例えば、明治以降の日本の「近代」化の文脈において、西洋自然科学が全面的に輸入され、さまざまな産業商品として応用されてきた文脈から眺めたとき、西洋自然科学「ではない」科学という表現に、ショックを覚える。 しかし言うまでもなく、江戸時代だろうがそれ以前であろうが、この日本に「自然科学」はあった。もしなければ、科学的な生活をしていなかったことになるであろう。しかし、同じ「文明(=人間を特徴づける文化)」をもつ私たちが、そんなはずはないではないか。 つまり、この場合に言う「科学」とはなんなのか、ということになる。 例えば、朱子学が中国の宋の時代に、朱熹によって始められ、日本の南北朝時代から、この日本においても少なからず影響を受けてきたとして、この延長で考えられる「自然科学」が、一つのこの世界の「解釈」として、大きな一つの潮流として影響を与えてきたと考えることはできる、だろう。 しかし、ここで注意が
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