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ブックマーク / martbm.hatenablog.com (39)

  • 土田健次郎『江戸の朱子学』 - martingale & Brownian motion

    例えば、明治以降の日の「近代」化の文脈において、西洋自然科学が全面的に輸入され、さまざまな産業商品として応用されてきた文脈から眺めたとき、西洋自然科学「ではない」科学という表現に、ショックを覚える。 しかし言うまでもなく、江戸時代だろうがそれ以前であろうが、この日に「自然科学」はあった。もしなければ、科学的な生活をしていなかったことになるであろう。しかし、同じ「文明(=人間を特徴づける文化)」をもつ私たちが、そんなはずはないではないか。 つまり、この場合に言う「科学」とはなんなのか、ということになる。 例えば、朱子学が中国の宋の時代に、朱熹によって始められ、日の南北朝時代から、この日においても少なからず影響を受けてきたとして、この延長で考えられる「自然科学」が、一つのこの世界の「解釈」として、大きな一つの潮流として影響を与えてきたと考えることはできる、だろう。 しかし、ここで注意が

    土田健次郎『江戸の朱子学』 - martingale & Brownian motion
  • 彭丹『中国と茶碗と日本と』 - martingale & Brownian motion

    文化という言葉を使うとき、それは「事実性」として言っているのか、「概念」として言っているのかは、大きな意味の違いを指唆しているように思われる。 例えば、東浩紀さんの「憲法2.0」という、新憲法草案にしても、何度も「文化」や「文化的遺産」という言葉が頻発する。特に、気になるのが、第一条の「天皇」の「定義」に関係する部分であろう。 天皇は、日国の象徴元首であり、伝統と文化の統合の象徴である。 天皇は、日国の伝統と文化の継承者として、過去、現在および将来の日国民のために儀式を行う。 ところが、現在の憲法では、「文化」というのは、ちょっと違う文脈で一カ所にだけ使われている。 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 ようするに、明らかに、上記で使われている意味と、下記が、違っているように思われる。下記は、もっと、国民一人一人の「生活」を、(日国民の感覚

  • 田村理『投票方法と個人主義』 - martingale & Brownian motion

    それにしても思うのは、なぜ、民主主義国は、 秘密投票 を採用しているのだろうか。なぜ、このことの理由を明確に示す人がいないのだろうか。 二〇〇二年五月のフランス大統領選挙第二回投票の直前、論争が起こった。第一回投票で社会党のジョスパン候補をはじめとした左翼候補が敗退し、第二回投票はシラク大統領と極右政党国民戦線のルペン党首との間で行われることとなった。左翼は、極右の台頭を阻止するためにシラク大統領に投票する以外の選択肢がなくなった。彼らは、その「不意」を表明するために、投票の際に、洗濯ばさみで鼻をつまんだり、ゴム手袋をして投票するという運動を企てた。 内務省は、「この種の行動 initiatve は、投票作業を妨害しない限り、それを禁止するものはなにもない」としていた。しかし、憲法院は、次のような見解を表明した。 「一定の選挙人が、大統領選挙第二回投票の際に、これ見よがしに、さらには人を

    田村理『投票方法と個人主義』 - martingale & Brownian motion
  • 冨谷至『中国義士伝』 - martingale & Brownian motion

    の敗戦を特徴づけたものとはなんだろう。間違いなく、それが、「義士」的な傾向を色濃くもったことであっただろう。 日のある軍人が死ぬ。彼は、赤紙で徴兵されたのだろうか。なぜその人は死んだのか。なぜその戦場で死んだのか。しかし、その死に方は著しく「自殺」的であった。カミカゼ特攻隊に始まり、血の血判状を書いた、廻天でしたっけ、そんなものではおさまらないだろう。もう、ほとんどの日人は「自殺」したようなものではなかったのだろうか。 なぜ、日人の闘い方がそのような形になったのかを考えると、間違いなく、 教育 がある。教育がある意味、「義士」的な態度を涵養(=マインド・コントロール)するものがあった。江戸時代からの水戸学派的な(朱子学的色彩をもつ)国体思想をベースに、明治以降の 文部省 は、幼い子供の頃から、殉国を刷り込む。 しかしそれは、当に「儒教」だったのだろうか? 「教育勅語」にはもちろ

