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ブックマーク / kanetaku.hatenadiary.org (61)

  • 感想を書きたくなる本 - 新・読前読後

    年齢のせいもあるし、それにともなう立場の変化もあって、以前のようにゆっくりを読む時間がなく読むが減り、ましてや読んだについて、感じたことを文章にまとめる時間もなかなかとれなくなって困ってしまう。せいぜい140字のつぶやきでを買ったこと、読んだことを書くにとどまっている。 そんななかで、感想を書きたくてたまらなくなるにもまれに出会う。最近では正木香子さんのがそうだ。先年『を読む人のための書体入門』*1(星海社新書)が出たときにも半年ぶりくらいにここで感想を書いたのであった(→2014/4/15条)。 今回またしても、正木さんの新著『文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』*2(の雑誌社)を読んだら、140字の連続投稿でもとうてい収まらないほどの思いがわき上がってきたので、久しぶりに感想を書いておきたい。 正木さんは、書体(フォント)から文学作品などを論じる、とてもユニークな

    感想を書きたくなる本 - 新・読前読後
  • 追憶の文学、あるいは夢の顔合わせ - 新・読前読後

    (2001年12月4日に書いた記事の再掲) 小沼丹さんの『木菟燈籠』(講談社)を読み終えた。 何が起こるわけでもない。平静な暮らしのなかで出会う人々、小動物、木、花などとの対話の断面を切り取り、見事な言葉で結晶化する。そんな魔法のようなわざにただ見とれて陶然とするばかり。 小沼文学といえばユーモアという言葉を思い浮かべるが、今回『木菟燈籠』に収録されている十一の短篇を読んではたと気づき、それが他の作品(たとえば『懐中時計』など)にも通底していることに思いが及んで、自分で納得してしまった。 小沼文学には「死」というテーマが色濃く投影されている。すでに小沼ファンの間では周知の事柄に属するのかもしれないが、鈍感な私にもようやくそれを感じ取ることができたようだ。もともと『懐中時計』などに収録されている“大寺さん物”は、奥様を亡くされた小沼さんご自身の姿がそのまま写しとられているわけだが、書『木菟

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  • ソシュールを超えて - 新・読前読後

    正木香子さんの『文字の卓』*1(の雑誌社)は、文字好きにとってこのうえなく素敵なであった。だから、好きのうえに文字好きだろうと踏んだ同僚にも薦めた。 期待どおりそれを面白く読んでくださったようで、今度は逆に、正木さんの新著が出たことを教わった。『を読む人のための書体入門』*2(星海社新書)である。昨年12月に出たで、発売後ほどなく教えられ、すぐ買ったはずだけれど、しばらく読まずに放ってしまっていた。 ようやく身辺に余裕が出てきたので積読の山から書を掘り起こして読み始める。果たして一気に魅了された。前著『文字の卓』からすでに感じていたが、正木さんの文字に対する関心のあり方が、自分のそれととても近いことをあらためて実感した。しかも書では共感するところが随所にあって、何度も深くうなずきながら読み終えたのだった。 『文字の卓』が実践編だとすれば、書『を読む人のための書体入門

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  • 速水御舟に惹かれる心 - 新・読前読後

    「速水御舟―日美術院の精鋭たち―」@山種美術館 年のせいか最近油絵の具を使ったいわゆる洋画から、絹・紙に顔料で描いた日画に惹かれることが多くなった。東京国立近代美術館など大きな美術館の常設展示などでも、日画の空間にやすらぎをおぼえることが多くなった。 それら日画を観ているうち、「これはいいなあ」と感じた作品の作者を確認すると速水御舟であることが何回か重なり、自分は速水御舟作品が好きなのだという自覚を持つようになった。ちょうど夏休みのこの時期、山種美術館にて速水御舟作品を中心とした展覧会をやることを知り、暑いさなかにおもむいた。 山種美術館は広尾にある。道のりでいけば、いつも地下鉄表参道駅から非常勤先の國學院大学に歩いてゆくルートの先に少し足を伸ばしたところにある。日画中心の美術館である山種美術館を訪れるのは初めてだ。2009年に開催された速水御舟展の図録を購い、帰ってから見て

