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ブックマーク / technique.hateblo.jp (43)

  • 自殺・異状死に関するメモ - Freezing Point

    以下、強調はすべて引用者*1。 7月28日追記:「自殺者、半期で1万7千人超…最悪ペース迫る」(7月27日、読売新聞) 【はてブ】 「第171回国会 参議院 内閣委員会 第3号 平成21年3月24日」(当時の参議院議員・柳澤光美氏の発言) ○柳澤光美君  その中で一つ要望がございまして、実は警察が扱った死因不明の異状死体の件数というのが急激に伸びています。 平成20年には16万1838体と言われています。 これは、一つは自殺の問題もあります。 それから、高齢者の孤独死の問題もあります。 これはもう毎年毎年増えてきている。 10年前の今1.5倍になっている。 ところが、一方で司法解剖とか行政解剖を執刀する解剖医というのは、19年の12月時点で132人しかいない。 年間どうやっても1万5000体が限界。 だから、10分の1もできない。 しかも、今後解剖医のなり手がますますいなくなる。 小児科医

    自殺・異状死に関するメモ - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/07/26
    "いわゆる「自殺未遂」は、絶命したケースの10倍はいると言われるが*4、重篤な後遺症が残ろうとも、自殺関連の資料としては統計に現れない。"
  • ループする時間 メモ - Freezing Point

    田舎は好きだが、それでも東京を選択する。」(Hashさん) 【はてブ】 「田舎でコンビニを開いた都会育ちの人が思ったこと」(nakamurabashiさん) 【はてブ】 「田舎の人は循環する時間という「宗教」を信仰している」(essaさん) 【はてブ】 ひきこもりについて繰り返し訊かれることの一つが、「家で何してるの?」。 ケースに応じてネットやゲームとはいちおう言えるが、要するに「何もしていない」。 時間の流れをなかったことにする、まるで時間が同じ場所でとぐろを巻いているようなことに「主観的にしてしまう」ということで、そこから抜け出せなくなる。 これを「都会の時間」にムリヤリ合流させることは、自我について何の制作プラン*1もなく過剰な流動性に投げ込むこと*2。 ループする時間は、自我を守ろうとしている。そしてそれ以外の方法を忘れる。周囲の世界から切り離れた時間軸だけになり、合流はできず

    ループする時間 メモ - Freezing Point
  • 時代と思想――当事者性の抑圧と配分のスタイル - Freezing Point

    カテゴリー当事者への居直りではなく、素材化としての《当事者-化》。 プロセス中心主義。 私は9年前、「ひきこもりの当事者」という役割固定で社会参加の機会を得た*1。 しかしその後の私は、「当事者的分析」を周囲に要求したことで、排除されるようになった。 私に近づいてくる人のほとんどは、私を「ひきこもり当事者」という役割フレームに監禁するだけで、取り組みとしての当事者的言説化は拒否する*2。 ほとんど全てのマイノリティ論は、《コスプレ的役割固定》と、politically correct な《メタ正義の居直り》のカップリングでしかない。 この発想では、マイノリティ側は役割としての「当事者=被害者」に居直りたがるが、実際に生きられた関係のなかでの当事者性を引き受けなおすことをしない*3。 私は、既存の当事者論に洗脳されたままコミュニティを築こうとして(あるいは参加を続けようとして)、メチャクチャ

    時代と思想――当事者性の抑圧と配分のスタイル - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/07/09
    "役割として割り振られた「当事者性=特権」に居直ろうとする人は、具体的な関係のなかでの当事者性を抑圧しようとする。 具体的に責任を問われることを本当に怖がる。"重要,留意そして要自戒.
  • 居場所の文法 - Freezing Point

    神戸芸術工科大学 「メディア表現学科特別講義A 〜ゲスト講師・新海誠氏」 7月1日(水) 14:40〜 司会: 大塚英志(学メディア表現学科教授) ※一般の方の聴講可となっております 聴講し、いい意味でショックを受けて帰ってきました*1。 以下は、私の個人的なメモです。【※発言の引用等については、主催者や発言者の許可はいただいていません。不正確な描写等に問題がございましたら、リンクやメールにてご指摘いただければ幸いです。適宜対応させていただきます。】 講演が新海誠氏(実作者)、司会が大塚英志氏(批評家・教育者)、コメントに川口典孝氏*2(事業家)、そして客席には、作品づくりに人生を賭けようとしている学生たち。 この配役(?)の緊張感が素晴らしかった。 単なる作品批評でも、単なるビジネス論でも、単なる「将来の夢」でもなく、いわば当事者どうしの真剣さの掛け合い。 ほぼ満員の聴衆がずっと聴き入

