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ブックマーク / petapetahirahira.blog50.fc2.com (41)

  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と

    『会田誠展:天才でごめんなさい』は森美術館が企画立案した会田誠売り出しのイベントだろうから、とやかく言うつもりはない。会田氏は芸術をビシネスにすることをしきりに照れているけれど、「エロ・グロ」も「画壇への反抗」もビジネス上の戦略だったわけだし、それはそれなりに成功して、《あぜ道》が中学の美術の教科書に掲載されるまでになった。しかし、同じ理由でメジャーにもなれない。 このジレンマを逃れるために今回のイベントがある。具体的にどんな戦略なのか仔細はわからないが、会田誠がカイカイキキに近づいているのもその一環だろう。まあ、そんなことは余計なお世話だろうから、以前からなんとなく感じていたことだが、この展覧会ではっきりしたことがある。それは会田誠はじつは絵がわからないのではないかという疑いだ。 会田誠は確かに絵が上手い。展覧会のサブタイトルに「天才でごめんなさい」と言っているのだから、それがギャグにな

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    gauqui 2013/02/25
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と

    これは「バルト批判」のつもりで書きはじめたものだが、中途半端に終わってしまった。バルトは写真を記号学的に分析すると言いながら、記号学的修辞で飾り立てた古典的な図像学を開陳している。図像学は宗教画を主として対象にするのだが、彼の映像の修辞学と称するものは、宗教画の代わりに広告写真を対象にしたイコノグラフィーである。ご存知のように広告写真と宗教画は同じ目的をもっている。 (ホームページ『絵画の現象学』より転載) *  *  * 写真の質は「それはかってあった」だと、バルトはいう。写真は常に実在を示すが、絵は、ケンタウロスであろうが、リンゴであろうが、「それはかってあったもの」ではない。もちろん絵も、今そこに存在するがごときイルージョンを呼び起こすことはできるけれど、「それはかってあった」ものではない。ラスコーの洞窟画は、写真に負けない迫真性をもっているし、そこに描かれている野牛は、「かって存

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    gauqui 2013/01/31
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と

    もう一度、絵画における「知覚」とその「知覚に基づいた想像」の違いを、モノクロ写真の色で確認しておく。モノクロ写真の人物の灰色の肌をピンクの肌として見ている。しかし、知覚している印画紙にプリントされた人物の肌は灰色だ。ところがPhotoshopで着ているものをカラーにして、肌はそのまま灰色にしておくと、肌はピンクではなく灰色に見える。灰色が明度ではなく色彩に見えたわけだ。人間の肌は人種よって違うけれど、モノクロ写真では、灰色の明度や容貌から肌はピンクだと想像するけれど、衣服がカラーだと、灰色の人間に見え、そんな色の人間は経験に反するので異様に感じる。 クールベの《ルー川の洞窟》の黒にも同じことが言える。キャンバスの表面の黒い色を知覚している。その黒の知覚に基づいて我々は洞窟の暗闇を見ている。その暗闇は「人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョン」(グリーンバ

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    gauqui 2011/12/20
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    横尾忠則が全作品を兵庫県に寄贈寄託したそうだ。どういう契約になっているか知らないが、要らなくなったらどうするのか。全国の美術館で密かに所蔵品が破棄されているという噂もある。もちろん後世が横尾忠則をどう評価するかわからない。しかし芸術として評価されるとは思えない。いずれは東京都現代美術館にあるオブジェと称されるガラクタのように始末に困ることになる。そうなら横尾氏の作品もせいぜい美術館ではなく博物館に昭和の資料として幾つか残しておくだけでいいのではないか。 鶴太郎画伯の美術館は4つあるそうだ。検索したら確かに4つあった。草津片岡鶴太郎美術館、山中片岡鶴太郎工藝館、福島片岡鶴太郎美術庭園、伊万里片岡鶴太郎工藝館の4つだ。どれも観光地の客寄せの施設のようだ。まさか補助金をもらっているわけではないだろう。秘宝館と思えばそんなに目くじらたてる必要もない。民営なら広報だし、採算が合わなければ閉館になる。

