カニが「横歩き」を始めたのは、およそ2億年前だった可能性が高いとする研究結果を長崎大学などのグループが発表しました。動物の移動様式がどのように進化してきたのかを理解することにつながる成果だとしています…
クックはエセックスのサウスエンド=オン=シー出身で、1953年から1958年までボーンマス・カレッジ・オブ・アートで建築を学んだ。その後ロンドンのAAスクールに入って建築を学び、1960年に卒業した[2]。 クックはロンドンにあるインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アーツとユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのバートレット建築学院のディレクターを歴任し、ロンドンのアートネットのディレクターとヴェネツィア・ビエンナーレのイギリスパビリオンのキュレーターもつとめている。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートの上級フェローでもあり、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ユニバーシティ・コレッジ・ロンドン、ドイツのフランクフルトにあるシュテーデル美術大学などで教鞭を執っている。 オーストリアのグラーツでコリン・フォーニアと共作した芸術施設クンストハウス・グラーツ(別名「フレンドリー・エイリ
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年9月) キンマモン(キンマンモンとも)は、琉球神道に伝わる女神。漢字では「君真物」と表記されるが、これは「最高の精霊」という意味である。古くから君手摩と同一視されてきた。海の彼方から来訪し、最高神女である聞得大君に憑依する。 琉球に渡って浄土教を布教した袋中良定は、著作の『琉球神道記』(成書年代17世紀初頭)の中でキンマモンについて言及している[1]:313-314。『琉球神道記』はキンマモンの名前を確認できる最古の文献である[2]。『琉球神道記』によれば、キンマモンには陰陽があり、天より降ってきたのをキライカナイノキンマンモン、海より上がってきたのをオホツカケラクノキンマンモンと呼ぶ[2]。 滝沢馬
龍泉(いじゅん)は、高安六郎(英語版)(たかやす ろくろう、のちに龍泉(りゅうせん)と改名、1934年1月3日 - 2018年9月30日)が沖縄で1972年に創始した新宗教である[1][2]:312。教祖の高安は沖縄芝居の役者として活動する傍ら、1977年にラジオ放送のエフエム沖縄で毎日説法を行った[3]。なお、父・高俊と弟・勝男も沖縄芝居の世界で活躍した。いじゅんは、1980年に宗教法人法に基づく宗教法人として登録され、新宗連に加盟した[2]:312[3]。 いじゅんは、ノロやユタに代表されるような沖縄的シャーマニズムやアニミズムの性格を持った宗教運動である[2]:322。いじゅんは、東洋思想で言う「気」に相当する、宇宙の神秘的な生命の力を「ウチナーちから」(内力)と呼び、人々にこの力を自覚することを説く。 いじゅんは、キンマンモン(君真物)という神格への信仰を重視することが特徴の一つで
本田氏は「音のない音楽」で「日本的なイスラムの表現」を生み出したカルドン・アズハリ 東京:東京生まれのフアド・コウイチ・ホンダ(本田孝一)氏は、世界でもトップレベルのアラビア書家として広く知られている。大東文化大学で教鞭を執る本田氏は、国際アラビア書道コンテストをはじめ、数々の賞を受賞している。彼の作品の中で最も有名なのは、コーランの一節となる。 フアド氏がアラビア語を学び始めたのは数十年前に遡る。アラビア語でコーランを読んだことがきっかけで、「音のない音楽」と表現されるアラビア語のカリグラフィーへの挑戦を始めた。 「その後、イスラム教を受け入れたのは、この信仰の本質をよりよく感じ、神を感じるためでした」と彼は語る。「私の作品は、イスラム教やイスラム文化を日本流に表現したものです」 また、アラブ諸国を旅した際に出会った風景も、本田氏の作品に反映されている。1980年代に3年間、サウジアラビ
