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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (137)

  • 「ケ」のように見える文字の入力について

    「」のように見える文字の入力について ――青空文庫のいわゆる「ケヶ問題」―― 2007年3月19日 作成 2007年4月3日 「区点番号5-17と5-86の使い分け指針」にリンクし、誤字を訂正しました。 2008年3月9日 「増補改訂JIS漢字字典」の、5-86と5-17が記載されているページ画像を組み込み、これに関連する文言を、追記しました。 2012年1月17日 「区点番号5-17と5-86の使い分け指針」のURLの変更を受けて、導入部を改めました。 2012年2月3日 「――青空文庫のいわゆる「ケヶ問題」――」を、副題として加えました。 富田倫生 「」のような形の、二つの文字のテキスト化について、青空文庫は、「区点番号5-17と5-86の使い分け指針」を設けています。 これに変更提案が寄せられ、どう扱うかの議論が長引く中で、「ケヶ問題」という言葉まで生まれました。 ここでは、「方針の

  • 作家別作品リスト:山村 暮鳥

    1884(明治17)年、群馬県榛名山麓の棟高村(現群馬町)に生まれる。名、土田八九十。築地の聖三一神学校時代に文学に開眼、卒業後伝道師となって秋田、仙台、水戸等を転任、詩と宗教活動に没頭。先鋭な感覚表現で注目をあび、朔太郎・犀星らと「卓上噴水」「感情」で交流。第二詩集『聖三稜玻璃』の悪評、結核、失職、流浪と、不遇の日々を送る中で詩や童話・童謡を創作、人道的な作風を経て、晩年は温かい自然賛歌を平易な言葉で綴った。1924(大正13)年40歳で没。代表作に詩集『風は草木にささやいた』『雲』、童話集『ちるちる・みちる』などがある。(泉井小太郎) 「山村暮鳥」 公開中の作品 雨の歌 (新字旧仮名、作品ID:45030) 或る淫売婦におくる詩 (新字新仮名、作品ID:53952) 筏乗り (新字旧仮名、作品ID:45034) 稲かけ (新字旧仮名、作品ID:45036) 海辺にて (新字旧仮名、作

  • キリスト教入門 (矢内原 忠雄)

    序「キリスト教入門」角川新書、角川書店、1952(昭和27)年11月11日 門をたたけ「キリスト教入門」角川新書、角川書店、1952(昭和27)年11月11日 キリスト教入門第一章 人生と宗教「嘉信第十四巻第八・第九号」嘉信社、1951(昭和26)年8・9月 キリスト教入門第二章 いかにしてキリスト教を学ぶか「嘉信第十四巻第十・第十一号」嘉信社、1951(昭和26)年10・11月 キリスト教入門第三章 キリスト教の歴史「キリスト教入門」角川新書、角川書店、1952(昭和27)年11月11日 キリスト教入門第四章 キリスト教の神観「キリスト教入門」角川新書、角川書店、1952(昭和27)年11月11日 キリスト教入門第五章 キリスト教の人間観「キリスト教入門」角川新書、角川書店、1952(昭和27)年11月11日 キリスト教入門第六章 キリスト教の救済観「キリスト教入門」角川新書、角川書店、

    キリスト教入門 (矢内原 忠雄)
  • 須川邦彦 無人島に生きる十六人 - 青空文庫

    これは、今から四十六年前、私が、東京高等商船学校の実習学生として、練習帆船琴(こと)ノ緒(お)丸(まる)に乗り組んでいたとき、私たちの教官であった、中川倉吉(なかがわくらきち)先生からきいた、先生の体験談で、私が、腹のそこからかんげきした、一生わすれられない話である。 四十六年前といえば、明治三十六年、五月だった。私たちの琴ノ緒丸は、千葉県の館山湾(たてやまわん)に碇泊(ていはく)していた。 この船は、大きさ八百トンのシップ型で、甲板から、空高くつき立った、三の太い帆柱には、五ずつの長い帆桁(ほげた)が、とりつけてあった。 見あげる頭の上には、五の帆桁が、一に見えるほど、きちんとならんでいて、その先は、舷(げん)のそとに出ている。 船の後部に立っている、三木めの帆柱のねもとの、上甲板に、折椅子(おりいす)に腰かけた中川教官が、その前に、白い作業服をきて、甲板にあぐらを組んで、いっし