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  • 岩手で観る松本竣介 - 新・読前読後

    生誕100年松竣介展@岩手県立美術館 今年のゴールデンウィーク、無謀にもの実家がある岩手に帰省することにした。渋滞が嫌なので最初渋っていたけれども、盛岡にある県立美術館にて松竣介展が開催中であることを知り、ならばと行くことに決めた。ところが岩手に向かった日は、運悪く大雨が東日を襲った三日だった。断続的に渋滞が続き、また途中仙台では一区間が大雨のため通行止となっており、いったん高速から下りて仙台市内を次のインターチェンジまで向かうことを余儀なくされるなど、結局東京から14時間かけて岩手に到着した。こんな渋滞のなか車を運転するのは、もうこりごりである*1。 しかしながら、松竣介展は、渋滞の列や頻繁に車線を変更して割り込みするようなルール無視の車たちに毒づいて嫌な気分になったり、大雨の中12時間も狭い車内で過ごさざるをえなかったという苦労を一掃してくれるような、充実した内容だった。久し

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  • 時代と心中するということ - 新・読前読後

    『沙漠に日が落ちて 二村定一伝』*1(毛利眞人著、講談社)というが出ることを新刊案内で知ったときに感じたのは、「色川武大さんがたしか書いていた人だ」「エノケンとコンビを組んでいた人だ」というほどのものであった。 刊行後さっそく購入し、読む前にまず色川さんが二村について書いた一文「流行歌手の鼻祖―二村定一のこと―」に目を通した。『なつかしい芸人たち』*2(新潮文庫)に入っている。そこに書かれている色川少年と二村定一の交流、熱狂的な人気を獲得したのも束の間、時代に取り残された哀れな末路は、毛利さんの評伝を読むための格好の踏み台となった。 帯にはこんな宣伝文が書かれている。 エロ・グロ・ナンセンスでしか語りえぬ真実もある。/昭和の初め、独特の歌唱とパフォーマンスで時代を疾駆した/稀代の蕩児の姿を通して浮かび上がる戦前モダニズムの夢。昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの時代、エノケンとともに一世を

    時代と心中するということ - 新・読前読後
  • 本屋大賞との接点 - 新・読前読後

    昨年の年末、書友の同僚とこの一年に読んだのベスト談義をしたとき、書友があげたが、三浦しをんさんの『舟を編む』*1(光文社)だった。辞書編纂の話であるということで少し心が動いたはずだけれど、結局そこから一歩踏み出さないまま年を越し、桜の季節をむかえてしまった。 自分が読んで面白かったなどを他人にも読んでもらいたいと薦めたりするいっぽうで、他人から「これが面白いですよ」と薦められたについては、そのときは「今度買って読んでみます」などと拝聴し、そのつもりではいるものの、結局自分の読みたいを優先するうちに忘れてしまい、きちんと実行したことがあまりない。たいへん失礼な姿勢であった(皆さんスミマセン)。とりわけ書友は信頼がおける読みであるにもかかわらず、だ。結果的にそのことは、『舟を編む』の屋大賞受賞というかたちであらためて思い知ることになる。 これまでわたしは、この屋大賞という賞とは

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  • わたしの好きな文体 - 新・読前読後

    湯川豊さんの『須賀敦子を読む』*1(新潮文庫)を読みながら頭で考えていたのは、「自分の好きな文体」についてだった。湯川さんののおかげで、それを人に説明できるところまでまとまってきたように思う。 もちろんそのなかには、『須賀敦子を読む』に展開されている当の湯川さんの文章が入っている。そのほか思いつくままあげれば、吉行淳之介、瀬戸川猛資、向井敏。このあたりの方々の文体が好きで、これまでなぜ好きなのか、自分でも理由が見つかっていなかった。今回『須賀敦子を読む』を読んで気づいたのは、「揺るぎない文章」というものだ。 つまり、ある文章に使われている単語や言い回しが、まさにその表現以外ないほどに文章のなかにしっかりとつなぎとめられ、ほかの単語や言い回しによって交換可能ではないほどに高い完成度をもっている文体。こういう説明の文章を自分で書くと、どうしても別の表現が可能なくらいのゆるさに満ちているから、