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    gauqui 2011/12/12
    『横尾氏“全作品”兵庫に』東京新聞(11/30)
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と 3. ポロック展:『インディアンレッドの地の壁画』の黒いフレーム

    愛知県美術館の『ジャクソン・ポロック展』で書き忘れていたことがある。《インディアンレッドの地の壁画》が黒いフレームに嵌められていたことだ。カタログの写真にはもちろんこの黒フレームは写っていない。それに、黒や白のポーリングの密度がキャンバスの縁では疎らになっていることだ。その両方が相俟って、毛玉のように絡まった線が絵画平面から余計に強く飛び出して見えたのではないか。この黒い枠は、ポロック自身の考えなのか。それとも、現在の所有者の趣味なのか。古典名画を金の額縁に入れるのとは違って、抽象画を黒いフレームに嵌めることは、随分と作品に影響する。図像主題のないポロックのポード絵画では黒い枠は、内部の黒や白の線に影響を与えているだろう。 今回の展覧会の最大の呼び物である《インディアンレッドの地の壁画》は、ポロックの絶頂期の1950年の傑作の一つだというのだが、そのあまりに暴力的なイリュージョンが、来の

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    gauqui 2011/11/29
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と 2. ポロック展のあと、所蔵作品展でモーリス・ルイスの『デルタ・ミュー』を見た。

    ニョウボは、現代美術館のロスコ展で涙を流したのを今でも悔やんでいる。あれは、浪花節に感動したようなものだと言い張る。それでも、川村記念美術館の《緑、黒、黄褐色のコンポジション》や大原美術館の《Cut Out》を見て、ひょっとしたら、ポロックが分かるかもしれないと、名古屋に来る前は少しは期待しているような口ぶりだった。ところが、実際に見て、やっぱり分からないという。マチスのような空間があると思ったけれど、無い。黒だけで何でも解決しようとしている。人の形や顔が見え隠れして煩わしい。横長の作品は額に入れた「書」に見える。やっぱり抽象画はわからない。マチスが一番いい等々。 ニョウボはそう言ってガッカリしているし、私の方といえば、立体視やら運動視差やらのオプティカル・イリュージョンのために、目がおかしくなり、まともな絵画的イリュージョン(想像)を見ることもできなくなり、ふたりとも草臥れてロビーに出た

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    gauqui 2011/11/19
    モーリス・ルイスのデルタ・ミュー
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    『前編』からつづく 「Overpainted Photographs」は文字通り写真の上に絵具が擦りつけられた作品で、具象画の上に抽象画が重なっていることになる。擦りつけられた絵具が抽象画としてさまざまな程度にイリュージョンを持つ。《フィレンツェ》のシリーズでは、まったく透明な写真の表面に絵具がこびりついているように見えるものもある。あるいはフィレンツェの街並みに沿うように写真のイリュージョン空間の中に侵入しているように見えるものもあるけれど、絵具は写真のツルツルした物理的表面に付着している。 絵具がスキージで擦りつけられているので、なおさら絵具の物質感が強調され、写真の非物質的イリュージョンとの対照が際立つ。こういうところが図解的と言われるのだが、こんどの「『New Overpainted Photographs」では、このスキージの技法ではなく、新しいoverpaintの技法を使った作

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    gauqui 2011/11/17
    リヒター
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    「WAKO WORKS OF ART」のリヒター展は「New Overpainted Photographs」というタイトルだったので、あまり期待していなかった。写真の上に絵具を擦りつけた作品は川村美術館の「ゲルハルト・リヒター -絵画の彼方-」で見ていたからだ。自分で撮ったフィレンツェの風景写真を使ったというoverpaintedの作品は、私には図解的でそれほど面白くなく、実験的な試作品のように思えた。 リヒターの写真をつかった作品は、「絵画とは何か」の解説のようなところがあって、評論家はいろいろ論じられて面白いのだろうが、素人にはその技術やアイディアに感心するだけの作品になっている。写真は、インデックスとイコンの二重の記号なのだが、リヒターはインデックス記号としての写真の物理的表面であるボケ・ブレ・ソフト=フォーカスを模倣することで被写体ではなく、写真そのものをスーパーリアルに再現した