    冨谷至『中国義士伝』 - martingale & Brownian motion
  • 坂部恵『理性の不安』 - martingale & Brownian motion

    原発の議論を眺めていると、どうしても、ある「理性の限界」を超えているのではないか、という印象がぬぐいきれない。 それは、ウルリヒ・ベックのリスク社会論が検討した、問題そのものだっただろう。 自分たちがコントロールできない。そして、チェノブイリから、スリーマイルが起き、今回の副島となった。 そこで、では、それでも「動かし続ける」と決断する、世界の国々は、では、400年や1000年のレベルで、 何回の深刻な事故 を起こすことになるだろうか。もちろん、その間にも、チェノブイリ、スリーマイル、副島、それぞれの地域は少しずつ回復していくのかもしれないが、そういった期間で考えるなら、どう考えても事故がまったく起きないように思われない。 (まあ、それくらいの期間で考えれば、当にものすごいタイムスパンで一回起きるかどうかの、さらに大きな地震や津波。また、隕石による、地球の大激変、テロ、こういったことも想

    坂部恵『理性の不安』 - martingale & Brownian motion
  • 小島毅『「歴史」を動かす』 - martingale & Brownian motion

    で最も「遅れている」学問はなんだろう。間違いなく「日史」だろう。 戦後、日教育は「自由」になった。つまり、戦前の歴史教育は皇国史観であったわけだが、戦後はその軛から逃れたはずだ。ところが、どうだろう。歴史教育の内容はそれで変わったのだろうか。 ほぼ変わっていない。 そんなことがありうるだろうか? 私に言わせれば、最も「なにもやっていない」のが、人文系ということになる。どうして、そういうことになるのだろうか。言ってみれば、彼らはそういう、かなり「うさんくさい」ものを「暗記」することで、(超難関)大学という 高等教育 を受ける資格を獲得する権利を得てきたので、自分たちの「正当性」の源泉を「毀損」したくなかったのであろう。 いや。もっとこの議論は進められるのではないだろうか。高校の日史は戦前戦中とほとんど変わっていない。ということは、その「精神」は戦前戦中にあるのだろう。つまり、むし

    小島毅『「歴史」を動かす』 - martingale & Brownian motion
  • 海堂尊『死因不明社会』 - martingale & Brownian motion

    死は資主義と相性が悪い。 あれほど、功利主義で、今この財産を一円でも増やそうと血なまこになっていた人たちが、ころっと死ぬと、その彼が目指していた一円は、なんだったのかな。まさに、彼は 天国に宝を積んだ。 ということはどういうことなのだろうか。資主義とは、どこか「宗教」に近いのかもしれない。なぜ利潤の追求をそこまでして求めるのか(そこには、どこか、生きる人それぞれの、これまでの作法と関係があるのだろうか...)。 功利主義は、一見、「自分のため」と思われるが、もともとは、 社会全体にとって なにがいいかを「計算」する、という発想だろう(平均的な幸福が問題であった)。だから、資主義で、「自分一人」の利益の増大を強調することは、結果として、違うんじゃないのかという感じがしている(自分がいくらお金持ちになっても、友達みんなが苦労しているのであるなら、どこが楽しい人生であろうか)。問題になって

    海堂尊『死因不明社会』 - martingale & Brownian motion
  • 康熙奉『韓国の徴兵制』 - martingale & Brownian motion

    中東のああいった光景をテレビを通してでも見ていると、ここ一年くらいで、どうなってしまうのだろうか、と考えてしまう。 エジプトの民主化運動に、私たちが驚かされたのは、なんといっても人口構成だった。30代以下が、 人口の大半 を占めてるわけで、若者が圧倒的に多いわけだ。多いのだから、若者の失業者も多い。あれだけのエネルギーは、若者が過半数(若者に選挙権があれば、若者が選挙で勝ってこの国をひっくりかえせる)という人口構成が生んでいることは間違いないだろう。 ひるがえって、日の、逆ピラミッド、なのだが、若者が少ない。そのことが、彼らに、さまざまなストレスやプレッシャーを与える生活作法を強いていることは間違いない気がする。 ただ、他方において、日の若者を過小評価する風潮に、ちょっと、うんざりしている(あらゆることは、多義的なのだ)。 近年、ゼロ年代やらなにやら、若者じゃない世代による、「代弁者」