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  • 本を読んでみるものだ - 新・読前読後

    を買って、読むきっかけにはさまざまあるだろう。著者、書名、テーマ…。その意味では、津野海太郎さんの『ジェローム・ロビンスが死んだ なぜ彼は密告者になったのか?』*1(小学館文庫)は、著者ということになるのだろうか。といっても、津野さんが出したすべてを追いかけて読むほどの愛読者ではない。むしろ最近はさっぱり読んでいなかった。 今回は、書店の新刊文庫コーナーに書が正面の棚に面出ししてあった(吉田篤弘さんが強調するような「背中」ではなかった)のがまず目に入った。何せ和田誠さんの装画なのだから。これによって目が釘付けになり、著者が津野さんであること、帯に川三郎さんのことばとおぼしき「ミステリのおもしろさ、温かい読後感。赤狩りの標的にされた受難を描いた好著」とあることで、手に取った。めくるとその川さんが解説だ。帯のことばは解説文の一節なのだろう。帯にはほかに、「芸術選奨文部科学大臣賞受賞の

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  • 新著のことども - 新・読前読後

    わたしにとって3冊目の著書となる『記憶の歴史学 史料に見る戦国』*1(講談社選書メチエ)は、いちおう今日が発売日となっている。 いままでのの購入者としての経験上、土曜日が発売日になっているばあい、その日に店頭に並ぶということはふつうないのだろうと思う。東京だと金曜日のうちに並ぶのだろうか。昨日は夜に出張から帰ってきたため、屋に立ち寄ってまで確認する気力がなかった。出張に行く前に、新聞広告で見つけた『群像』の最新刊(堀江敏幸さんの書き下ろし長篇「燃焼のための習作」が掲載)が気になり、長崎空港のなかにある書店をのぞいてみたけれど、さすがに文芸雑誌は置いていなかった。ましてや自分のを探すことなど、すっかり忘れていた。 とはいいながら、出張に出る前の日(火曜)には、見としてすでに手もとには届いてはいたのである。「自著を手にするのを待つ」という貴重な時間が失われてしまったのが、寂しくもある。

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  • 映画館の空気がゆるむとき - 新・読前読後

    むかしの日映画映画館で観ているとき、ある俳優がはじめて登場する場面で、いっとき館内の空気がゆるむ、和やかになる、という経験をすることがある。そういう雰囲気をつくる俳優として浮かぶのは、伊藤雄之助、小林桂樹、三國連太郎の三人である。 存在感抜群の“怪優”伊藤雄之助はともかく、また小林さんは惜しいことに亡くなってしまったが、三國・小林のお二方は、現在も活躍している老優の若かりし頃の姿だ、と一緒に観ている年輩の方々が懐かしく思われているからかもしれない。ただ、小林さんのばあい、リアルタイムでもそういう雰囲気をもたらしたというから、たんなる懐かしさだけではないのだろう。その俳優の身体が帯びるオーラがそうさせるのである。 三國さんのばあい、現在も一線で活躍され、また「釣りバカ日誌」のような娯楽映画でもおなじみの、また佐藤浩市の父親としても知られるあの俳優が、若い頃こんな感じだったのか、そういう気

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  • 浮世絵からわかること - 新・読前読後

    浮世絵戦国絵巻〜城と武将@太田記念美術館 午前中職場で所用をすませ、地下鉄を乗りついで表参道までゆく。そこから表参道を神宮前の太田記念美術館まで歩いた。いま読んでいる吉田篤弘さんの『木挽町月光夜咄』*1(筑摩書房)に、表参道A4番出口という語句が頻出する。それが気になってA4番出口を探したところ、ちょうどわたしが進むべき方向とは逆に出る出口だった。「ここがかのA4番出口…」と確認しただけで、A3番出口から地上に出た。 さて太田記念美術館の展覧会「浮世絵戦国絵巻」展は、その名のとおり、戦国時代の武将や合戦、お城などを描いた浮世絵の展示であった。もちろん江戸時代から明治にかけて描かれたものがほとんどだから、戦国時代を知るための史料とはなりえない。しかしながら、江戸時代や明治の人びとが、この時代の武将をいかにイメージしていたのか、といった歴史認識を知るうえでは、とても有益な展覧会であった。 いま