  • 吉右衛門と神鳴 (中谷 宇吉郎)

    ついさき頃の『心』の中に、吉右衛門氏と小宮(豊隆)さんとの対談が載っていた。近来にない面白い対談で、芸というものの面白さと恐ろしさとがよく出ていた。 その中で、一見あまり芸とは関係のないように見える…

    吉右衛門と神鳴 (中谷 宇吉郎)
  • 桐生悠々 関東防空大演習を嗤う

    防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和

  • 暗黒日記 (清沢 洌)

    この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫

    暗黒日記 (清沢 洌)
  • 作家別作品リスト:喜田 貞吉

    公開中の作品 安達ヶ原の鬼婆々(余白録) (旧字旧仮名、作品ID:55415) 「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」 ――日石器時代終末期問題――(新字新仮名、作品ID:49788) 石上神宮の神宝七枝刀 (新字新仮名、作品ID:49790) 遺物・遺蹟と歴史研究 (新字新仮名、作品ID:49791) 牛捨場馬捨場 (新字新仮名、作品ID:54853) エタ源流考 (新字新仮名、作品ID:54437) エタと非人と普通人 (新字新仮名、作品ID:54436) エタに対する圧迫の沿革 (新字新仮名、作品ID:54426) 「エタ」名義考 (新字新仮名、作品ID:54441) 蝦夷とコロボツクルとの異同を論ず (旧字旧仮名、作品ID:50754) 遠州地方の足洗 (新字新仮名、作品ID:54435) 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 (新字新仮名、作品ID:49805) 奥羽北部の石器時

  • 作家別作品リスト:野村 あらえびす

    公開中の作品 楽聖物語 (新字新仮名、作品ID:55088)     →野村 胡堂(著者) 名曲決定盤 (新字新仮名、作品ID:55342)     →野村 胡堂(著者)    →野村 長一(著者) 作業中の作品 →作業中 作家別作品一覧:野村 あらえびす 音楽は愉し 黎明期音盤収集家随想(新字新仮名、作品ID:56853) 関連サイト

  • 福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝

    慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々自(みず)から伝記を記すの例あるを以(もっ)て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之(これ)を勧めたるものありしかども、先生の平生甚(はなは)だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘(まま)に経過したりしに、一昨年の秋、或(あ)る外国人の需(もとめ)に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風(ふ)と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自(みず)から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より年二月までの時事新報に掲載したり。来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、恰(あたか)も一場の談話にして、固(もと)より事の詳細を悉(つ)くしたるに非(あら)ず。左(さ)れば先生の考(かんがえ)にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、更(さ)らに自(みず)から筆を執(とり)てその遺漏(いろう)を補い、又後人

  • 折口信夫 役者の一生

  • 柴田宵曲 古句を観る

    ケーベル博士の常に心を去らなかった著作上の仕事は「文学における、特に哲学における看過されたる者及(および)忘れられたる者」であったという。この問題は一たびこれを読んで以来、またわれわれの心頭を離れぬものとなっている。世に持囃(もてはや)される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。 古句を説き、古俳人を論ずる傾向は、今の世において決して乏しとせぬ。見方によっては過去のあらゆる時代より盛であるといえるかも知れない。ただわれわれがひそかに遺憾とするのは、多くの場合それが有名な人の作品に限られて、有名ならざる人の作品は閑却されがちだという点である。一の撰集が材料として取上げられるに当っては、その中に含まれた有名な

  • 末弘厳太郎 嘘の効用

    法律以外の世界において一般に不合理なりとみなされている事柄がひとたび法律世界の価値判断にあうや否やたちまちに合理化されるという事実はわれわれ法律学者のしばしば認識するところである。そうして私はそこに法律の特色があり、また国家の特色があると考えるがゆえに、それらの現象の蒐集および考察が、法律および国家の研究者たる私にとって、きわめて有益であり、また必要であることを考える。その意味において、私は数年このかた「法律における擬制」(legal fiction, Rechtsfiktion)の研究に特別の興味を感じている。そうして文は、実にその研究の中途においてたまたま生まれた一つの小副産物にすぎない。これはもと慶応義塾大学において講演した際の原稿に多少の筆を加えて出来上ったものであって、雑誌『改造』の大正一一年七月号に登載されたものである。 [#改ページ] 一 われわれは子供のときから、嘘をいっ

