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ブックマーク / gos.txt-nifty.com (10)

  • ヴィルヘルム・ブッシュの表現 - sasakibara blog

  • まんがと教育 - sasakibara blog

    まんがやアニメに関係する学校に関わって、そろそろ12年になる。編集業のかたわら、1998年から専門学校や大学で講座を持つようになったけれども、ここ4年ほどは教員の仕事の方が主となって、すっかり業が逆転してしまっていた。神戸の大学で専任の教員をしていたため、単に授業を担当するだけでは済まなくなったからだ。今年度は非常勤に立場を変えてもらったけれども、東京との往復は毎週続いたため、あいかわらずめまぐるしい1年だった。 この春には、作品を見ていた学生も卒業して、そんな生活も終わる見込みなので、どうやら編集を中心にした生活にようやく戻ることになりそうだ。 この間、まんがやアニメをめぐる環境はずいぶん変わった。教育機関の方も、少子化や行政改革や産業振興の風潮の中で、かなりの変動が続いた。まんがやアニメの人気を当て込んだ大学関係の動きは、いったん落ち着いたようにも見えるけど、実際にその真価が問われる

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  • シンポジウム「ヴィジュアル・カルチャーと漫画の文法」 - sasakibara blog

    明治大学シンポジウム「ヴィジュアル・カルチャーと漫画の文法――ティエリ・グルンステンを迎えて――」(http://www.meiji.ac.jp/koho/hus/html/dtl_0005230.html) 12月23日に行なわれたシンポジウムを聞いてきた。まんが研究に関するシンポジウムや講演を聞くのは実は初めてなので、興味津々だったけれども、参加者や関係者の努力が伝わってくる内容だった。発表や発言した方々は熱意をもって臨んでいたし、通訳の方々の手際のよさもあって、とても歯切れよく進行していた。だからこそ、現在のまんが研究というものが、アカデミズムという外の世界からやってきた”超人”に直面して、決定的な差をはっきり見せつけられる現実を、まざまざと目撃することになってしまい、とても複雑な気分にさせられた。たぶん、現在のまんが研究の等身大のありさまを自覚するという意味では、このシンポジウムは

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  • 小林プロダクション40周年 - sasakibara blog

    アニメーション美術の小林プロダクションが、今年創立40周年なのだそうだ。設立した小林七郎さんは、77歳の今も現役で美術監督を務めて、陣頭指揮をとってガンガン絵を描いておられる。驚くほどパワフルな方だ。 編集者稼業のかたわら、専門学校や大学で講師の仕事をするようになって10年以上たつけれども、おかげでまんが以外の分野の人と出会う機会が増えて、いろいろな刺激を受けることが多い。中でも、一緒に仕事をすることができて最も幸運だと思えたのが、その小林七郎さんだ。小林さんが担当される授業のお手伝い役になったのをいいことに、授業の時だけではなく、打ち合わせという名目で小林プロダクションに押しかけて、いろいろとお話をうかがったりしているのだけれども、この方の絵についての話はとにかく面白い。 絵とは何か。見るとはどういうことか。そういう根的な問題について、これほど豊かな見識と経験に裏打ちされた話をされる方

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  • まんがと編集者3/編集者はなぜ語らないか - sasakibara blog

    前にも書いたように、まんがの編集者をしていると、実際にどんな仕事をしているのかと聞かれることがある。また、所属していた雑誌や担当作品について、昔話や証言を求められることもある。まんが史の研究のためには、編集者の証言はたしかに役に立つだろうし、それなりに残されていいものなのだろう。 しかし実際には、まんが編集者の仕事の内実が語られることは、あまりない。 どうにも語りにくいのだ。 語りにくい理由はいろいろある。単純な理由のひとつとしては、ほとんどの編集者が、会社という組織に属して給与をもらっている人間だということがある。サラリーマンが自分の仕事の内部事情について、勝手にぺらぺらしゃべったり書いたりするのは、越権行為だ。あるいは、越権行為になることを恐れて、話すのを自然に抑制する。(こういうサラリーマン的な無意識の行動は、出版のさまざまな局面を知らない間に大きく左右している) また、大衆娯楽業界

    まんがと編集者3/編集者はなぜ語らないか - sasakibara blog
  • まんがのアーカイブについて2 - sasakibara blog

    ■原画の保存について 最初からデジタルで描かれたまんが作品は別として、紙に描かれたまんがの原画は、そもそも保存しようにも、長期の保存に耐えない面がある。物理的に劣化する要素が多いのだ。たとえば、修正などに用いたホワイト(ポスターカラー、修正液など)は、すぐにはげ落ちる。まだ落ちていない場合でも、年月が経つと下のインクが浮いてきて灰色になったり、表面が汚れて黒くなったりしているケースは非常に多い。問題が小さければ修復可能だが、効果線などをホワイトで描いていた場合は、元通りに引き直すことはほとんど不可能に近い。 まんが家によっては、原稿を修正するのに原稿用紙の切り貼りをする人がいる。その際にセロハンテープを使うケースがよくあるが、これも年月で劣化して硬化する上に、茶色い痕を残す。劣化したために切り貼り箇所がはがれて、どこかへ紛失している場合もある。切り貼りの境目にホワイトを盛っていた場合など、

