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ブックマーク / sportiva.shueisha.co.jp (11)

  • 門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」

    webスポルティーバ野球の記事一覧プロ野球門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」 「病院でテレビ見とったら、兆治の家が燃えてる言うから、なんかいなと思うとったら......元気でやっとると思うとった人間が、まさかや」 村田兆治さんが亡くなり1週間が過ぎた日の午後。ホテルのミーティングルームで会った門田博光は、ずいぶんと疲れているように見えた。自らも病院通いが続き、そこへ同時代を戦ったライバルの突然の訃報。気分が沈んでいることは、その口調からも十分伝わってきた。 「一酸化炭素というのは、ある程度吸ったら意識がなくなるんか? おそらくは苦しまんと逝けたということかいな」 門田も過去にボヤを起こし、気づくのがあと少しでも遅れていれば......という経験をしたことがある。酒を飲みながら趣味の油絵を描いていたところウトウトと

    門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」
  • 「球史に残る5人の名投手」をジャッジ歴35年の杉永元審判員が選出。「野球を8イニングに変えた男」がいた

    webスポルティーバ野球の記事一覧プロ野球「球史に残る5人の名投手」をジャッジ歴35年の杉永元審判員が選出。「野球を8イニングに変えた男」がいた 昨年までプロ野球の審判を務めた杉永政信氏。ジャッジ歴35年はNPB史上4位タイの長さである。そんな超ベテラン審判員だった杉永氏に、これまでジャッジしてきたなかで「印象に残っている投手5人」を挙げてもらった。審判員が選ぶ「名投手」の条件とは? 日人選手初の「100勝・100ホールド・100セーブ」を達成した上原浩治この記事に関連する写真を見る上原浩治(元巨人ほか) 「絶対に抑える」「絶対に勝つ」という観点からすれば、上原浩治投手は当の意味で最強の投手でした。日球界唯一の「100勝・100ホールド・100セーブ」を達成したように、先発、中継ぎ、抑えで実力を発揮した稀有な存在です。 9イニング平均与四球率2.00個で抜群のコントロールと言われると

    「球史に残る5人の名投手」をジャッジ歴35年の杉永元審判員が選出。「野球を8イニングに変えた男」がいた
  • 関係者やファンの間で批判があるマルシュロレーヌに「賞なし」の真相。歴史的偉業は無視されたわけではない

    JRAの年度表彰となる『2021年度JRA賞』が1月11日に発表された。 その顔ぶれを見る限り、各賞とも順当に選出されたように思える。だが、1頭の馬の評価において、競馬関係者をはじめ、ファンの間でも大きな議論を呼んだ。 それは、ダート競馬の場であるアメリカの、それもトップオブトップのGIブリーダーズカップディスタフ(アメリカ・ダート1800m)で、日調教馬として史上初めて勝利を飾ったマルシュロレーヌ(牝6歳)に対して、特別賞を含めて何らタイトルが与えられなかったことだ。 ブリーダーズカップディスタフを制したマルシュロレーヌこの記事に関連する写真を見る JRA賞には各部門賞の他に、特別な功績を残した馬に対して送られる特別賞、あるいは特別敢闘賞と呼ばれるイレギュラーな賞が設けられている。近年では、クロノジェネシス(2020年)やモーリス(2016年)などが選出されている。 各部門賞は新聞、

    関係者やファンの間で批判があるマルシュロレーヌに「賞なし」の真相。歴史的偉業は無視されたわけではない
  • 「森・野村」のハイブリッド野球で優勝。辻発彦と渡辺久信が両監督から学んだこと

    黄金時代の西武ナインから見た野村克也 第4回 「薫陶」 【「森野球」と「野村野球」を知る辻発彦と渡辺久信】 1980年代後半から1990年代にかけて、西武黄金期を築いたメンバーは、1994(平成6)年限りでチームを去った森祇晶監督と軌を一にするように、次々とチームを離れていった。 共に黄金時代の西武からヤクルトに移籍した辻発彦(左)と渡辺久信(右) Photo by Sankei Visual 森が西武を去る前年、ヤクルトとの激闘を終えた直後の1993年オフには、ダイエーホークスに転じていた根陸夫の画策により、渡辺智男、内山智之、そして秋山幸二の3人と、佐々木誠、村田勝喜、橋武広の3人による大型トレードが実現する。さらに、この年限りで戦力外通告を受けた平野謙は千葉ロッテマリーンズに移籍した。 1995年にはFAで工藤公康、石毛宏典がダイエーに移籍。1996年には辻発彦(「辻」は来1点