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    gauqui 2011/11/17
    リヒター
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と 1. ポロック展を見るために名古屋まで車で行ってきた。

    往復、7時間近く運転して愛知県美術館に『ポロック展』を見に行ってきた。その甲斐があったかどうか、初期のものから晩期のものまで展観して、それなりに見応えがあったけれど、最盛期の大作がなかったのは残念だった。 ポロック論については、もう一度東京で見てから書くことにして、われわれが問題にしていた運動視差について述べておこう。一番大きな《インディアンレッドの地の壁画》を見て驚いた。隣の展示室の突き当りの壁に遠く見えたのだが、ステレオグラムのように、絡まった線が浮き上がって見えたのだ。奥行きのイリュージョンなんて生やさしいものではない。まるで、ステラの立体絵画のように、絵画表面から、盛り上がってみえる。近づいていくと、浮き上がりは次第に少なくなり、さらに近づくと、オプティカル・イリュージョンはほとんどなくなり、普通の絵画的奥行きが見えてくる。そこで、首を動かせば、運動視差が生じ、奥行きのイリュジョン

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    gauqui 2011/11/17
    ポロック
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    ポロックの個展を見る機会は一生訪れないと思っていた。それが、日初回顧展と銘打って11月11日から愛知県美術館で『ジャクソン・ポロック展』が開催される。東京の国立近代美術館でも開催されるのだが、今回は名古屋まで行くつもりだ。 藤枝晃雄が「ポロックが分からないものども」と言うとき、それは絵が分からない評論家と言う意味だが、何を隠そう私もポロックが分からない。そのことは以下のブログを読んでもらえば判る。 ジャクソン・ポロックの問題(1) ジャクソン・ポロックの問題(2) ポロックが易しいというなら、自分でやってみろ。【首振り立体視①】 ポロックの空間の秘密  【首振り立体視②】 分らないのは、あまりポロックを見ていないからだ。ロスコに感動したのは、東京都現代美術館の個展(1996年)で、沢山の作品を年代順に見たからだ。そう思って今回のポロックの回顧展を楽しみにしている。 首振り立体視で見えた「

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    gauqui 2011/11/11
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    ホームページ『絵画の現象学』の評論『写真はインデックス記号か?』を転載しておく。これはまだ、図像客体と図像主題の類似と図像主題と被写体の類似の違いをハッキリとは理解していない。注意して読んでください。 『写真はインデックス記号か?』 これはバルト批判のつもりで書きはじめたものだが、中途半端に終わってしまった。バルトは写真を記号学的に分析すると言いながら、記号学的修辞で飾り立てた古典的な図像学を開陳している。彼の映像の修辞学と称するものは、広告写真のイコノグラフィーである。広告写真と宗教画は同じ目的をもっているのだ。 *  *  * 写真の質は「それはかってあった」だと、バルトはいう。写真は常に実在を示すが、絵は、ケンタウロスであろうが、リンゴであろうが、「それはかってあったもの」ではない。もちろん絵も、今そこに存在するがごときイルージョンを呼び起こすことはできるけれど、「それはかってあっ

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    右図は岡田さんのブログ「『見える通りに見る』ということ」からコピペした。遠近法とポンゾ錯視を合わせた図像ということだ。図像には以下の説明がついている。 この単純な図柄において、私だけでなく多くの人に奥行き知覚が為されているだろうという推測は、次のことによっても補強できます。私はこの絵に重ねた、コピペによって作った、赤い二の線の上が下より、長く太く感じられるのです。 そしてこのような私の知覚はポンゾ錯視として一般的に認知されている錯視だからです。 二の赤い線の上が下より、長く太く感じられるというのは良い。さらに私には上の線が明るく彩度が高いようなきもする。しかし、なぜ、これが錯視だと思うのだろう。錯視に特有な感覚はない。錯視だというのは岡田さんが、この二の赤い線はコンピューターでコピペしたことを知っているからだ。「客観的に」同じ長さの線は、異なった背景風景の中に置いても同じ長さに見える

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    gauqui 2011/10/17
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と

