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ブックマーク / martbm.hatenablog.com (39)

  • 白洲正子「祖父の面影」 - martingale & Brownian motion

    最近は、白洲次郎のドラマが、NHK で放送された関係もあって、屋でも、ちょっとした、特集コーナーがあったりする。彼の奥さんだった人が、白洲正子、ですが、実は、ずっと、この二人は、さまざまな伝説とセットになって、ブームが続いてきた。 特に、白洲正子は、晩年は多くの著作も残し、長命でもいらしたこともあって、ずっとブームだと言ってもいい。 白洲正子さんの、雑誌ユリイカでの、彼女が亡くなった直後の、特集を読んでみた。内容としては、多くの人の彼女の追悼文というより、彼女のエッセイ集という感じだ。 彼女は、日の学校がなじめず、あっけなく、アメリカの学校に行く。しかし、よく考えてほしい。これは、日米開戦前、だということです。硫黄島の栗林中将が有名であるが、多くの日人が、日米開戦前まで、アメリカに留学しているわけです。 全然関係ないが、いじめというのは、日のポストモダンにおいては、早くから、処方箋

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  • 丸鬼太郎『"超"格差社会・韓国』 - martingale & Brownian motion

    最近は、東アジア共同体、でかまびすしい。日中韓、に、北朝鮮(、モンゴルも?)、そして、東南アジア、各国になるのであろうか。 おもしろいのは、このアイデアの、日側の提唱者が、とにもかくにも、「経済的要求」から、来ていることだ。日の、ここ何年かの、低成長は、今のままでは、これからもずっと続くであろう。だとするなら、この日の「成長」とは、なにを意味していることになるのだろうか。 もちろん、今の、アジアの急成長と、グレーなまでに「区別がなくなる」ことであろう。日人は、まさに、「アジア人」ででもあるかのように、当然のように、このアジアの発展の現場に立ち会い、貢献を惜しみなく与える。そのことにより、信頼を勝ち得て、「アジアの一員」としての地位をまっとうする。 想像してみようではないか。東アジアが、もし、一つの国だとしたら。日人が、どうして、日「国内」だけに、その働き場を求めることなどあろう

  • 村井紀『反折口信夫論』 - martingale & Brownian motion

    前回は、折口信夫、を天才とまつりあげましたが(礼賛したそばから、こうやって、批判を紹介できることが、うれしいですね。科学? 昨日言った真実なんて、今、この場で、全部、焼き捨ててやるよ)、掲題の著者は、まえがきで、以下のように言う。 冒頭に述べたように、私はできるだけ折口を「天才」と祭り上げずに、歴史的に位置づけしなおし、折口の生きた時代にもどそうとしている。諸家は、彼をめぐる諸説話のためにあまりにも転倒したまなざしを彼に投げかけているように思われるからだ。 当然、前回紹介した、あのも、彼によって、徹底的に批判されるべき、折口礼賛の一つなのだろう。私のその紹介記事も、その、後陣を拝してしまったわけですかね。 たとえば、折口信夫、全集に掲載されている、彼の詩。戦中のものでは、かなり、書き変えられている、という。その経緯はよく分からないが、戦後、GHQ から、さまざまな検閲があって、日

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  • 石川公彌子『<弱さ>と<抵抗>の近代国学』 - martingale & Brownian motion

    最近は、けっこう、チャレンジング、な、読書をしてきたものだ。 つい最近も、居宣長、にチャレンジングに、アタックしたものだ(なんにもしてないけど)。 以前も書いたが、いずれにしろ、国学は、宣長、篤胤、以降、大国隆正のような、ほとんど儒教と差がなくなっていく方向に向かう。それは、実際に、日歴史は、そうやって儒教的な徳目を受容してきたのだから、当然のことなのであろう。そして、この部分の国学こそが、まさに、「皇国史観」を構成する一部として、機能していくわけである。 しかし、「宣長 - 篤胤」ラインの、そうじゃない系譜、(私が最近こだわっている)彼らが、「やまとごころ」「もののあはれ」として、見出したような、そういった部分の国学を、その後、継承していったような、そんな人たちはいないのだろうか? 掲題の著者は、それこそ、さまざまな意味で「問題の多い」とされる、以下の、三人の日の言論人、柳田國男

