関西ローカルのTV番組「ちちんぷいぷい」にて小特集。 事件前には、入寮生は男性50人、女性14人。 現在は計40人。 家族が引き取りを拒否しているケースもあるという。 「強制はいけない。親子の話し合いを」*1という西嶋彰氏(ニュースタート関西事務局代表)のコメント文が紹介されていたが、「それができたら苦労せんわな」という苦笑まじりのツッコミがハイヒール・モモコ氏から。 ▼「働かざるもの食うべからず」という言葉も出ていたが、ひきこもっていた本人が死亡しているためか、直接本人を責めるわけにもいかない、というためらいを感じた。 スタジオ全体としては、「死者が出てしまっては元も子もないが、それにしても難しい問題だ・・・」というニュアンス。 1993年、精神病院である大和川病院で患者不審死事件が起こった頃、詰め掛けた報道陣に「あんたたちは、正義の味方でいいわね。家族はそれではすまないのよ!」*2と悪
沖縄問題と北アイルランド問題は同等に扱おう!!ダブスタは許しません(笑 ついでにトロント・パレスチナ映画祭も応援します。「私は今でもサッチャーを憎いんでいる」 http://www.spiegel.de/politik/deutschland/0,1518,411786,00.html これさっきドイツのニュース雑誌「SPIEGEL」から拾ってきた映像なんすけど、ポツダムという街でアフリカ系のドイツ人の方が極右の連中に襲われてお亡くなりになったそうです。 で、地元警察は犯人逮捕にヤッキになってるんだけど、手がかりなしで捜査は難航してるんだとか。 それにしても上の写真をご覧になればお分かりのようにこの卑劣な犯行に対してアンチファシズムの趣旨に賛同している人たちが抗議デモをやってるんですね。 「どんな犠牲者もあって然るべきではない!一緒にナチスと戦おう!」 ということらしいんですが、襲われたの
ナムジュン・パイクが亡くなりました。2000年だったか初めてニューヨークに行ったとき、ソーホーで車椅子のパイクを見かけました。あの時も白いシャツで吊りズボンでした。 忘れもしません。ソーホーの地下鉄の駅の出口を出たら、ビョークが歩いていたんです。シルクの深緑のドレスを着ていて目の前を通り過ぎていった。目を疑って、振り返るともういなかった。そして30分後にパイクを見かけた。ソーホーってこんなに有名人が歩いてるんだと感激したものです。 1981年僕が広島の高校から東京の大学に入って、東京で最初に見かけた有名人は小森のおばちゃまでしたから。ニューヨークですれ違ったパイクとビョークという強烈な組み合わせに、20年の時間差があるとはいえニューヨークと東京の文化密度の違いを感じたものです。 よれよれの白いシャツ、吊りズボンのパイクの姿は、マリオ・ボッタがワタリウムを建てる前のギャルリー・ワタリで見かけ
世界的なビデオアーティストのナムジュン・パイク(白南準/ペク・ナムジュン/74)さんが、29日午後8時ごろ(現地時刻)米フロリダで死亡したとマイアミの地元紙が30日報じた。 パイクさんは29日午後、フロリダ州マイアミの自宅で夫人の久保田成子さん、甥のケン・ハクダさんらが見守る中、静かに息を引き取ったと同紙は伝えた。 同紙はハクダさんの話を引用し「葬式は親戚が集まった後、ニューヨークのマンハッタン・マディソン・アベニューの葬儀場で行われる予定」と報じた。 パイクさんはソウル生まれ。日本で音楽および美術を学び、その後ヨーロッパや米国でアーティストであると同時に思想家としても活動してきたビデオアーティスト。 パイクさんは1996年に脳卒中で倒れ、右半身が麻痺した後も、ドイツビデオ彫刻展(1997)、98ソウル平和美術祭(芸術の殿堂美術館、1998)、40年回顧展(米カリフォルニア・サンタ
当ブログでは、牛乳だけで30年も生きてきたパキスタンの男性のことを取り上げたことがある。また、昨年の春ごろ、ジャムパンだけで11年間生きている少年が英国にいるとして話題になっていた。だが、ほとんどの場合、極端な偏食は体に害を及ぼす。 フライドポテト ― 特にマクドナルドのポテトを好んでいた。 トースト ― トーストと言ってもデニッシュパンをスライスしたもの以外は食べなかった。さらに、必ずLurpakブランドのバターを塗って食べていた。 ベークドビーンズ ― 日本では、あまり馴染みがないが、イギリスでよく食べられている煮豆に似た料理である。スコットさんが食べていたのは、決まってMorrisonsブランドの缶詰になったベークドビーンズ。 上記3種類の食べ物だけがスコットさんの生きる糧のすべてだった。フルーツや野菜(ポテトは別にして)を食べることは決してなかった。 幼いころから20歳に至るまで、
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1999年6月12日未明、ある性同一性障害者「女性」が肺炎で亡くなった。享年73。 彼女こそは、戦後日本における革命運動の生き証人の一人であった。皇軍を脱出して敗戦直後にアナキズムの運動にとび込む。運動分裂後は日共を経て社会党にもぐり込み社青同の創設者となった。世界民青連日本代表。三池炭鉱闘争では大正行動隊に加わる。自立学校から東京行動戦線。無政府共産党。火炎ビンよりアンモニアぶっかけの方が効果があるらしい。善隣学院闘争、羽田闘争……。歴史的に重要な闘争に、つねに関わり続けていた。 永続革命家としてのチェ・ゲバラとその思想を初めて広めたのも彼女(ら)である。安保ブンドとの関わりから、新左翼諸党派からは顧問として迎えられていた。地下に潜った労働者たちを軍事訓練。ML同盟結成を呼びかけ、日大闘争、東大闘争など全共闘運動にもみずから積極的に関わっていった。アスパック闘争。脱走反戦米兵を漁船でソ連
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