮崎のそれも同じだろうし、佐々木も最近の国際的な仏教学を知識を淡々と語るくらいかな、いずれ私が読むような対談でもあるまいと思っていた。『ゆかいな仏教 』(参照)みたいなかなと。 が、この『ごまかさない仏教』は、そうでもなかった。おもしろい。読み進めるにつれ、勉強になってしまうのであ