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  • 長谷川亮一『「皇国史観」という問題』 - martingale & Brownian motion

    の戦後が、戦中の「焚書」から始まったことは、戦後のこの国の国民に大きな影響を与える。 この国の国民が、戦後、不戦の誓いを立て、世界平和のために、一心を捧げてきたことは、一方において、立派なことであろうが、他方において、それが、その国の過去の歴史の、積み重ねを、ことごとく忘却することの上に行われていた、ことは無視できないだろう。戦後の、この国の国民の平和を愛する姿は、一皮剥けば、薄っぺらい、真実の上にあったわけである。 そんな姿を思うとき、ちょっとしたことで、戦前に、どうして、戻らないと言えるであろうか。 まさに、フロイトの言う、「抑圧されたものの回帰」。 よく考えてみるといい。 たとえば、最近の、NHKスペシャルで、平泉澄をまるで、戦前の皇国史観の「総元締め」のように、紹介されていたことは、象徴的である。 多くの学者たちこそ、彼以上に過激に、大衆抑圧を礼賛していたのであって、そういった

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  • 田中康二『本居宣長の大東亜戦争』 - martingale & Brownian motion

    今さら、言うまでもないことであるが、国学と、水戸学、は、まったく「違った」ものである。 居宣長、は、漢意、を批判したのであり、それを受けて、後期水戸学は、宣長の、皇室を無上のものとする議論に、一目を置きながら、儒教徳目、への、無理解を批判する。 よく考えてみると、宣長の、漢意批判、とは、恐しいまでの、ラディカルさをもっていたのである。あらゆる、ところに、「漢意」の臭いをかぎつける、宣長にとって、やまと心とは、「心のおもむくまま」に生きること、だと言うのだから。当然、そこにおいて、社会の、さまざまな、とりきめ事、忠、から、孝、からなにから、そんなものは、「古の日には存在しなかった、漢意」だと言うのであろう。いったい、宣長という人は、どんな人間観、をもっていたのか、と、すえ恐しくならないだろうか。 ただ、そんな宣長も、言わば、「分かりやすい」、信念に生きることを理解する。それが、宣長におけ

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  • 平井和正『幻魔大戦』 - martingale & Brownian motion

    西尾さんの「偽物語」も、下巻の、後半まで読んでいる。私は、この、化物語シリーズ、を読んでいて、子供の頃、よく読んでいた、一連の、SF、的なノベルズ、を思い出した。 ああいったものの、「意味」、とは、なんだったのであろう。 今、思い出すと不思議な感じになる。 そもそも、自分は、なぜ、こういうものを読まなくなったのか。どうも思い出せない。だからといって、今、読みたいとも思わ「ない」。 最近亡くなった、栗薫、の、グイン・サーガ、は、大変な、長篇となったが、私は、2、30巻くらいから、「まったく」読まなくなった(彼女には、ラヴクラフトのクトゥルー神話を題材にした「夢幻戦記」というのもあった(魔界水滸伝、ですね。嘘ばっかりです))。グイン・サーガ、は、ヒロイック・ファンタジー、というカテゴリーにはいるものであり、コナンシリーズや、マイケル・ムアコック、の一連のもの、こういった流れを意識していたのだ

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  • (再読)神野志隆光『古事記と日本書紀』 - martingale & Brownian motion