  • 幸田露伴 貧富幸不幸

  • 異常ナ可逆反応 (李 箱)

    には、「異常ナ可逆反応」の総題の元に以下の諸篇がおさめられています。 「異常ナ可逆反応」(新字旧仮名) 「破片ノ景色——」(新字旧仮名) 「▽ノ遊戯――」(新字旧仮名) 「ひげ――」(新字旧仮名) 「BOITEUX・BOITEUSE」(新字旧仮名) 「空腹――」(新字旧仮名)

    異常ナ可逆反応 (李 箱)
  • 人間本性論(人性論) (ヒューム デイヴィッド)

    凡例「」:斜字体や大文字の強調は、「」でくくった。[]:原注・脚注は、[]でくくって文に入れた。():訳者の補足を、()でくくって挿入した。付録は、指示されている挿入個所の文に入れた。巻末の付録に…

    人間本性論(人性論) (ヒューム デイヴィッド)
  • 室生犀星 芥川の原稿

    まだそんなに親しい方ではなく、多分三度目くらいに訪ねた或日、芥川の書斎には先客があった。先客はどこかの雑誌の記者らしく、芥川に原稿の強要をしていたのだが、芥川は中央公論にも書かなければならないし、それにも未だ手を付けていないといって強固に断った。その断り方にはのぞみがなく、どうしても書けないときっぱり言い切っているが、先客は断わられるのも覚悟して遣って来たものらしく、なまなかのことで承知しないで、たとえ、三枚でも五枚でもよいから書いてくれるようにいい、引き退がる様子もなかった。三枚書けるくらいなら十枚書けるが、材料もないし時間もない、どうしても書けないといって断ると、雑誌記者はそれなら一枚でも二枚でもよいから書いてくれといい、芥川は二枚では小説にならないといった。先客はあなたの小説なら、元来が短いのであるから二枚でも、結構小説になります、却って面白い小説になるかも知れないといって、あきらめ

  • 知里幸惠編訳 アイヌ神謡集

    序 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう. 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝(かがり)も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円(まど)かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく. 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影

  • X68000 電脳倶楽部 - インターネットの電子図書館、青空文庫 | www.aozora.gr.jp

    ちょっと前(今考えれば古き良き時代)の日のコンピュータと言えば、NECとシャープと富士通のマシン(MSXを外してごめんなさい)でした。もちろんNECのシェアがだんとつで、それを嫌う人がシャープ、富士通へと流れて行きました。私もその流れに乗った人で、シャープのX68000というマシン(左の写真参照)を買ったのです。当時としては、NECのマシンよりも優れた点が多く、CPUもモトローラの68000を使っていました。 そのX68000のユーザーに向けて、満開製作所というところが、5inchフロッピーのディスクマガジン「電脳倶楽部」というものを発行していました。第1号が出たのは1988年6月で、もう今から10年近くも前のことです。 このマガジンの中の一つのコーナーにPDD(パブリック・ドメイン・データ)というものがありました。これは、いろいろなテキストをパブリック・ドメイン化して、みんなで共有しよ

  • 津田左右吉 日本に於ける支那学の使命

    こんどの支那事変が起ってからたれしも深く感ずることは、支那についての日人の知識があまりにも足りなさすぎるということであろう。日人が支那についての研究をあまりにも怠っていたということであろう。支那文字をつかうことがあまりにも好きであり、支那を含む意味で東洋ということを何につけてもいいたがる日人が、その支那についての知識をあまりにも有(も)たなさすぎることが、こんどの事変によってよく知られたのではあるまいか。あるいはこれから後もますますよく知られてゆくのではあるまいか。しかし時局について語ることは、わたくしの職分を超えている。わたくしはただ、こういう状態には学問としての支那の研究、即ち支那学、が日においてまだ十分に発達していないところにも理由があるということを述べ、そうしてそれと共に、支那学は単に目前の実際問題を解決するについて必要な知識を提供する責任があるにとどまらず、学術そのものと