    居場所の文法 - Freezing Point
  • 「他人にかわって語るのは下劣だ」 - Freezing Point

    クレール・パルネ*1によるドゥルーズへのインタビュー(1986年)より。 『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』pp.177-9掲載、強調は引用者。 クレール・パルネ: あなたはミッシェル・フーコーに向かって、こんな発言をしておられます。 「あなた(=フーコー)は、『他人にかわって語るのは下劣だ』という、とても重要なことを教えてくれた最初の人間だ」、と。これは1972年の出来事ですが、あの頃はまだ68年5月の余熱をとどめた時代でした(68年5月について、あなたは今度ののなかで「一部の分析を読むと、68年はパリに住む知識人の頭のなかでおこったことにすぎないと思われるかもしれない」と書いておられる)。 他人にかわって語るのではない、ということの尊厳こそ、知識人の態度であるべきだ――あなたの発言は、そういう意味だったのではないかと思います。知識人は口をつぐんでしまったと新聞が

    「他人にかわって語るのは下劣だ」 - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/06/28
  • 思惑と責任のからみ合い - Freezing Point

    何かの「当事者」として発言する人は、商業主義やイデオロギー、個人的な功名心などに、利用される危険がある。使命感からカミングアウトしたはずが、私的利害や党派的思惑に巻き込まれただけ、という…。 体験談を求められたり、カミングアウトを試みたりするときは、どうか注意してください。そして逆に、ご自分の発言が帯びてしまう政治性にも、注意すべきだと思う。そのつもりがなくても、「代表性」のようなものが出てきてしまう。 こういう分析が「関係当事者」に必要だし、その分析を生きることの臨床性を、絶対に無視するべきではない。

    思惑と責任のからみ合い - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/06/28
  • 《つながりかた》という、政治的・臨床的な課題 - Freezing Point

    いくつかの集まりに参加し、生きづらさや居場所についての話になった。 それであらためて、繋がろうとすることよりも、《つながりかた》こそが問題なのだと思い至る。 「論じかた」=「つながりかた」。 知識人たちの言説に非常に特徴的なのは、彼らの論じる内容が、彼らじしんの営む身近な関係性のありかたと解離していることだ。 「こんなのできましたよ」という知性誇示ばかりがあって、どういう前提を共有してつながっているのか、そこの分析は拒否する(批評とは認めない)。 「環境管理と動物化」「つながりの社会性」「オタクになれ」「感染せよ」など*1、つながりに関するメタ分析や提言をひたすら続けているが、彼らはリアルタイムの具体的な関係分析を、コミュニティ維持の必要条件とは見なしていない。 臨床に口を挟むような提言を繰り返しているのに、メタ言説や硬直した方針をリピートするだけ。――「こういう論じ方をしないと、あなたは

    《つながりかた》という、政治的・臨床的な課題 - Freezing Point
  • 「分節過程を中心化する」という核心部分 - Freezing Point

    全員が制度順応しか考えていない、ゆえにのっぺりと平和なら、分析を導入することは異質さと政治の導入になる。 しかし「分析という政治」は、基的に排除される。 順応で維持される関係者のナルシシズムを毀損するからだ。 ナルシシズムが支配する場では、「利用できるメタ目線」だけが許される。 ここでの分析の多様性は、消費財の多様性でしかなく*1、実は分析の生産態勢は統一されている。 その固定されたスタイルでの “優秀さ” だけが称揚され、主観性の生産態勢そのものに目を向ける分析は、評価以前に排除される:「それは知性ではない」。 左翼の文脈では、たいてい《制度》概念は敵とみなされる。 制度は、個人の実存を縛り、ファシズムであり、云々*2。 しかし、「制度概念に敵対していればそれが反ファシズムになる」というその発想じたいが、固定的な制度順応でしかない。 集団的な大文字の責任が語られるとき、この責任にはディ