    このは、以前、紹介したものだが、再度、読み直してみた。 この内容って、相当、すごいことを書いてないですか? 当に、多くの人に、熟読してほしい。 どうしてか。 よく考えてみてほしいんですね。聖書は、多くの国で、多くの人に読まれている。じゃあ、なぜ、古事記、日書紀、を日人は、「読ま」ないんでしょうか。 もちろん、読まない、と書くと、違和感を覚えられる人もいるだろう。日人なら、だれだって、日神話、を知ってるじゃないか。しかしね。お話として知っているだけで、だーれも、古事記、日書紀、をテキストとして読もうとなんてしてないでしょ。これってなに? やっぱり、聖書、特に、新約聖書、は、おもしろすぎるんですよね。前に紹介したで、古代ギリシア、の犬儒派、や、ストア派、とのつながりを示唆したものがあったけど、まさに、犬儒派、や、ストア派、につながるような、おもしろさが、新約聖書、にはありますよ

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  • 小路田泰直『国家の語り方』 - martingale & Brownian motion

    この著者については、よく知らない。 著者は、あれだけ、「押し付け憲法」とばかにしていた自民党が、満をじしてもってきた、今回の改憲草案が、「まったく」と言っていいほど現憲法と、「違わない」ことに、注意を喚起している。 これは、どうしたことなのだろう。結党以来の宿願だったんじゃないのか。当のこの国の理念を、大々的に披露してくれるかと思ったらこれだ。 一部では、最初はなんでもいいから変わることが大切なんだ、なんていう話があるようだが、やった人たちがもしそう考えていたとしたら、どこまで国民を愚弄すればすむんでしょうね。こんなものしか示せないとはね。もう二度と、結党以来の宿願などと「言うな」。 今でも、よくいますよね。民主主義なんだから、憲法を国民が変えるのなんて、当たり前。そんな一般論、何度でも、ちぎって捨ててやるさ。 じゃあ、具体的に聞きたい。「どこ」を変えます?思いつきました?環境権とか、

  • 再び右的なものについて - martingale & Brownian motion

    以前にも、このテーマのような内容について、書いたことがあるのだが、改めて、書いてみたいと思う。 その前に、ちょっと前に、紹介した、宮台さんのについて、この視点での、総括をしておきます。 私は、そこで、いろいろ書かせてもらった不満点以上に、「この人とは考え方が違うな」と思った点、があります。 それは、以下にこそ、典型的に現れています。 こうした「精神主義」を体現していた思想集団に、日浪漫派という文芸スクールがあります。日浪漫派の人たちは、「必ずしも戦争に勝つことが懐を遂げることではない、たとえ戦争に負けてもそこに詩があれば懐を遂げたことになる」などと論じました。橋川文三の表現でいえば「滅びの意識の自然な流露」ですね。 戦争中、出征するしか選択肢の無かった当時のインテリ学徒の中には、いわば精神的勝利法として、こうした議論で自分を納得させて戦地に赴いた人も少なくなかったのです。でも、ど

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  • 三浦國雄『「朱子語類」抄』 - martingale & Brownian motion

    『朱子語類』とは、朱子学の創始者、朱子没後、多くの弟子たちが、朱子の生前に、ご教授を受けた内容をメモしていたものを、まとめたものである。 なお、以下で、全訳注作業が、始まっている。 『朱子語類』訳注 (巻1~3) 作者: 溝口雄三,小島毅,垣内景子,恩田裕正出版社/メーカー: 汲古書院発売日: 2007/08メディア: 単行この商品を含むブログ (2件) を見る しかし、このプロジェクト、私が生きている間に終わるんでしょうかね。なぜ、『朱子語類』の訳注作業が、これほど大変かと言うと、完全に、宋の時代の、口語で、しかも、地方の方言で書かれているからだ(それだけ、朱子たちの生の声を反映しているのだろうが)。 『朱子語類』というが、人類の歴史において、決定的に重要な位置にあることは、重要なポイントである。 朱子は、多くの著作を残し、また、多くの弟子をもった。彼の著作、言行録は、膨大な量になる

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  • 呉善花『漢字廃止で韓国に何が起きたか』 - martingale & Brownian motion

