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ブックマーク / baby-alone.hatenablog.com (28)

  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    ・シャルル・ボードレール(1821-1867)のダンディ論 ダンディスムとは一個の漠然たる制度、決闘と同じほど奇異な制度である。[…]ダンディスムは、法の外の制度でありつつ、自ら厳しい法をもち、その権威に服する以上誰しも、他方いかに血の気の多く独立不覊の性格をもつ者であろうと、厳格な服従が要求される。 ダンディスムとは[…]身だしなみや物質的な優雅に対する法外な嗜好、というものでさえない。それらの物事は、完璧なダンディにとっては、自らの精神の貴族的な優越性の一つの象徴にすぎない。だから、何よりもまず品位に夢中になっている彼の目から見れば、身だしなみの完璧さは絶対的な単純の裡に存するものだし、事実、絶対的な単純こそは品位をもつ最善の方途である。それにしても、教理と化して傲然たる宗徒たちをつくったこの情熱、かくも尊大な階層を形成したこの不文の制度とは、いかなるものであるか? それは何よりもまず

    ■ - Les jardins suspendus de Babylone
    gauqui
    gauqui 2013/10/05
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    国立新美術館のアンドレア・グルスキー展(http://gursky.jp/)とアメリカン・ポップ・アート展(http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/american_pop_art/index.html)へ。 グルスキー展はartscapeに掲載された展評(http://artscape.jp/focus/10089290_1635.html)を読んで楽しみにしていたのだが、作品を見ると意外と了解可能性の範囲に収まってしまっていて、少し拍子抜けする。 写真を加工することで、線遠近法も空気遠近法も存在しない――画面の隅々までクリアにピントが合っており、距離による縮減も、広角レンズ使用がもたらす歪形も無い――広大な視界を体現した作品が並ぶ。 それは間違いなく写真作品なのだが、肉眼が捉える像とも、広角レンズが捉えた写真とも異なっており、従来的な「視界

    ■ - Les jardins suspendus de Babylone
    gauqui
    gauqui 2013/09/09
  • 身体の分節化/運動する身体 - Les jardins suspendus de Babylone

    『百科全書』の図版集に収められた、デッサン用マネキンの図。ジャック・プルーストによる解説は以下の通り。 組み立てた人台とそれを種々の部分に分けたもの。人台は銅、鉄、コルクあるいは髪の毛で作り、セーム革で覆う。第3図[上図の左]の点線で示した人台の内部にはコルクや毛髪の詰め物を入れる。 (図版、引用とも上掲書、151ページ。) 部位ごとに分解され、平面(タブロー)上に整然と並べ置かれて、毫も隠された部分も無いまま視線に晒される、模型としての人体。そこには例えばラ・スペコラの「医師たちのヴィーナス」のような、覆い隠されたものとそれを開くことの弁証法も、あるいは後代のベルメールのようなフェティシスティックなサディズムも無く、「全てが平明で明白で説明可能である」という信に満たされている。

    身体の分節化/運動する身体 - Les jardins suspendus de Babylone
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    ディドロやグーシエにとっては、また、アンシクロペディスト一般にとっては、世界は全く解読が可能な、開かれた大きな書物なのだ。その書物がそれ以前に「解読され」なかったのは、あまりにも多くの偏見から書物が「開かれる」のを妨げられていたからであり、また、人間がそれを解読できそうな語彙と統辞法を有していなかったからなのだ。《百科全書》には、書物というイマージュと同時に、書物を書くために役立つ言語の辞典およびこの言語を使用し、それを理解させてくれる文法書とになろうという目論見がある。それゆえに、《百科全書》に付随する『図版集』は、かくも多くの図版を生んだ世紀の最も驚嘆すべきユートピアなのだ。そこでは、すべては透明で、くもりがなく、神秘はない。そしてそこでは、すべては記号[ルビ:シーニュ]なのだ。マニュファクチュア、工房、店舗の壁は、通常は通行人の人の目の届かぬところで行なわれていることをわれわれに見せ