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  • 絵巻を流して見ると - 新・読前読後

    生誕100年藤牧義夫展@群馬県立館林美術館 に群馬までのドライブ・デートを誘ったものの、テニスに行く、と断られたため、やむをえず、ひとり車で群馬県立館林美術館に行く。サブ・ドライバーがいれば安心だというもくろみを鋭く察知されてしまったらしい。 首都高と東北道を使って館林まで一時間半。意外と近い。館林美術館は、白鳥飛来地として有名らしい多々良沼の近く、田園風景が広がるなかにある。敷地が広く、前庭も緑と水にあふれ、美術館の建物も明るく奇麗で、絵を観に行くということの喜びを感じさせる素敵な空間だった。 駒村吉重『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』*1(講談社)読了以来、ひとりで盛り上がっていた藤牧義夫熱を発散できる機会を得て嬉しい。駒村さんので取りあげられていた作品群はもちろんのこと、藤牧義夫の版画作品、スケッチ、参考資料(ポートレイトや関係文献)などが広々としたギャラリーのなか

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  • 記憶が家をつなぐ - 新・読前読後

    父母がいて、それぞれに祖父母がいて、そのまたそれぞれに曾祖父母がいる。さかのぼればきりがない。彼ら先祖の一人が欠けても自分という人間はこの世に存在していない、ということを意識するのは、お墓参りの機会だろうか。 星野博美さんの『コンニャク屋漂流記』*1(文藝春秋)は、端的にいうと“ルーツ探し”のである。先祖はもともと千葉外房の漁師であり、家は「コンニャク屋」という屋号で呼ばれていた。なぜコンニャク屋なのか、という疑問から始まり、外房の漁師の家に生まれたものの漁師にならず、東京に出てきて五反田にある工場で働き、最終的に独立して町工場の経営者となった祖父の一生を追いかけてゆく。その手がかりは、亡くなる直前に祖父が綴っていた自伝的ノートである。 星野さんは、自分と直接関わりのある親族である父母・祖父母たちの生きた痕跡をたどりつつ、いっぽうで家コンニャク屋をはじめとする親戚たちが漁師をつづけてい

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  • 増殖する物語 - 新・読前読後

    極上のノンフィクションはさながらミステリ小説のごとし。ややもすればミステリ小説を凌駕する。 ノンフィクションすべてがミステリのような謎解きの要素をもっているわけではなく、そもそもノンフィクションというジャンル自体、謎解きに限定されるものではない。ただミステリ好きとしては、ある謎を追求していくといったスタイルの読み物に惹かれる。 ミステリ小説のばあい、たいてい虚構の世界でくりひろげられるから、たとえ力わざであっても謎解きには何らかの解決がある(わざと解決に至らない作品もあることは承知している)。いっぽうノンフィクションは、実在の人物、実際におこったできごとを題材にしている以上、謎解き要素をもった作品が、かならずしもミステリ小説のようなうまい大団円に行きつくという保証はない。しかし結末がどうであれ、謎解きというその叙述形式において読者を惹きつけることができたら、大成功だろう。極上のノンフィクシ

    増殖する物語 - 新・読前読後
  • 書巻の気 - 新・読前読後

    先日『』を読み終えたとき、自分にとって漱石のベストはどの作品かということを考えた。読んだ作品をあれこれと頭に浮かべたすえ、『』でも『坊っちゃん』でも『三四郎』『夢十夜』でもなく、やはり『こゝろ』に落ち着くのである。 ではなぜ『こゝろ』に惹かれるのか。国語の教科書に載っていた作品のなかで珍しく面白かったということや、ストーリーが劇的だという点が思い浮かぶ。でもいずれにせよ決定的な原因ではないような気がする。 辰野隆の人物回想エッセイ集『忘れ得ぬ人々』*1(講談社文芸文庫)を読んでいたら、漱石を語る文章のなかにその理由らしきものをたまたま見つけ、「これだ」と膝を打った。 辰野隆が安倍能成・小宮豊隆と酒を飲みながら漱石や寺田寅彦の思い出話に花を咲かしていたとき、安倍が『こゝろ』を評して「然しこの小説には何となくブキッシュなところがあるなあ」と言ったというのである(「漱石・乃木将軍・赤彦・茂吉