    「森・野村」のハイブリッド野球で優勝。辻発彦と渡辺久信が両監督から学んだこと
  • 工藤公康と伊東勤に与えた幻想。野村克也は西武ナインを不安にさせた

    黄金時代の西武ナインから見た野村克也 第3回 「敬意」 【工藤公康は、戦う前から疑心暗鬼になっていた】 野村克也の掲げる"ID(Import Data)野球"に石毛宏典や秋山幸二が反発したのに対して、現ソフトバンク監督・工藤公康、そして現中日ヘッドコーチ・伊東勤は、いずれも野村に対する称賛、敬意を示した。例えば「戦前のヤクルトの印象は?」という質問に対して、工藤はこんな言葉を残している。 「僕は"ID野球"というものがどういうものか知りませんでした。だから戦前は『僕らが気づいていない隙を突かれるのではないか』『特徴やクセを見抜かれているのではないか』といった不安がありました」 黄金時代の西武を支えたキャッチャーの伊東勤(左)と、投手の工藤公康(右) photo by Sankei Visual 戦前から、相手に「特徴やクセを見抜かれているのではないか」と警戒させる凄みが野村にはあった。さら

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  • 口撃VS沈黙。ヤクルト対ライオンズの日本シリーズにあったもうひとつの闘い

    黄金時代の西武ナインから見た野村克也 第2回 「反発」 【石毛宏典はID野球に反論】 野村克也の標榜する"ID(Import Data)野球"に対して、持論を主張して明確に反論を展開したのが西武黄金時代のチームリーダー、石毛宏典だった。1992(平成4)年、ヤクルトとの日シリーズが決まり、野村の"ID野球"が注目を集めていた頃、石毛は次のような言葉を残している。 「いくらIDといっても、野球はあくまでも人間のやるスポーツ。日シリーズにはデータを超えた戦いがある。そんなものに負けるつもりはありません。データなんて何するものぞ。そんな気持ちで戦います」 1992年の日シリーズ前に握手を交わす、西武・森祇晶監督とヤクルト・野村克也監督  photo by Sankei Visual この時から四半世紀以上が過ぎ、あらためて当時の心境を聞いたが、石毛の口調は当時と変わらぬ熱を帯びていた。 「

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  • 敵将をこんなに意識するものか。野村克也を西武黄金時代のナインが語る

    黄金時代の西武ナインから見た野村克也 第1回 「序章」 【黄金時代の西武の面々は「野村克也」を強烈に意識していた】 日シリーズ史上、屈指の名勝負と称される1992(平成4)年、そして翌1993年の西武ライオンズとヤクルトスワローズとの真っ向勝負。西武・森祇晶監督、ヤクルト・野村克也監督、いずれも「知将」の誉れ高い名監督による息詰まる戦いは、四半世紀を過ぎた今でも多くの人々の記憶に生々しく息づいている。 指揮官としてヤクルトをリーグ優勝4回、日一に3回導いた野村克也 ここ数年、この2年間の戦いの全貌を描くべく、西武とヤクルトの関係者、のべ50人ほどに当時の心境について話を聞いて歩き、このたびようやく『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)と題して発売される運びとなった。森、野村両監督をはじめとする当時の関係者たちは、口々に「どちらが勝ってもおかしくなかった

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  • 大船渡は佐々木朗希を育て、守った。登板回避よりも伝えられるべきこと|高校野球他|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