    ■ - Les jardins suspendus de Babylone
    gauqui
    gauqui 2013/09/03
  • リベルタン的性愛文学の本文と挿絵 - Les jardins suspendus de Babylone

    女哲学者テレーズ 作者: 関谷一彦出版社/メーカー: 人文書院発売日: 2010/12/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 1回この商品を含むブログ (1件) を見る訳者解説がなかなか充実している。この書の神に対するスタンスが理神論に近いこと、ラ・メトリ『人間機械論』からの影響、版毎に異なる挿絵(版画)の整理、挿絵と文との関係の分析など。(2007-2010年度科研費の成果公開として出された訳書である。) この訳者解説から、「テクストとイメージ」の関係を論じた部分を抜萃しておく。 テクストと版画の違いは、テクストが読者を物語の時間の流れの中に誘い、語り手あるいは登場人物とともに行動をするかのように導くのに対して、版画は停止した時間の一場面を読者に見せる点にあるだろう。版画の鑑賞者は、来覗くことができない性的行為の現場で、自らを覗きの位置に置くことになる。ただし、テクストと版

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    gauqui 2013/06/04
  • 切り貼りされた草稿とメタ・イメージ - Les jardins suspendus de Babylone

    絵を書く 作者: マリアンヌシモン=及川,Marianne Simon‐Oikawa出版社/メーカー: 水声社発売日: 2012/07/18メディア: 単行この商品を含むブログ (1件) を見る何かヒントが転がっていないかと捲ってみた『絵を書く』、桑田光平氏の論考「メディウムとしての写真」に面白い図版を見つける。ロラン・バルト『明るい部屋』の最初の手書き草稿と、そのトランスクリプション。トランスクリプション内の経線で囲まれた中央部分は、手書き草稿では後から紙切れを糊付けして加筆した部分(紙片は左端のみが草稿の余白部分に糊付されており、下に書かれた文章も読むことができる)に対応しているという。バルトの草稿の形式それ自体についての分析は、この論考ではなされていないが、「コラージュ」、「テクストの配置がもたらすメタレベルでの相互言及」、「ダイヤグラム」といった問題系を考える際に、面白い題材にな

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    gauqui 2013/06/04
  • 人形の関節についての覚書 - Les jardins suspendus de Babylone

    ☆ハンス・ベルメールと「イメージの解剖学」 ベルメールがインスピレーションを得たという、16世紀の「デューラー派」による木製球体関節人形について、Sue Taylorの『Hans Bellmer: the Anatomy of Anxiety』(MIT Press, 2000)に図版が掲載されていた。 この書によれば、(ウルズラがパリに去った1934年以後)ベルメールは友人のLotte Pritzelとともにカイザー・フリードリヒ美術館で二体の球体関節人形を見たとのこと。肝心の木製マネキンだが、図版のキャプションには「Destroyed」とある。おそらくはベルメールがこの人形を見た直後くらいに、第二次大戦で破壊されてしまったのかもしれない。 ちなみにデューラー自身も、球体関節を思わせるような「人体模型」の素描を残している。 (上図はゴンブリッチ『芸術と幻影』岩崎美術社、1979年より) そ

    人形の関節についての覚書 - Les jardins suspendus de Babylone
  • 欲望の対象としての身体描写と「断片化された身体」 - Les jardins suspendus de Babylone

    ☆16世紀:ペトラルカ『カンツォニエーレ』およびルネサンスの美人論 裸性 (イタリア現代思想) 作者: ジョルジョ・アガンベン,岡田温司,栗原俊秀出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2012/05/27メディア: 単行 クリック: 13回この商品を含むブログ (10件) を見る『カンツォニエーレ』の文体の特徴としてよく指摘されるのが、その解剖学的性格である。詩人の歌のなかで、ラウラにはすでに死が与えられているため、その肉体は正しく解剖の対象なのである。ペトラルカは死した身体の各部位を、金属、宝石、象牙や果物などのメタファーによって表現し、愛の対象を言葉のメスによってばらばらに寸断する。[…]その[=ペトラルカの修辞法をパロディ化するポルノグラフィーの]極端な帰結が、ラウラをその祖先にいただく(と人が信じていた)サド侯爵の諸作品である。女性の「全身像」が存在せず、ただ解剖学的な諸断片とし