    「分節過程を中心化する」という核心部分 - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/06/24
    "しかし、「制度概念に敵対していればそれが反ファシズムになる」というその発想じたいが、固定的な制度順応でしかない。"
  • 「Hikikomori は、炭鉱のカナリア?」  ミーガン氏の引きこもり論 - Freezing Point

    神戸大学・海事科学部の特任准教授(参照)、George Meegan(ジョージ・ミーガン)氏*1による引きこもり論。(以下、強調はすべて引用者) 「Hikkikomori – Canary in the mineshaft? Part 1」 「Hikikomori Part 2」 「Hikikomori Part 3」 「Hikikomori Conclusion」 論考中で言及されている、「2006 年国際ワークショップ・公開講演会報告」(PDF、日発達心理学会企画委員長・安藤孝敏氏)より: 2006 年の国際ワークショップは,米国ユタ大学のアラン・フォーゲル(Alan Fogel)教授を講師とし,河合優年武庫川女子大学教授をホストとして,8 月16 日から19 日までの4 日間,「対人関係における変化の過程−ダイナミック・システムズ・アプローチからの検討−」というテーマで,早稲田大学

    「Hikikomori は、炭鉱のカナリア?」  ミーガン氏の引きこもり論 - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/06/20
    "「日本人/外国人」、「大人/子ども」など、どっちか片方に与するのではなくて、その《あいだ》に踏みとどまること。 その《境界線の維持》を、活動として定着させる必要がある"
  • 「マジメさの反対は、フマジメではない」 - Freezing Point

    失業について、「それには構造的排除の面がある」といわれる。 人を実体化して責めても、質的な取り組みにはならない、と。 同じようなことを意識について言い出したら、どうなるだろう。 「私がこんな状態なのは、させられてきた面があるのです」、と。 ありがちな責任転嫁ならバカげているし、場合によっては、病的にすら見えるかもしれない(cf.「させられ体験」)。 しかしここで問題なのは、意識のありかたそのものがある所与のスタイルで反復されており、それはなかなか人の思い通りにはならない、ということだ*1。 サルトルの考えたような「自由」は、それだけでは使えない。 ひきこもる人は、だらしなくフマジメに見え、じっさい何もできないのだが、それはむしろ、ある意識のパターンに監禁され、そこにはまり込む以外に「自分」を反復する方法が見えなくなった状態といえる。 たとえば斎藤環は、マジメすぎる相談者たちに、いわば

    「マジメさの反対は、フマジメではない」 - Freezing Point
  • 「反省なき文化強制」 - Freezing Point

    フランツ・ファノンのいう「反省なき文化強制 imposition culturelle irréfléchie (unreflected imposition of a culture)」(参照)という問題意識は、まさに制度分析の話ではないだろうか。 そう読むのでなければ、「他者の文化を尊重しましょう」みたいな、文化相対主義的なナショナリズムになってしまう。 日の「当事者主義」は、ほとんど全てが文化ナショナリズムでしかない。たいていの左翼は、「相手側の右翼」を肯定するだけの差別主義者だ。――私自身が、そういうものに加担してきてしまった。 マイノリティ自身が、「反省なき文化強制」を行なっていないか。 「マイノリティの文化」を絶対化することは、「反省なき強制」になる。 たとえば引きこもる人は、家族に「反省なき文化強制」をしている。 必要なのは、相対主義的・博物学的な並立や温存ではなく、制度分

    「反省なき文化強制」 - Freezing Point
  • 「精神病院解体後のイタリアの精神医療−ウンブリア州を中心に」 - Freezing Point

    松嶋健氏の講演をめぐって。(以下、強調は引用者) イタリアでは3年ほど前*1に、ついに全土で公立精神病院が廃絶されたのをご存知でしょうか。 1960年代から精神病院の開放運動が始まったイタリアでは、78年に公立精神病院の廃止をきめる法律180号(運動の中心だった医師の名からバザーリア法とも呼ばれる)が成立しました。 (略) 但しこれは、精神医学そのものを全否定したということではありません。より広い社会的な文脈において、「個人的な精神疾患」ではなく「社会的な苦悩」に正面から向き合おうとしたのだと言えます。したがって重要なのは、精神病院をなくすか否か、ということよりも、精神病院という場を成り立たせている「Instituzione 制度=施設の論理」を問い直すことだったのです。 それゆえ見るべきなのは、公立精神病院を廃止したという点ではなく、それに代わってどのような地域精神保健システムが構築され

