意識的にAquaSKKを使ってみてつくづく感じたのは、一般のIMEとの設計思想の違い、利用時の思考の違いである。 普通、日本語入力時には平仮名で思考する。普段そんなことを意識することもまずないから判り難いだろうが、よくよく考えてみると文章を平仮名で思考しながら入力し、変換時に初めて漢字を意識している筈だ。 対してSKKでは、入力者は最初から漢字を意識して入力することを迫られる。漢字に変換駿する部分は文頭Shift入力、漢字でない部分は(送り仮名すら!)意図的に平仮名を指定する必要があるので、必然的に漢字仮名混じりで思考せざるを得ない。 これは最初かなりのストレスになる。ATOKのように長文一発変換の得意なIME利用者はおろか、文節単位での変換を前提としたことえりのようなIMEですら、漢字を分離して変換するようなことはあまりないからだ。例えば、「漢字を分離して変換」ならば「漢字を△分離して△
日々、思いついたことを書きます。 なるべく読んでくれている人の役に立ちそうなことを書きたいです。 でも、個人的なことも書きます(笑) 今回はちょっと疑問に思ったことをテーマにしてます。 それは、なぜレンタル本屋がないのか?です。 レンタルビデオ・CD店はあるのに、レンタル本屋がない。 本好きな自分としてはかなり残念なことです。 というのも本って買うのにけっこうお金がかかるからです(スバリそのものの理由) ビジネス書は1冊1500円以上するのはざら。 もし、レンタル本屋ができて1〜3泊一冊300円で貸してくれたら経済的にどんなに楽だろう。 ただで貸してくれる図書館という存在もあるのですが、注文しても借りるまでに相当な時間がかかります。(まぁ、ただだから文句は言えないですが) 自分としては、本屋と図書館の中間的な存在、レンタル本屋があったらいいのになぁと思うのです。 本屋ほどお金がかからず、図
ヤコブス・デラ・ウォラギネ『黄金伝説』2、前田敬作・山口裕訳、平凡社 「主は、マリアをとくに親しい友とされ、主をもてなす女主人、布教の旅に出たときの女執事とされた。主は、いつでも大きな愛をもって彼女を弁護された。(中略)彼女が泣くのを見ると、主も泣かれた」 「主が恵みをお垂れになったときまっさきに悔いあらためたのも、最良のものをえらんだのも、主の足もとにすわって、主の言葉に耳をかたむけ、主の頭に香油をそそいだのも、マグダレナであった。彼女はまた、主が亡くなられたとき十字架のそばに立っていたし、ご遺体にぬる香料と香油の用意もした。弟子たちが墓を立ち去っても、墓を去らなかった。また、ご復活のキリストは、まっさきに彼女に姿をあらわされ、彼女を使徒たちのもとにつかわす女使徒とされたのである」 マグダラのマリアは、神に対してあるべき人間の姿をあらわした存在と言えるのではないでしょうか。小さきもの、や
「五月雨や 大河を前に 家二軒」の「を」、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の「は」など、日本語の助詞の働きは実に繊細です。一方で、日本語と検索エンジンは相性がとても悪かったりします。今日は、助詞の用法から日本語の面白さについて考えます。 さみだれや大河を前に家二軒 (与謝蕪村『蕪村句集』) 蕪村の句、「大河を前に家二軒」がいい。「大河の前に家二軒」としたのでは、句が死んでしまう。蕪村がこの句を詠んだ時、彼の娘が嫁ぎ先から離縁されるという事態にあった。そうした苦悩がよく表現された句である。 (出典不明) 「大河を」と「大河の」。「を」と「の」という助詞の微妙の差について、鋭い指摘です。 こんな入試問題がありました。次の3つの俳句の意味の違いを説明せよ。 米を洗う前にホタルの二つ三つ 米を洗う前をホタルの二つ三つ 米を洗う前へホタルの二つ三つ なるほど、確かに違う。「前を」というと「横切る
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