というか私の役割について。 先日モリス・ワイツの古典的論文を訳してアップしたんですが、その結論部分でいかにも美学ってかんじの上から目線の文章があって、あらためて美学と自分のお仕事について反省しているところです。 M. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが|note われわれ哲学者としては、芸術の定義とその背後にあるものの区別をいったん理解したなら、伝統的な芸術理論に寛大な態度で接するのが適切だろう。〔…〕理論の役割を理解することは、それを定義――論理的に言って失敗が運命づけられているもの――として理解することではない。 ここで「芸術理論」と呼ばれてるのは、「芸術とはxxなんである」という「定義」を主張する俺理論みたいなやつで、哲学的に洗練されてないような理論のこと。ようするに、ワイツは、「そういう俺理論が言ってることは定義としてはおかしいんだけど、それはそれでそれなりの役割と意義
2015-05-30 素朴さとその整理―分析美学を特に Twitterでdisられたので覚書を書くことにした。 僕がTwitterに(勿論面白半分で)こう書いた。 僕はベラスケスは凄い画家だという以外には芸術作品に関して良い悪いという区別ができません— ertb (@ertb_ertb) May 28, 2015 これはレトリックでもなんでもなく、僕はあんまり芸術作品の良し悪しがわからない。 どれぐらいわからないかというと、 ベラスケス、マーラーなど(完全に好み) それ以外 駄作 これくらいの分類しかできないほど本当にわかっていない。 というよりも、これは美学の「び」すら知らなかった中学生くらいの頃からのことなのだけど、「いや良い作品てなんやねんてか作品てなんやねん」という曖昧な疑問があり、今も素朴にはそう思っている。 そもそも、僕が分析美学を、もとい美学、もとい藝術に関する学問を志
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