    韓国が、漢字廃止、ハングル専用の、学校教育政策をとったのは、1968年からだそうだ。 ハングルとは、日語でいえば、かな文字となるのだろうが、おおざっぱに言えば、表音文字。ハングルも、単純な音声言語と考えるには複雑である。しかし、その複雑さはしょせん、その音声文字としての、レベル。 私は、江戸時代に大変普及した、「かな文字論語」などの、すべて、ひらがなで書かれた、中国古典のを思い出した。単純に、こういう教育政策をばかにすることはできない部分はあると思う。日語の出版物でも、最近は、なんでもルビだらけなわけですし。少なくとも、識字率の向上には、役立った面はないのだろうか。 もともと、ハングルだけでの記述が、官公庁向けの文書すべてに強要され、教育機関で、漢字を使わなくなったのは、韓国ナショナリストの政策だというんですね。純粋朝鮮的なものを追求していった結果というわけでしょう。 だから、言文一

  • 日野龍夫「謀反人 荻生徂徠」 - martingale & Brownian motion

    最近、出版されたで、 徂徠学講義―『弁名』を読む 作者: 子安宣邦出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/07/29メディア: 単行 クリック: 1回この商品を含むブログ (3件) を見る を、読んだ。このでは、徂徠の『弁名』について、解釈したで、このを読んで、やっと、荻生徂徠というのが、どういう感触で、さわらなければならない存在なのかに気づいたところがある。 徂徠というのは、江戸中期の、吉宗の時代の人ですね。 徂徠が若い頃に、京都の仁斎は亡くなっていて、伊藤東涯と同世代になるんですかね。 仁斎が、孟子を介すことで、倫理の強調をした。徂徠の言ったことは、「それだけが、儒教じゃないだろう」、ですね。 彼は、「先王の道」を強調した。それは、確かに、孔子の関心の一部だっただろうが、しかし、徂徠の言うことを延長すると、まるで、儒教において、孔子は不要、のように読めるわけです。 し

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  • 子安宣邦『本居宣長とは誰か』 - martingale & Brownian motion

    居宣長。彼について、どれだけ、考察されてきただろうか。 ちょっと、最近、「玉くしげ」「玉くしげ別巻」「直毘霊」を現代語訳で読んだんですが 玉くしげ - 美しい国のための提言(現代語訳 居宣長選集 第1巻) 作者: 居宣長,山口志義夫出版社/メーカー: 多摩通信社発売日: 2007/09/26メディア: 新書 クリック: 6回この商品を含むブログ (3件) を見る 、それだけでも、いろいろ思うところがありましたね。 子安さんの著作の中で、居宣長に関するものは、けっこうある。また、ほとんどの書籍に、少しは宣長に言及しているんじゃないでしょうか(一応、総論的、入門的なものということで、掲題にしてみました)。 賀茂真淵は万葉集の研究から、漢心批判を行うようになるわけですが、宣長はそれを継承する。その流れから、宣長の古事記研究、漢心批判となるわけですが、そのスタイルは、かなりのところで、荻生

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  • 朴倍暎『儒教と近代国家』 - martingale & Brownian motion

    前にもちらっとふれたのだが、このの感想である。 まず、明治憲法第四条に対しての分析が載っています。 恭て案ずるに、統治の大権は天皇之を祖宗に承け、之を子孫に伝ふ。立法・行政百揆の事、凡そ以て国家に臨御し、臣民を綏撫する所の者、一に皆之を至尊に総べて其の網領を攬らざることなり。故に大政の統一ならざるべからざるは、宛も人心の弐三なるべからざるが如し。但し、憲法を親裁して以て君臣倶に守るの大典とし、其の条規に尊由してあやまらず遺れざるの盛意を明かにしたまふは、即ち、自ら転職を重んじて世運と倶に永遠の規模を大成する者なり。蓋統治を総攬するは主権の体なり。憲法の条規に依り之を行ふは主権の用なり。体ありて用無ければ之を専制に失ふ。用有りて体無ければ之散漫に失ふ。(伊藤博文『憲法義解』岩波文庫) つまり、天皇を中心とする理解は、「主権の体」と「主権の用」という「体用論」で行われなければならないと主張し

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  • 柄谷行人「音声と文字/日本のグラマトロジー」 - martingale & Brownian motion