    まんがのアーカイブについて2 - sasakibara blog
  • まんがのアーカイブについて - sasakibara blog

    ■国立メディア芸術総合センターの問題 趣旨や内容が空っぽのまま、政府の景気対策のバラマキで突然予算がついて、あわてて後から内容を考えるというドタバタのありさまでは、批判を受けるのは当然だし、そんな話が後でロクな結果を生まないことは、誰でも予想がつく。足腰が定まらないまま決まった企画は、たとえ実現しても、後で不採算になったり批判を受けたりした時に、存在基盤が脆弱だ。そもそも、これを推進する麻生首相や与謝野財務相などの政府側の発言が、日の売れるコンテンツを海外に発信する、という経済効果からの文脈ばかりであって、ちっとも「文化的」ではないのは、さまざまな批判を受けた後も変わらず一貫している。だから、も し完成しても経済効果が認められなかった時には、この殿堂は存在意義を失うことになる。(たとえば2009年7月4日付朝日新聞―― 与謝野氏は「人知れず世界から評価されているアニメ、マンガなど無形文化

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  • 19■書かれたことば - まんがをめぐる問題 〈まんがと言語〉

    以前にも述べたように、文字は書かれたものである以上、音価を持つ言語記号であると同時に、イメージでもある。この両面性については、さまざまな指摘がなされてきた。たとえばフーコーはマグリットの絵について述べる中で、カリグラムを例にして以下のように書いている。 (前略)カリグラムが用いるのはあの文字の特性、すなわち空間内に配置し得る線状の要素としての価値を持つと同時に、音声的実質のひとつらなりの連鎖に沿って展開せねばならぬ記号としての価値をも併せ持つ、という特性である。記号として、文字は言葉を定着することを可能ならしめ、線として、事物を象ることを可能ならしめる。かくしてカリグラムは、示すことと名ざすこと、象ることと言うこと、再現することと分節すること、模倣することと意味すること、見ることと読むことといった、われわれのアルファベット文明の最も古くからの対立を、遊戯的に抹消しようとするのである。(ミシ

    19■書かれたことば - まんがをめぐる問題 〈まんがと言語〉
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/10/06
    「なぜ日本のまんがのフキダシ内の文字は、こんなにも活字ばかりなのか」
  • まんがと編集者2 - sasakibara blog

    歴史的に見れば、近代的なまんがは、主に雑誌や新聞のコンテンツの一部として発達してきた。つまり、まんがは単独で自立的に出版されてきたのではなく、他のメディアの「記事」の一部として生まれ、発達してきたのだ。 このまんがの出自が、現在にいたるまでのまんがのありさまを、大きく決定づけている。まんがは、新聞や雑誌に「従属」するものであり、それらの売り上げに貢献するために、出版元によって作られてきた。まんがは、独立した作品というよりも、「新聞記事」であり「雑誌記事」なのだ。 だから、それを作るのは当然、出版元に所属している人間ということになる。 日で最初の格的な職業漫画家ともいわれる北澤楽天は、時事新報に入社して新聞にまんがを描いた。以前にもここで取り上げた岡一平は、朝日新聞の社員としてまんがを描いている。当時の新聞社では、まんがを「内製」していたのだ。 だからそれらのまんがは、「作家の描いた作

    まんがと編集者2 - sasakibara blog
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/10/06
    「まんがが成立する枠組み」
  • まんがと編集者 - sasakibara blog

    まんが雑誌でフリーの編集者として仕事をしながら、あちこちの学校で授業をしたり、取材で人と会ったりすると、よく「まんが作品ができる上で、編集者はどんな役割を果たしているのか」と訊かれることがある。 多くの場合、質問者が期待しているのは、まんが家の創作活動に編集者がいかに関与して作品が生み出されていくのかという証言であり、まんが家を取材したテレビのドキュメンタリー番組に登場する脇役のように、創作現場のありさまを生々しく語ることが期待されているのだろうな、と思ったりする。だから、まんが家と編集者との熱い人間ドラマを語ったりしたら、それこそ相手は大いに喜んでくれることだろう。 だが、こういう質問は、正直返答に困る。 相手が期待するような話も、決してないわけではないが、その前に言わなければならないことや、留保しなければならないことが、山のようにあるからだ。しかもそれらは、たぶんほとんどがネガティブな

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