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  • 藤森照信の刺激 - 新・読前読後

    先の週末、鹿島茂さんの『パリの異邦人』や、小谷野敦さんの『猿之助三代』をたてつづけに読み、読書のカンのようなものが戻ってきたという実感がわいてきた。もちろんそうさせるあればこそだったからだが、それならこれまでだって継続的にいいと出会い、読んできたはずである。バリバリを読み、それについて何かを思い、文章にするためには、きっかけと、ある程度の助走期間が必要だということだろう。 勢いがついてきたので、ここ数ヶ月「読みたい!」という強い気持ちをもって買ったものの、ほったらかしになっていたに一気に手をつけよう、そんな意気込みで次に手に取ったのは、藤森照信さんの『建築とは何か 藤森照信の言葉』*1(エクスナレッジ)である。奥付が1月になっているから、半年近く放っておいたことになるのか。 書は、藤森さんによる建築概論であると同時に、近作である「高過庵」という木の上に乗った茶室が構想され、できあ

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  • 2004-02-07

    過日、さる方から、「山夏彦さんの『無想庵物語』*1(文春文庫)の索引はすごいですよ」といった内容のメールをいただいた。 読売文学賞受賞作品であり、山さんの代表作のひとつに数えられていながら、現在品切。たまたま昨年11月に文庫版を古でようやく入手できた嬉しさが余韻として残っていたこともあり、さっそく索引を見るとたしかに素晴らしい。無味乾燥にページナンバーが並んでいるのではなく、人名であればその人物のプロフィールが簡単に説明されているほか、主要な登場箇所では、ページナンバーのところにそこで述べられているエピソードが要約されているのである。索引だけで40頁が割かれる充実ぶりだ。 たとえば著者自身については、こんなふうに記されている。 中学二年で父露葉の友無想庵に初めて会う  7 気心の知れぬ少年。ほとんど口をきかぬ    7 川田順会いたがる。手紙の往復あり      19 (以下略)エピ

    2004-02-07
  • 洲之内本は最後の砦 - 新・読前読後

    昨夜神保町へ出る所用があったので、まず神保町シアターに立ち寄り、特集上映「映画の昭和雑貨店2」に寄せて編者川三郎さんが書いた小冊子「卓袱台のある暮しから明日を夢見ていた頃」をもらってきた。 そのあと東京堂書店に向かう。一冊購入。これはいずれ読んでから記そう。最近疲れのゆえか体調にちょっとした不安を抱えているのだけれど、東京堂で新刊書を眺めているうち陶しさが吹き飛んでしまう。 東京堂ではもうひとつ目的があった。洲之内徹さん没後20年を記念して出された『気まぐれ美術館』シリーズ6冊セット*1がどんなものなのか確かめたかったのである。書籍部で入れてくれないのはわかっている。買うかどうかは実物を見てから決めたかったのだ(→10/1条)。いや、購入したいという気分は決定というべきほどまで高まっているから、買うまでに必要な通過儀礼として、実物を確認したかったのだ。 一階の新刊コーナーにはなく、でも

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  • 木村荘八の挿絵本 - 新・読前読後

    永井荷風の『墨東綺譚』。もちろん小説としてのできばえには文句のつけようがないけれど、を手に取って文字を追うときのあの心地よさは、木村荘八の手になる挿絵の力にあずかるところ大だ。繰り返しページを開きたくなるのもあの挿絵のおかげだし、すでに岩波文庫版*1をもっているのに、角川文庫の新装版*2まで買ってしまったのも、挿絵がきちんと入っているのが嬉しかったからにほかならない。 全集という容れ物に収められた作品は、その作家の書いたテキストが主眼だから、当然挿絵は入らない。全集で『墨東綺譚』を読むのは、福神漬やラッキョウなしでカレーライスをべるようなものだ。いや、『墨東綺譚』をカレーにたとえるのは失礼か。それに木村荘八の挿絵はカレーにおける福神漬より大事に思えるので、こう言いかえよう。大のビール好きがノンアルコールビールを飲むことを余儀なくされたようなものである。 『墨東綺譚』挿絵の原画は、以前展

    木村荘八の挿絵本 - 新・読前読後