    前回の記事で、ピカソの《ドラ・マールの肖像》を見ると約束した。そのあと『ピカソ展』のカタログを繰り返し見ている。会場ではチラッとチラツキが見えたのだけれど、カタログではなかなかチラツキの錯視が見えない。実作では横顔と正面の顔がチラチラと交替するような気がしたのだが。 ともかく、知覚、錯覚、図像主題を気にせずに、顔に注意を向けよう。なかなか視線が定まらない。顔がどう見えるか。大雑把に言うと、三つの分かれる。 (1) 横顔と正面やや右からの顔が合わさった顔 (2) 二人の顔、右半分の顔の向こう側から横顔がのぞいている。 (3) 一人の顔(ドラ・マールの肖像) (1)は、いわゆる図像客観で、知覚だ。図像客観を見るのは結構難しい。物理的図像(キャンバス地や絵具)を見るのはモニターではなお難しい。 (2)は、二つの顔が別々の平面にあるように視える。見えない人は、片目で首振り立体視をすると(たぶん)ハ

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    gauqui 2011/06/18
    〔10〕美術評論とはなに:ピカソの肖像画を見る〈知覚、錯覚、想像〉
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    前回のブログに対する岡田武さんからのコメントを以下転記 懇切丁寧なご教示ありがとうございました。 目の錯覚と錯視、知覚、それにイリュージョンがそれぞれ別のもということを初めて知りました。 ミュラーリアーの錯視を持ち出したのは、私の理解では錯視とは目に係わる錯覚のことで あり、計れば同じ長さの二の線が違って見えるこの目の錯覚とは、なんらかの要因で現 れた知覚であると。つまり錯覚とは客観的事象とは異なる知覚であると思っていました。 そしてイリュージョンの来的概念は「錯覚」と訳されます。オプティカルイリュージョンは光学的錯覚。ピクトリアルイリュージョンは絵画的錯覚であり、これらは知覚の多様性から計られるものであると思っていました。 それから絵を鑑賞する際の物差しの問題ですが、私は鑑賞者であると同時に作り手でもありますから、その際、物差しは必需品です。実際の物差しはもちろんですが観る時、作る時

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    gauqui 2011/06/06
    〔9〕美術評論とはなにか:ピカソの肖像画を見る
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    以前コメントをしてくれた岡田武さんから質問があったのでお答えしておきます。 ミュラー・リヤー錯視や二つに交わる線分の間に平行線を入れると、上の線分が長く見える、ポンゾ錯視はご存知だと思いますが、この同じ長さの線分が違った長さに見えるのは知覚でしょうか、それとも知覚による想像でしょうか、あるいはイリュージョンでしょうか。 行き違いになったけれど、前回の『美術評論とはなにか〔7〕』にほぼ答えがあると思います。最後のところは分かりにくかったので、少し書き加えておきました。 まず、純粋な知覚はないということ。知覚というのは常に想像や記憶を含んでいるし、想像というのは記憶に基づいているし、記憶(想起)というのは知覚に基づいている。あるいは、また、絵画を見ると言うことから考えれば、平たい物理的立体の知覚があって、その平面に絵具で描かれた図像客体が見える。これは知覚とイリュージョンが同じ視野の中に共存し

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    gauqui 2011/05/21
    美術評論とはなにか
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    イリュージョンの観点からもう一度「絵画を見る」ことを整理してみる。 フッサールの「絵を見ること」の三層構造(物理的像、像客体、像主題)の分析は、白黒写真に基づいている。絵をみることは、「知覚に基づいた想像」であり、自由な想像や想起とは異なる。 紙に円が書いてある。これは知覚だ。それがお皿やサッカー・ボールに見えるのはイリュージョン(像主題)だ。しかし、紙に描かれた黒い線が円に見えるのは純粋な知覚とはいえない。閉じられた線分が円に見えるか楕円に見えるかあるいは四角に見えるかは、純粋な知覚を超えたゲシュタルトの知覚である。しかし、ゲシュタルトは立体の知覚でも作用しているので、あえて、これをイリュージョンとはいわない。どちらにしろ、これは幾何学的図形であって自然的対象(像主題)ではない。 それでは円が球に見えるのはどうだろう。あるいは一つの斜辺を共有した二つの三角形が四角錐に見えるのは、イリュー