    欲望の対象としての身体描写と「断片化された身体」 - Les jardins suspendus de Babylone
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    技術が担保する「人形」とその隣接領域について。 ☆ルネサンス期の奉納蝋人形(ex voto)の技術が、18世紀後半には蝋製解剖学模型(ムラージュ、ラ・スペコラ博物館やサン・ルイ病院のものが有名)の分野に流入したことはよく知られているけれど、ラ・スペコラ開館とほぼ同時期の1770年代にはPierottiという一族がイタリアからイギリスに移民し、ワックスドールの工房を立ち上げている。(もっともV&A美術館サイトには、イギリス人のの一族から蝋人形制作術を学んだとあるので、これが正しいならフィレンツェの蝋人形の伝統とは無関係? http://www.museumofchildhood.org.uk/collections/dolls/pierotti-doll/) 19世紀のイギリスには、他にもMontanariというイタリア系の名前のワックスドール・メーカーがあった。 ・独特の深みのある瞳が表

  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    群馬県立近代美術館で開催中の「破壊された都市の肖像――ゲルニカ、ロッテルダム、東京…」展へ。展示されているのは、戦争で破壊された都市や人間を表す、もしくは連想させる作品群。ピカソ、ミロ、ヴォルス、福沢一郎、ザッキン、マッタ、瀧口修造、川俣正、井上有一など。井上有一の書は、東京大空襲についての記録や七言絶句なのだが、ところどころを墨で消しつつ殴り書いた縦書きの筆跡が、雨のように降ってくる焼夷弾を連想させる。七言絶句《東京大空襲》は、天井から吊る下がった書の間を歩きながら鑑賞するようになっており、その空間性がいっそう顕著である。 小規模ながら、パネルの説明なども丁寧で、真摯に緻密に構成された展示だった。ただし、この展示を通覧すれば「戦争の表象」という問題について概観できる、という性質のものではないので、既にこのテーマをある程度考えてきた者か、あるいは問いの入り口となる「何か」が欲しい人向けだろ

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    gauqui 2013/03/12
  • 集合住宅という場 - Les jardins suspendus de Babylone

    異邦人 (新潮文庫) 作者: カミュ,窪田啓作出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1963/07/02メディア: ペーパーバック購入: 21人 クリック: 167回この商品を含むブログ (412件) を見るここに登場する空間は、ほぼ二種類に分けられる。絶対的開放空間であり、決定的な邂逅や事件の起こる場としての海辺と、狭小な閉鎖空間(第一部のアパルトマン、第二部の監獄)である。 モダニティの特権的な場「街路」ではなく、19世紀ブルジョワ的な室内でもない、狭小で閉鎖的だが、他者が常に隣にいる(だからこそカップルの喧嘩や犬を怒鳴りつける老人の存在が、日常の小さな出来事となる)空間としてのアパルトマン。 他に「集合住宅もの」の系譜として。 幻の下宿人 (河出文庫) 作者: ローラントポール,Roland Topor,榊原晃三出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2007/09/04メディア:

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  • 分断された身体について - Les jardins suspendus de Babylone

    裸性 (イタリア現代思想) 作者: ジョルジョ・アガンベン,岡田温司,栗原俊秀出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2012/05/27メディア: 単行 クリック: 13回この商品を含むブログ (10件) を見るアガンベン『裸性』の訳者解題(栗原俊秀氏による)では、ペトラルカ『カンツォニエーレ』における女性身体への解剖学的眼差しと、サドのポルノグラフィーにおける、全体像の提示されない、解剖学的な断片としての身体表象との共通性が指摘されている。しかし『イタリア紀行』での身体描写は、簡潔かつ道徳的慎み深さに支配されている印象を受ける。(ガレッティ所有のテラコッタ製解剖学模型についての描写など、随分と簡潔で没個性的である。) 例えば、ウフィツィ美術館で目にしたヘルマフロディトス像の記述と、『ジュリエット物語』に登場する類似の描写を比べると、後者は前者の流用であるにも関わらず、眼差しのあり方が違う

