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2006年10月18日のブックマーク (4件)

  • 『りぼん』に関する雑文 - Love Dream Smile ~少女マンガ雑誌『りぼん』のファンページ

  • 2006-10-18 - トラコメ遊び

    genesis
    genesis 2006/10/18
    曰く,「これは良い奈須チルドレンである。」 応じてsinden曰く,「笠井グランドチルドレンの方が相応しいように思います」 応えてErlkonig曰く,「森さんだー」。
  • sharanのいんふぃにてぃ~・だいあり~ : 「プレイヤー=主人公」という神話

    2006年10月17日 「プレイヤー=主人公」という神話 美少女ゲームに関するいくつかの論考の中にあった、どうしても拭い去れない違和感の正体が何であるのか、最近になってようやく気づき始めた。何のことはない、それは単純な問題だったのだ。「プレイヤー=主人公」という等号が、さも正しい前提であるかのように語ることが問題なのだ。この等号が決して自明のものでないことが違和感の正体だった。今考えれば当たり前のことのように思えるけれど、「プレイヤーは主人公の視点を借りて物語に入り込み、そのときプレイヤーは主人公と同一化している。したがって、プレイヤーは主人公に感情移入することができる」というのは明らかに間違いである。時に、プレイヤーにとっての主人公は「単なるキャラクター」に過ぎなくなる。主人公は「空っぽの器」のほうが都合が良いという表現もおかしい。主人公が、当にただの依代に過ぎないのなら、プリセットさ

    sharanのいんふぃにてぃ~・だいあり~ : 「プレイヤー=主人公」という神話
    genesis
    genesis 2006/10/18
    曰く,「美少女ゲームに対するアプローチは、「プレイヤー=主人公」という等号の確からしさを疑うことから始めなければならない。」
  • sharanのいんふぃにてぃ~・だいあり~ : ギャルゲー批評を考える

    2006年03月27日 ギャルゲー批評を考える 小説という形式上、単線的であることを逃れられない。必ず収束することが(未完であっても)約束されている。一方で、データという形式のギャルゲーは単線的な形を取る必要性がない。そこには複数の選択肢と結末が与えられている。もっとも、そこには「世界観(作品を制作する際の前提に置かれる最大設定)」という名の便利な主軸がある(そして残りの設定は世界観へと回収されていく)。プレイヤーはまさに作品に踏み込んだ瞬間にそこに統一された「世界観」を確認しようとする。作品はそれ自体として完結しており閉鎖的である。そこにはひとつの「作品」=「世界」しか存在しない。その「作品」=「世界」をコーティングするものとして一貫して存在すると我々が錯視する「世界観」ももちろん一つである(多くのギャルゲー批評においては通常、「世界観」が統一されていることが良しとされ、様々な矛盾や

    sharanのいんふぃにてぃ~・だいあり~ : ギャルゲー批評を考える
    genesis
    genesis 2006/10/18
    曰く,「ギャルゲーは一種の陵辱ではないか」,「作品の主題として性交が描かれるかは問題ではない。それはただ陵辱の強弱に過ぎない。」