    「精神病院解体後のイタリアの精神医療−ウンブリア州を中心に」 - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/06/09
    SPK(元祖+ニール&グレアム//参考: http://www.padmacolors.org/archives/2004/04/13_163916.php):「バザーリア法はわしらが育てた」
  • 2009-06-04

    同じ取り組みに言及していながら、訳語や人名表記がバラバラであるために、文脈じたいが見えない――という状況があまりにひどいため、「これは同じ話だよ」というリストアップを試みます。 これからも追加していく予定ですので、お気づきの文献等がございましたら、ぜひご一報をいただければ幸いです(列記は日での公刊順)。 ここでは、同じ文脈にあることを示すためにいくつかの訳語を併記しましたが、肝腎なのは、「institution」という語をめぐる各論者の試行錯誤そのものに内在し、この運動の格闘趣旨を読み取ることです。 【目次】 「psychothérapie institutionnelle」(精神療法) 「pédagogie institutionnelle」(教育学) 「人名表記」 「病院名・地名など」 『現代思想』 1984年9月 臨時増刊号(vol.12-11) 総特集 ドゥルーズ=ガタリ 【絶版

    2009-06-04
    gnarly
    gnarly 2009/06/04
    "フランツ・ファノン みすず書房/作者:海老坂武/なぜか「thérapeutique institutionnelle」という原語が記され,「機構療法」と訳されている.フランツ・ファノンが,ガタリらと同じ臨床運動の文脈にいたことが日本では知られていな
  • つながりと実存、社会化と承認をめぐるメモ - Freezing Point

    《社会参加臨床》を考えるなら、ここらへんの原理論をやらない人は、ご自分の思い込みや党派性に巻き込んでいるだけです。 うかつに臨床を語れば、ベタな医療目線に終わってしまう。 ある議論事業には、コミュニティ形成機能がある*1。 議論事業の措定が、実存を安定させ、コミュニティをつくる。 議論事業の枠内にいるかぎり、その前提部分は見えてきにくい。 「感染」を説く宮台真司と、嗜癖的な没頭を推奨する斎藤環は、処方箋として同じ話をしている*2。 ご自分を「成功した側」に置き、「対象は何でもよいから、魅惑されなさい」。 ここでは、《入門》という苦痛に満ちた境界線がモチーフにならず、「成功した入門後」*3は分析されない。 コミュニティについても実存についても、反復される「内側からの制作過程」*4が主題にならない。 「結果的に成功した状態」が範例として示され、「あんなふうになればいい」とのみ推奨される。 これ

    つながりと実存、社会化と承認をめぐるメモ - Freezing Point
  • 目指すべき包摂性のスタイル - Freezing Point

    の難点 (幻冬舎新書) 作者: 宮台真司出版社/メーカー: 幻冬舎発売日: 2009/04/01メディア: 新書購入: 28人 クリック: 233回この商品を含むブログ (227件) を見る「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」というエントリーに、多くのコメントをいただきました(ありがとうございます)。 以下では、反論というより、議論趣旨の先鋭化を目指します。 エスノグラフィーの手法としては普通だと思うけど。 http://b.hatena.ne.jp/bokudakenosunaba/20090504#bookmark-13270012 「社会学者なら、調査のためにヤクザと付き合っていても当然」というご意見だと思います。しかしそれだけなら、「研究者とヤクザの特殊な関係」を説明すればよいことです。 私が取り上げた箇所で宮台氏は、単に知的事業の説明をしたのではなく、「善意と信頼に

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  • 「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point

    宮台真司『日の難点 (幻冬舎新書)』pp.95-6より: そんな母親の構えのお蔭で「自分の母親は世間の母親よりもずっとスゴイ」と思えました。そうした母親の子であったせいで「浅ましい奴」や「セコイ奴」には絶対なりたくないと思うようになったのでしょう。これも「目的」や「手段」ではなく端的な「衝動=感染的模倣」だろうと思います。 もちろん、そんなふうにしてできあがった僕の構えが実利をもたらす面が確かにあります。それはスピノザも言っていることです。僕の場合、売買春やクスリのフィールドワークをする際にヤクザにケツ持ちしてもらってきました。お蔭でこの方面でたくさんの著作をものすることができました。 女の子がストーカーにつきまとわれて困っているというようなときも、警察に頼んだら(ストーカー規制法成立以前だったので)半年以上もかかるところを彼らが三時間で解決してくれることもありました。僕の研究に役立つ情