    分断された身体について - Les jardins suspendus de Babylone
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    アンドロギュヌスの宇宙 作者: フレデリックモネイロン,Fr´ed´eric Monneyron,田中雅志出版社/メーカー: 青弓社発売日: 1997/09メディア: 単行購入: 1人 クリック: 14回この商品を含むブログを見る 【構成】 「唯美主義とアンドロギュヌス:デカダン派のアンドロギュノスにおける美の原理」F. モネイロン 「現代のアンドロギュヌス」F. モネイロン 「アンドロギュヌスと闇夜」J. リビス 「アメリカ文学におけるアンドロギュヌス」F. モネイロン 「書くこと[エクリチュール]における両性具有にして神話的な「われわれ」」H. ド・ブロックヴィル 「アンドロギュヌス:批判的神話」M. シュナイダー 「愛のおおいなる秘密」J. ケレン 「両性具有、あるいは巧妙なるペテン:自己批判」A. ロジェ 19世紀末の唯美主義者たちにとって、重要な形象であり概念であった「アンドロ

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    gauqui 2013/01/29
    アンドロギュヌス
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    失われた時を求めて〈8 第5篇〉囚われの女 (ちくま文庫) 作者: マルセルプルースト,Marcel Proust,井上究一郎出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1993/05メディア: 文庫この商品を含むブログ (1件) を見る とうとう彼はフェルメールの絵の前に来た。[…]最後に、ほんの小さな黄色い壁の面という、このかけがえのない物質に気づいた。彼の目眩は激しくなっていった。[…]「こういうふうに書かなければならなかったのだ。[…]色の層を何度も塗り、この小さな黄色い壁の面のように、私のフレーズをそれだけで得難いものにするべきだったのだ」。しかし、彼の目眩の激しさは治まることがなかった。[…]彼は繰り返した、「庇のある小さな黄色い壁の面、小さな黄色い壁の面」。しかし、彼は円いソファにくずおれた。[…]彼は死んでいた。 (マルセル・プルースト『失われた時を求めて8――第五篇 囚われの女

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    gauqui 2013/01/23
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    モーリス・エマニュエル『人物像に基づく古代ギリシアの舞踏(La danse grecque antique d'après les monuments figurés)』1896年。 この書は、ダンカンやバレエ・リュスに代表される、舞踏におけるグリーク・リヴァイヴァルの嚆矢となった。古代ギリシア美術(壷絵、レリーフ)に見られる身体表現から、その舞踏の再生を試みたもの。 下記URLのInternet Archive Open LibraryにPDFが収録されている。 http://openlibrary.org/books/OL24634117M/La_danse_grecque_antique_d%27apr%C3%A8s_les_monuments_figur%C3%A9s 上記書より、舞踏と当時の精神病理学における「ヒステリーの身体」イメージをつなぐ、「ニンファ」的形象にまつわる部分の

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    gauqui 2012/12/21
  • 思考の屑篭 - Les jardins suspendus de Babylone

    ☆ルドゥにおける「団結(union)」概念 「ショーの理想都市」は、産業(製塩)と自給自足を可能とする農業、さらには商業(街の中心の市場、また貯蓄庫や証券取引所などの金融期間)のシステムを備えた、自立的なコミューンとして構想されていた。この理想都市を統制する鍵概念のひとつが「団結(union)」である。この「団結(union)」はまた、フリーメイソンの教義であり、フランス革命理念となった「fraternité」(兄弟愛を媒介とした結社性)とも通底している。 「ショーの理想都市」内部には、「団結の館(maison d’union)」(図18)と命名された建築物が予定されていた。ここでは建築物の形態や構造が、住民たちの団結を促進すべく構想されている。すなわち、全室に共通の歩廊は柱廊形式を採り、人々が議論を交わす場となる。また学習用の小部屋は、この教育施設が輩出した偉人たちを住人に想起せしめる、

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    gauqui 2012/10/06
  • 啓蒙の時代のポルノグラフィー - Les jardins suspendus de Babylone