    物事には表があれば裏がある。 「1億総評論家時代」と言われる今、表を見ては裏をつつき、裏を見ては表を引っ張り出そうとする。そんな光景が日常にあふれている。 岩手大会決勝戦、大船渡が「故障を防ぐため」という理由で怪物エース・佐々木朗希を登板させなかったことは、賛否両論を巻き起こした。だが、もし佐々木が登板していたら、今度は「連投などありえない」という批判が起きていたに違いない。つまり、佐々木が投げようが投げまいが、いずれにしても大船渡は批判を浴びていたはずなのだ。 岩手大会決勝戦で登板することなく敗れた大船渡の佐々木朗希(写真左から2人目) ルールに違反している。指導者と選手の間で認識に乖離(かいり)がある。そんな誰の目にも明らかな問題があれば、批判されるのもやむをえない。だが、ルールにのっとり、指導者の方針に選手が納得しているなら、第三者が過度にとやかく言うべきではないだろう。 ましてや高

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  • 菊池雄星が好例。現代野球は「データリテラシー」が重要になる

    幕張に小雨が降る6月23日の昼すぎ、練習を終えてZOZOマリンスタジアムのクラブハウスに戻ろうとする菊池雄星の周りに、記者たちの輪ができた。登板翌日、先発投手が取材陣に囲まれることは珍しい。 今季8勝目を挙げて絶好調の菊池雄星 前日、ロッテ戦に先発して7回無失点で今季8勝目を挙げた西武のエースは、ある問いかけを残していた。 「フォームを試行錯誤して、6回からかなり変えました。どの辺? 映像で見てもらえればいいと思います」 筆者を含め、映像を見ても変化をわからなかった記者たちが翌日、答えを求めて集まったのだろう。 「わからないくらいの微妙なところでやっているということです」 暗に解答を求めた記者を、菊池はイタズラな笑みを浮かべて焦らした。前日、「気持ちよく腕が触れるところ」と話していたことから推測すると、腕を振る角度を変えたのだろうか――。 「去年と比べて今年は9センチくらいリリースポイント

    菊池雄星が好例。現代野球は「データリテラシー」が重要になる
  • 53歳の山本昌が、突然ピッチング練習を再開。その驚くべき理由は?

    まるで映画のワンシーンでも見ているかのようだった。 夕闇に染まるブルペン、ジャージ姿の大男がマウンドに立つ。両腕を揃えて天に掲げるような特徴的なワインドアップから、捕手に向かって軽く左腕を振り下ろす。球速にすれば80キロにも満たないようなスローボール。それなのに、ボールにはしっかりと回転がかかっており、捕手のミットを「ドスン」と叩く。 ブルペンの脇でトレーニングしていた10人ほどの高校生が、一斉に手を止めて大男のキャッチボールにじっと見入る。誰も言葉を発しない。ただただ静謐(せいひつ)な時間が流れていた。 球児たちの視線に気づいた大男は、苦笑しながらこう言った。 「ごめん、ごめん。3年ぶりだからまだこんなボールしか投げられないけど、あと2、3カ月もすれば、お前らよりいいボールを投げるようになるから」 山昌コーチ(写真中央)の話を熱心に聞く日大藤沢の選手たち 大男は8月で53歳になろうとし

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  • 死後15年。今も野球界に色濃く残る「根本陸夫の遺産」

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 プロローグ 94年オフ、王貞治をダイエーの監督に招聘したのが根陸夫だった。 今から15年前の1999年4月30日、ひとりの男がこの世を去った。根陸夫――野球界に様々な革命を起こした男だ。彼の死から15年経ったが、根が残してきた功績は消えるどころか、色褪せることなく今も生き続いている。 沢村栄治とベーブ・ルースが対戦した、1934年11月の日米野球。そのときの「日本代表」メンバーを主体として誕生した大日東京野球倶楽部が、のちに巨人軍となった。 現在のNPBに連なるプロ球団第1号。その誕生から80年の歳月が経った。ゆえに今年は「プロ野球80周年」と称されているわけだが、それだけの長い歴史が紡がれてゆくなかには、いくつかの「革命」が起きている。 昨年、2013年の日プロ野球、パシフィック・リーグのペナントレース最終盤。東北楽天が球団初の優勝

    死後15年。今も野球界に色濃く残る「根本陸夫の遺産」
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