    康熙奉『韓国の徴兵制』 - martingale & Brownian motion
  • 野間秀樹『ハングルの誕生』 - martingale & Brownian motion

    人の、英会話が、いかに、下手くそかが、はるか昔から、言われていながら、学校は、まったく対策をやる気があるのかも分からない状況が続いている。 日にいる限り、英語を話せなくても、まあ、大抵のことは、困ることはない。たまに、外国人観光客に英語で話しかけられて、目を白黒させていれば、勝手に向こうからあきれられて、事態は過ぎてゆき、そもそも、外国語を学ぶって、なんなのかな、という気持ちにさせられる。 こう言うと、ずいぶんと、日人の英語力は貧困なんだと思われるかもしれない。しかし、それは違う(なんか言ってることがメチャクチャだな)。 日人は、相当な英語力を、ほとんどの人たちが備えている。それは、日頃、街を歩いていて、英語のアルファベットを使っていない看板を見付けるのが難しいことからも分かるだろう。 日人の英語読解力は、並のレベルでないはずだ。ネットの英語のニュースにしても、まず、ほとんどの

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2010/10/28
    「ハングルが最初から、筆で書かれることを想定していない、ゴシック文字になっていること/そもそも、音を文字にするなんてことは、可能なのだろうか」
  • 太田越知明『きだみのる』 - martingale & Brownian motion

    きだみのる、といって、すぐに誰だ分かる人というのはどれだけいるのか。 といっても、私もほとんど知らないが(今回は、あくまで、その一側面の紹介であることを、ご了承を)。 掲題のは、その、きだみのる、の伝記と言っていい。この方の経歴については、このの最後に年譜があるのでそれを見てもらえばいいが、ずいぶんと、波瀾万丈な生き方をしている。 明治生まれの彼が、慶応大の学生の頃、アテネ・フランセの創始者の、コットの下で仕事をするようになり、40歳で、フランス留学し、マルセル・モースの下で学び、パリ大学中退後の、モロッコ旅行をまとめたものとして、昭和19年に『モロッコ紀行』というを出す。 このの前半は、戦後絶版とされた、その『モロッコ紀行』というを巡るものとなる。著者はこの、モロッコを旅行して、「いい植民地主義とはなにか」を考察する。モロッコは、ごぞんじのように、スペインの南の、北アフリカに位

    太田越知明『きだみのる』 - martingale & Brownian motion
  • 清水則夫「浅見絅斉の神道観と道について」 - martingale & Brownian motion

    浅見絅斉といえば、精献遺言ですね(近藤啓吾『精献遺言講義』というがある。私は、全然、最後まで読めてないが)。 彼は、山崎闇斉の弟子だが、山崎闇斉といえば、最初、仏教をやってたんだけど、朱子学にはまって、最後、日の神道に傾倒した、と。 朱子学とは、いわば、聖人になるための、手続きを明確に提示されている、そういう理論体系だという。それが日に入ってきたとき、何が起きていたかというと、中国や朝鮮の科挙の試験のための、受験参考書が、ドバッと一緒に入ってきた、ということなんですね。かなり勉強しやすい状況が整っていた。 闇斉にとって、仏教から朱子学に鞍替えすることは、そういう意味では、次々と新しいものを探しては、流れていくということで、自然だったんでしょうね。闇斉はすぐに日書紀、日の神道を「発見」する。朱子学の名分は、中国の聖人君子を発見し礼賛する作業は、日における義人の発見/想像を強いる、

    清水則夫「浅見絅斉の神道観と道について」 - martingale & Brownian motion
  • 栗原剛『佐藤一斎』 - martingale & Brownian motion

    私は、ちょっと前に、江戸時代の日を、幕府や藩の「存在しない」、村「国家」群、と呼んだ。このことは、別に、ちょっと変わったことを言ってみたくて、かっこつけたということではない。たとえば、徳川幕府は、別に「政府」ではない。あれは、ただの「イエ」である。それは、大河ドラマ篤姫を見ていた人には、自明だろう。極端なまでに、ホームドラマになっていたが、あれくらい、極端な方が「実体」に合っている(ただし、考えもつかないくらい、「大きい」、というだけだ)。しかし、それだけであって、構造は、どこにでもある、イエそのもの、であった。つまり、徳川家であっても、すこし特殊な「村」の一種と考えていいことを意味する。 どうして、こういった構造になっているのだろうか。たとえば、家康が、関ヶ原の合戦で勝利を治め、この、徳川長期政権を確立していく過程で、彼は、まだ多くの不満をくすぶらせている、各藩の藩主に向かって、孟子の