    オルガスムの歴史 作者: ロベールミュッシャンブレ,Robert Muchembled,山規雄出版社/メーカー: 作品社発売日: 2006/07メディア: 単行購入: 2人 クリック: 40回この商品を含むブログ (8件) を見る このジャンル[マスターベーション禁止を訴える医学文書]の花形は、サミュエル・オーギュスト・ティソ博士の『オナニー』である。これは1758年にラテン語で、1760年にはローザンヌでフランス語版が刊行された。[…]多くの研究が示しているように、ティソはそれまで神学によって規定されていた知識と禁止を、単に医学と哲学に権威づけられた言葉で改めて定式化したにすぎない。彼よりずっと以前の聴罪司祭と同じように、ティソはこの行為を子種の浪費だという理由で否認する。 (上掲書、219ページ。) ミュッシャンブレは、ティソと従来のキリスト教的価値観との連続性を強調する。しかし、

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    gauqui 2012/09/27
    どこかで無くして買い直してない本。
  • ルドゥとの比較でサドを読むシリーズ(本当にシリーズ化するのかは不明) - Les jardins suspendus de Babylone

    『ソドム百二十日』における幾何学性・順列組合せ ソドムの百二十日 作者: マルキドサド,Donatien‐Alphonse‐Francois de Sade,佐藤晴夫出版社/メーカー: 青土社発売日: 2002/07/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 11回この商品を含むブログ (11件) を見る・120日間(=4の倍数)の物語。 ・序文と末尾の覚え書きを別とすると、編は4部構成。 ・基的な登場人物の人数も4の倍数(4人=権力者、彼らの娘、語り女、召使い女。8人=馬蔵、娘たち、少年たち。12人=週2回目の宴会で集められる娘たち。16人=週最初の宴会で集められる若者or少年。20人=週4回目の宴会で集められる生娘)。 ・権力者らの娘たちは、それぞれ父と近親相姦の関係にあり、かつ別の権力者へと差し出される。 ブランジ公爵:ジュリー→キュルヴァル法院長 キュルヴァル法院長:アデ

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    gauqui 2012/09/12
  • ■ - Les jardins suspendus de Babylone

    『百科全書』と世界図絵 作者: 鷲見洋一出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2009/11/27メディア: 単行 クリック: 18回この商品を含むブログ (10件) を見る 18世紀人にとっての世界図絵とはカタログであった。 (30ページ) 著者はその例として、以下のものを挙げている。 ・リンネの二分法に基づく植物分類 ・ラモーの近代和声学(音の組合せの組織化・体系化) ・フランスにおける主題別百科事典(経済学事典など)の編纂 ・大貴族コレクターによる蔵書目録の編纂 ・マリヴォーの演劇(恋愛心理のカタログ) ・メルシエ『タブロー・ド・パリ』(大都市を網羅的に記述したテーマ別事典) ・サドらの小説(人間の情動や行動に関する架空の図録) 確かにサドにおける乱交は、単純な規範からの逸脱や秩序の紊乱ではなく、むしろ数学的な「順列組み合せ」に近い。あらゆる可能なカップリングを隈無く記述するという

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  • 建築の皮膚と衣裳をめぐって - Les jardins suspendus de Babylone

    [rakuten:book:12185681:detail] 衣裳と建築の共振性を、同時代の建築とファッションの動向から論じた書。ヴァーグナー、ロース、ル・コルビュジエらは当然のように登場する。 一部分(Deep Skin)のみ邦訳が『10+1』のバックナンバーに収録されているらしい。http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/343/(現在オンライン版は非公開) ホワイトウォールは「タブラ・ラサ」なのか、装飾を去勢された「ハゲ平面」なのか、それとも白粉の層を貼付けた「白塗りの顔」なのか。同じ「白いプレインな平面」であっても、建築家によってその意味作用は異なるというのが解に思える。例えばホワイトキューブと称される近代的ミュージアムの白壁は、タブラ・ラサ性が期待されているはずだ。 伽藍が白かったとき (岩波文庫) 作者: ルコルビュジエ

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