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    gauqui 2011/05/01
    フッサール「絵を見ること」の三層構造
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    イリュージョンの観点からもう一度「絵画を見る」ことを整理してみる。 まず、フッサールの「絵を見ること」の三層構造(物理的像、像客体、像主題)は具象絵画(白黒写真)の分析に基づいていた。絵画意識は「知覚に基づいた想像」であり、自由な想像とは異なる。 紙に円が書いてある。これは知覚だ。それがお皿やサッカー・ボールに見えるのはイリュージョン(像主題)だ。しかし、平面の黒い線が円に見えるのは純粋な知覚とはいえない。すでに閉じられた線分が円に見えるか楕円に見えるかは、純粋な知覚を超えたゲシュタルトの価値をもっている。しかし、ゲシュタルトは立体の知覚でも作用しているので、あえて、これをイリュージョンとはいわない。幾何学的図形であって自然的対象(像主題)ではない。 それでは円が球に見えるのはどうだろう。あるいは一つの斜辺を共有した二つの三角形が四角錐に見えるのは、イリュージョンだろうか。勿論イリュージョ

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    gauqui 2011/04/29
    具象と抽象
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    美術評論の混乱の多くは美術評論家が像(絵画や彫刻)を見ることがどういうことか理解していないことに原因がある。 最初に断っておくけれど、この『美術評論とはなにか』ではなるべく専門用語を使わない。それは、この小論がアマチュアの美術愛好家が美術評論家にダマされないようにするのが目的だからだ。それと、美術評論用語を使うと、肝心の絵を見ないで議論のための議論に陥るからだ。 それと、あくまでも「事象そのものへ」が原則であり、作品を見ることに基づいて記述していく。その場合その事象にともなう曖昧さは避けられない。その場合、それはどちらかにきめるのではなく、その曖昧さをその事象の質的なものとして記述するに留めておくことだ。決して理論を構築してはならない。とくに記号論には気をつけたほうがよい。もし、美術評論を読み始めて、記号論風なことが書いてあったら、すぐに読むのをやめることを薦める。理由はおいおい述べてい

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    gauqui 2011/04/28
    「知覚」と「想像」
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    絵画論を混乱させているのは、絵を見ることとオブジェ(立体)を見ることを区別しないからだ。もちろん現実の作品はどちらか一方だけということはない。だから議論が混乱する。 小林正人の《LOVE もっとひどい絵を!》は、知覚の対象である三次元の事物だからつまらないと言ったが、だがらと言って、《Love ・・・》が、波打つキャンバス地にヌードや抽象画や顔が描かれているのだから、ジャッドの箱のように、全くのリテラルな客体というわけではない。図柄に注意を向ければ、イリュージョンが見えないわけではない。 たとえば、掃除機にミッキーマウスが描かれているとする。もちろんイリュージョン(図像主題)がみえる。ところが、掃除機は立体であり、知覚の対象、すなわちオブジェだ。見る位置によって様々な面が見える。それによってミッキーマウスも色々に変化する。斜めからみれば、ミッキーマウスは歪んで見える。反対側から見ればミッキ

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    gauqui 2011/04/18
  • ART TOUCH 絵画と映画と小説と

    ShugoArtsの《小林正人 LOVE もっとひどい絵を  美しい絵 愛を口にする以上》の展評を書いた。 あのときは、小林正人はイリュージョンを残しながら、絵画を物理的に破壊している一種のミニマリズムであり、事物の知覚がイリュージョンの意識よりも優勢であると書いた。 このとき、展覧会場で、ニョウボとちょっとした言い合いをした。ニョウボはヌードの線が結構描けているというのだ。わたしにはアメリカのピンアップを崩したようにしか見えなかった。そうしたら、ニョウボは、目が離れているけれど、顔もそれなりに目や口などの顔のパーツが、マチスの「へのへのもへじ」の顔ほどではないけれど、おさえるところはおさえていると、なんだか偉そうにいった。それなら、面白いのかと言えば、つまらないと答えた。 小林正人の展評を書いてあとも、ニョウボとの意見の対立は続いていた。そんなときに検索で小林正人の初期の 作品《絵画=空

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    gauqui 2011/04/07