    子安宣邦と、酒井直樹との、対談。酒井直樹の『過去の声』を受けて行われた対談。このにおいて、伊藤仁斎が、重要な存在とされていることや、子安宣邦の『鬼神論』での、伊藤仁斎の評価、そして、彼自身による、以前の「伊藤仁斎論」、これらを改めて、ふりかえって、伊藤仁斎の、あまりにも、特異なくらいの、先進性を強調することになる。そして、そこに、スピノザとの同時代性を発見することになる。 子安さんの『鬼神論』でも、そういう書き方なんじゃないですか。仁斎の無鬼論というのは、一切を他者との倫理的関係にもっていくことである。ところが、朱子の無鬼論はそういうものではないし、また、儒学者の間で不可避的に朱子からくる「鬼神論」が存在していかざるをえないのは、仁斎的な視点をもたないからだ。子安さんはそう言っていると思うんです。しかし、仁斎の出現には飛躍があるでしょう。あとの人よりずっと先駆けたことを言っていて、しかも

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  • 山下範久『世界システム論で読む日本』 - martingale & Brownian motion

    世界システム論とは、ウォーラーステインの提唱する理論で、まあ、それを使って、日が、なぜ近代化を実現できたのかの分析を行うというのが、大きな主題のようだ。 世界=帝国から、世界=経済にかわる、まあ、昔の世界が帝国で分割されていた時代においては、世界とはその帝国の内部で閉じていたが、コロンブスのアメリカ発見などをとおして、ひとつになる。その過程で、ネーションがでてくるのだが。 そこで、日においては、ペリー以前から、その普遍が外(中国)にあるという感覚から、日国そのもので、普遍が閉じている(ネーション)という考えに、少しずつ思想としても、主張されていく過程について、記述されている。 山崎闇斎から、居宣長、平田篤胤、と続く国学の変化において見るわけだ。 山崎闇斎の孔子、孟子が日に攻めてきたら、戦う、という発言があって、そこで、居宣長の、言葉ですね。 たた此国の人は太古の霊奇なる伝説をそ

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  • 浅野裕一「『孔子伝』の信託」 - martingale & Brownian motion

    白川静というのは、中国古代の、文字の学者というイメージがあると思う。この前も、NHK で、故人をインタビューしたものを編集して流すような番組があって、彼を特集していた。そこでは、一個一個の漢字の解釈を積上げていって、一つの辞典にまでなるんだけど、積上げればずいぶんな作業に見えるけど、一つ一つ、やっている分には、チリツモだから、たいしたことない、みたいなことを言っているものであった。 白川静のもう一つの私の印象は、 孔子伝 (中公文庫BIBLIO) 作者: 白川静出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2003/01/01メディア: 文庫購入: 5人 クリック: 36回この商品を含むブログ (61件) を見る である。これは、あとがきだったかで、全共闘の頃に書いた、みたいなことが書かれていて、正直、これが、学会のスタンダードかどうかとか、あまり考えることもなく、ざっと流すように読んだ。ちょ

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  • 小島毅『足利義満 消された日本国王』 - martingale & Brownian motion

    今回は、義満日国王にフォーカスをあてたもの。二つの命題を提示している。ひとつは、「孟子は革命思想なのか」。これについては、歴史的に否定的な考えを示している。もう一つは、「義満国王は天皇家をのっとろうとしたのか」。こちらは、むしろ当時としてはもっと大きなことにこそとりくんでいた、というものだ。 当時の明の政策として、臣として朝貢した国でなければ、庶民レベルでも交流を認めない政策をとっていたのだから(対馬の方でいろいろあったようだが)、逆に義満が朝貢することが、どれだけ実として重要な結果であったか、ということでしょう。じゃあ、天皇が中国に朝貢すべきだったとでも言うんですかね。朝鮮通信史にしても、同じ臣として、同列であったから行われた、ということだそうだ。 そういえば、神道についておもしろい指摘があった。中国なら、儒教によって、こういった呪術信仰は、民間的には存在していても、徹底的に低く評価さ

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