「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング
李忠成選手の日本国籍取得や、「李」という名前でプレーを行っているということなどについては、本人の選択なので、ぼくには何も言いようがない。ぼく自身は、こういう種類の選択を、これまでの人生で行ったことも強いられたこともないからだ。 ただ、国籍の選択であるとか、民族名を名乗って仕事や生活を続けるという選択において、特定の人たちに、過剰で不当な現実的・心理的負担をかけることをやめない、この社会と国家を、その成人国民として腹立たしくも恥ずかしくも思う、ということだけである。 この記事のなかでは、 『李』という名前で出ても日本代表で活躍できること、希望を見せられることをゴールという結果で示したかったんです。 という李選手の言葉が紹介されているが、どんな名前で出ても代表選手として活躍でき、希望を見出せたり見せられたりするというようなことは、本来当たり前のことであり、そんな当たり前の社会をぼくたちが作って
きのうの本放送と、今夜の再放送と、二回見た。 非常に印象的だったのは、後半に出てくる元GHQの男性が、「アメリカ側は次第に日本の(朝鮮人に対する)偏見に染められていった」と語っていた場面。 貴重な証言をしてる人の言葉にいちゃもんを付けても意味がないと思われるかもしれないが、誰にとっても大事な点だと思うので書いておきたい。 日本人と日本政府が、朝鮮人に対するいわゆる差別感情、より的確にいえば憎悪と反感と警戒心、恐怖心といったもので満たされていた(いる)ことは事実だろう。 だが上のような言い方ではまるで、自分たちアメリカの側は、そういう偏見とは無縁だったし、そうした感情があることを知らなかったし想像も出来なかった、みたいに聞こえる。 事実、番組でも、そういうニュアンスの説明が語られているところがあった。 だが、植民地統治のようなことを行えば、特に支配者である側の社会にどのような偏見と差別の感情
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