    栗原剛『佐藤一斎』 - martingale & Brownian motion
  • 青木高夫『ずるい!?』 - martingale & Brownian motion

    ホンダの社員として、著作活動を続ける掲題の著者による。ルール論。 なかなか、時事問題にからんでいて、多くのことを考えさせられる。 日は戦後、サンフランシスコ平和条約の受諾によって、戦後レジームへの仲間入りが「許された」。戦後の、枠組みに「同意することによって」。しかし、その内容は、いわば、日戦争は「ナチスと同列である」ということである。 多くの識者が指摘するように、一部はねあがりによる、ナチスとの同盟の締結により、確かに、その色彩が強くなったことは確かであるが(ナチスと同盟するということは、ナチスの思想に完全に賛同すると考えられることは、戦後の常識からは、当然と言えなくもない)、日そのものの戦争は、同じというには、あまりに性格の違うものであった。もちろん、日そのものを世界に押し付けることの是非はあっただろうが、逆に言えば、実に、「素朴な(野蛮な)」作法であったというレベルで、その

    青木高夫『ずるい!?』 - martingale & Brownian motion
  • 萱野稔人『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』 - martingale & Brownian motion

    みなさんは、このを読んで、どう思われたでしょうか。 前半は、ナイーヴな印象でしたが、後半は、なかなかおもしろかった(そういう意味で、前半は、ない方がいい)。 武器こそ、国家そのものと考える、著者は、そういう意味で、国家の萌芽は、「あらゆる」場所にある、という。 要するに、国家をうみだす暴力の運動というのは社会のどこにでも転がっているわけですね。 もちろん、いまの社会では、合法的な暴力を独占している国家がそうした動きを取り締まり、非合法化しますので、それらの動きが実際に国家へと結実することはありません。しかしそうした動きを取り締まる国家の暴力の実践がなければ、それらの動きは必然的に国家をうみだすことになるでしょう。つまり、国家がなければ国家ができてしまう、ということです。 そういう意味では、あらゆる共同体は国家だと言っていい。国家でない、共同体はない。著者の言う国家とは、あらゆる共同体のこ

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  • 佐々木俊尚『2011年 新聞・テレビ消滅』 - martingale & Brownian motion

    (センター試験に、岩井克人がでたそうで。) 今週の、videonews.com でのこの話題 は、なかなか、おもしろかったし、刺激を受けた。 (神保さんと宮台さんのかけ合いは、かれこれ、何年になるんだろう。神保さんのジャーナリスト的時事「これどうよ」に、宮台さんのちょっと危険な香りのする、不規則発言(こういうのこそ、漫才と呼ぶべき)。よくやっているな、とは思うけど、神保さんのノブリス・オブリージュというのか、エリートなりのフェアネスの姿勢が、この長期に渡る、動画配信を持続させているんだとは思う。今後は分からないが。) ひとまず、掲題のである。 著者はまず、日の草創期からの、テレビや新聞や雑誌、こういったものが、想定してきた「マス(大衆)」というものが、実際には、なくなってきていることを、最近のネットの状況から指摘する。 さらにそのことは、以下のかなり刺激的な発言から、傍証される。 「テ

  • 米澤有恒『カントの凾』 - martingale & Brownian motion

    なぜ、芸術は芸術なのか。 この質問の意味がわからない人は、こういうふうに問い直してもいい。 いつから、芸術は芸術なのか。 まだ、わからない人は、??? つまり、そもそも、芸術とはなにについて言っているのか、である。 (卑近な例で言えば、飛鳥時代の仏教建築や、仏舎利の壷は、別に、芸術ではない。それぞれの祭事で、必要だから存在するわけだし、それぞれのそのありようには、意味がある。こういうものを芸術と呼ぶのは、正しくないのでは、と思うなら、ちょっと質問の意味を理解されてきている。) それは、他の学問についても、ある程度は言えるように思える。なぜ、それらは分かれているのか。いや、分かれていることがどうこうというより、なぜ「そのように」分かれていることに、だれもが普通に受け入れているのか。 なんのことだろうと思うだろうか。 中世ヨーロッパや、中国文明において、神(や天)を無視して、あらゆる事実につい