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  • 「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか - Freezing Point

    の難点 (幻冬舎新書) 作者: 宮台真司出版社/メーカー: 幻冬舎発売日: 2009/04/01メディア: 新書購入: 28人 クリック: 233回この商品を含むブログ (227件) を見る「はじめに」より: 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした二〇世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、一九九四年あたりから専門家に知られ二〇〇一年以降人口に膾炙(かいしゃ)した「コミットメントの恣意性」を問題にする二一世紀的人文知へと、転回したことになります。 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたら

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  • 2009-04-28

    画家・永瀬恭一氏とのメールでのやり取り(一部)を、許可を得て以下に転載いたします。 公開を前提としたものではなかったのですが、お互いの関係や発言趣旨の素材化を試みるもので、ブログへの転載は、積極的な趣旨をもった活動にあたります。(私は永瀬氏とは、ネット経由の交流のみで、お会いしたことはありません。) おだやかなやり取りに見えるかもしれませんが、美術をほとんど知らない私が、実作者の永瀬氏と言葉を交わすことには、強い緊張があります。 それは私にとって、臨床の中心課題である《入門》*1を考察しつつ、自分でそれを生きてみることにもあたる。 メールでは、いきなり永瀬さんの作品を論じるのではなく、その制作過程(を主題化するスタンス)を話題にしています*2。 対比して考えていたのは、斎藤環氏の美術論/臨床論です(参照)。 斎藤氏はひきこもる人を、掟の門前で委縮する人になぞらえました(参照)。 ここで彼は

    2009-04-28
  • 「中間集団の再検証」という大義 - Freezing Point

    映画『スミス都へ行く [DVD] FRT-207』 教養のつもりで観はじめたが、感動もしたし、いろいろ考えた。 (以下、ネタバレ注意) 発言者として幅を利かせている人は右も左も私的利害の確保で終わっている。 ある人が集める支持は、思想が正しいからというより、その人を支持したほうが都合がいいと考えるエゴイストが多いからだったりする。 社会生活は、事情が見えれば見えるほど人間不信が強まる。 ・・・・と、こんなことは上の世代がさんざん言ってきたことで、自分で書いてみてもその陳腐さに驚くが、当にその通りで、しかもこの映画が作られたのは1939年。 10年前の私なら、「人物や筋書きが類型的すぎる」と古さしか感じなかったと思うが、今はスミスの屈辱に身体的な痛みがある。 何も変わらないで、70年がたった。 映画そのものの筋書きとは別に、「では自分はこれからどうするか」が鋭く問われる。 私は、次のような

    「中間集団の再検証」という大義 - Freezing Point
    gnarly
    gnarly 2009/03/08
    "「本気で考えてしまった人」は.自分と無関係な場所ではいてほしいが,身近な関係では邪魔なのだ/私益と全体性の二項対立ではなく,《中間集団の作法の問い直し》という課題をこそ,日常的・持続的に共有すること"
  • 関係作法を考え直さないナルシシズムの暴力 - Freezing Point

    「なにをやっても許される」からこそ、嫌がらせがなくならない。 何ヵ月も嫌がらせをしていた人物が、共同体で認められてしまう。 「何をやっても許される」とき、ゆるす側が脅されており、ゆるす側自身がナルシシズムで依存している。 「ナルシシズムを認め合う」という関係作法しかないのだ、今の支援業界には!*1 「ひきこもり経験者からの被害は、すべて我慢してあげる」…それが支援者たちのナルシシズムになっている。 支援される側どうしの関係も同じ。 支援とは、集団の関係作法を考え直す運動であることに誰も気づいていない。 ただ笑顔でナルシシズムを容認し合えばいいと思い込むのは、自分の首を絞めている。――DVと同じロジックが、支援業界に蔓延している。 支援者は、自分が社会に認められない埋め合わせを “支援” でしている*2。 承認されない者どうしの関係で、「笑顔の我慢」だけが許される。 なぜ、目の前の関係のため

    関係作法を考え直さないナルシシズムの暴力 - Freezing Point