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  • 城戸久枝『あの戦争から遠く離れて』 - martingale & Brownian motion

    (12/29、12/30、と、これを原作としたドラマ「遥かなる絆」が、再放送されるそうですね。以下は、そーとー、ネタばれ、だと思いますんで、気をつけて下さい。) 私は、この 500 ページ近くもある、ノンフィクションを読んで、ずいぶんと考えさせられた。 もちろん、基的にはこれは、娘が父親の過去を調査していく、いわば、自らの「ルーツ」を探していく、よくある形のノンフィクションと言えるのかもしれない。 自分は、どこから来たのか。 そうではあるのだが...。 この、父親の半生をたどることになった、彼女のアイデンティティをたどる、ルーツをさがす、ノンフィクション。 たしかに、いくつかのポイントがあるし、それぞれの関係が気になるのだが、そういう諸関係を問いながらも、なんと言えばいいのだろう、この当の意味で書かれるべきであった、唯一点のポイントというものがあるとすれば、それはなんだったのだろう

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  • 岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界』 - martingale & Brownian motion

    ヘーゲルと言えば、18、19世紀、つまり、江戸時代の、ドイツの哲学者、である(高校の倫理の教科書にでてくる)。ちょうど、フランス革命やナポレオンと同時代の人になる。 こんな昔の人がなんだと言うんだ、というのが正直なところであるが、早い話、いろいろなところで、あいもかわらず、この人の議論が、ついて回っている、というのが、現在も変わっていない、ということのようだ。最近であっても、難しい議論になると、なんやかんやで、ヘーゲルとのなにがしかが、批評されていたりする。 たとえば、フェミニズムと言って、ちょっと難しめの議論を眺めてみよう、として、(この前名前だけは紹介した)ジュディス・バトラーを見てみると、そもそも、彼女のバックグラウンドは、ヘーゲル哲学研究者だったりする。 もちろん、理由はある。それは、共産主義、社会主義の教祖みたいな存在である、マルクスが、ある意味、ヘーゲル哲学の拡張のような形で、

    岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界』 - martingale & Brownian motion
  • 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 - martingale & Brownian motion

    昨日の、ニュースステーションで、アメリカのスマートグリッド戦略の、簡単な紹介があった。 とにかく、言えることは、自然発電は、発電が、極端に、天候に依存するため、それ相応の、電力網を構想しなければ、「効率」化しない、ということのようであった。ある時間帯に、風もやみ太陽は地球の下に隠れ、おとなしくなったと思ったら、逆になり、大量の電気が急に発生しても、そんなに、世界中で急に発生した電気が、一度に流れても大丈夫な送電網になっていない。ここには、なんらかの、アイデアが必要である。 このことは、自然発電を市場に乗せるには、最初から、ある種の、アイデアがなければ、「極大化」できないことが、最初から分かっていた、ことを意味する。 スマートグリッドは、もう一つの側面がある。これによって、人々は、電気を自分が今、どれくらい使っているのかを、時々刻々と意識するようになる。 電気は、たんに電気ではない。この情報

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  • 小島毅『父が子に語る近現代史』 - martingale & Brownian motion

    私が「礼」という言葉が気になりだしたのは、この方の以下のを読んだころからでした。 宋学の形成と展開 (中国学芸叢書) 作者: 小島毅出版社/メーカー: 創文社発売日: 1999/07メディア: 単行この商品を含むブログ (1件) を見る この自体は、宋の時代を専門とする著者の、研究の成果が集約されたような、アカデミックなです。おもしろい、というような感じではありません。しかし、たいへん印象的でした。 こういった昔の時代(話の主題は宋でした)の政治、権力関係を、礼、という漢字を通してみることは、大変に強烈な印象を与えました。 国王の回りには、多くの側近、官僚が、脇を固め、運営されます。しかし、彼ら側近は、国王に、諫言していくことで、その重用の度合が変わるだけでなく、この国のさまざまな「ルール」が変更されていきます。 しかし、これだけ重要なことでありながら、その諫言の内容は実に奇妙です

    小島毅『父が子に語る近現代史』 - martingale & Brownian motion