神の言葉である『コーラン』を美しく書くために1000年以上もの時間をかけて磨かれてきたアラビア書道。ピカソもその美を愛した、世界でも例のない文字芸術に挑んだ日本人がいる。本田孝一、イスラム世界でも認められた日本人書家はアラビア書道で何を伝えようとしているのか。 本田 孝一 HONDA Kōichi アラビア書道家。日本アラビア書道協会会長。元大東文化大学国際関係学部教授。1946年神奈川県生まれ。東京外国語大学アラビア語学科卒業。1974年、パシフィック航業に入社。約5年間の中東滞在中に、現地のアラビア書道家により手ほどきを受ける。帰国後、アラビア書道を独習。国際アラビア書道コンテスト審査員奨励賞をはじめ、数々の賞を受ける。2000年、トルコのハッサン・チェレビー師より書道印可(イジャーザ)を授与される。主な著書に『パスポート初級アラビア語辞典』(共著、白水社)、『アラビア語の入門』(白
「アラビア書道」とは、アラビア文字を用いて書かれる文字芸術のこと。イスラム教の聖典コーランの章句を表したその美しい文字は、千年の時をかけて洗練されてきた。本田孝一氏は日本におけるアラビア書道の第一人者だ。その作品は大英博物館にも収蔵されるなど、世界的に高い評価を得ている。アラビア書道との出会い、そこに垣間見るアラブ世界の精神、書を通じた文化交流などを聞いた。 [2016年3月] 本田 孝一(ほんだ・こういち) 1946年東京生まれ。アラビア書道家(免許保持者)、日本アラビア書道協会会長。東京外国語大学アラビア語学科を卒業後、通訳として中東に滞在中、アラビア書道と出会う。その後トルコ人書道家のハッサン・チェレビー師に師事し、数々の賞を受ける。トルコ・イスタンブールで日本人初の個展が開催されるなど国際的に活躍。代表作の一つ「神の顔」は大英博物館所蔵。作品集に『アラビア書道の宇宙』(2006年、
フランシス・ポンジュ(Francis Ponge、1899年3月27日 - 1988年8月6日)は、戦後のフランス文学を代表する詩人である。文学伝統における既存の価値、観念、主観性、人間中心主義を排して、それまで題材として取り上げられることのなかった「物の味方」をし、日常的な事物をひたすら凝視することで、物(オブジェ)の真実に限りなく近づこうとした。1942年発表の詩集『物の味方(フランス語版)』は、カミュ、サルトルに絶賛され、実存主義の詩、ヌーヴォー・ロマンの先駆と称された。また、フィリップ・ソレルスら『テル・ケル』派の唯物論的言語観に大きな影響を与え、ジャック・デリダも独自のポンジュ論を著している。 フランス社会党、次いで共産党に入党し、労働総同盟の代表を務めた。第二次大戦下では対独抵抗運動にも参加し、文学・芸術革命を社会革命につなげようとしたシュルレアリスムにも参加したが、常に一定の
山頂南斜面の山林一帯は多摩川の水源で、東京都水道局が管理する水源涵養林(東京都水源林)である。山頂から南側少し下に、多摩川の最初の一滴がしみ出す水干(みずひ、「沢の行き止まり」の意味[4])と呼ばれる場所があり、「東京湾まで138km」と書かれた看板が立っている[4]。山頂から西へ少し離れた雁坂峠への分岐付近には「小さな分水嶺」と呼ばれる場所があり[4]、山梨県山梨市・甲州市・埼玉県秩父市の境となっている。ここから山梨市側は笛吹川(富士川の支流)、秩父市側は荒川、甲州市側は多摩川の流域である[4]ことを示す石柱がある。 登山道の管理が行き届いており[3]、比較的短時間で登山ができ、また眺望も優れているため、登山者が多い[2]。 最も一般的な登山ルートは、甲州市の国道411号(青梅街道)から入った林道一ノ瀬線沿いにある作場平からのコースである[5]。また、山梨市の広瀬湖沿いにある新地平から雁
新連載 葬墓の歴史からわかる日本人の死生観を問う〔1〕 「墓への埋葬から寺院納骨も行われた天皇の墓が今、神社風に変わり得たのはなぜか」…岩田重則(中央大学教授) 日本人の死生観のこれまでの変遷を知るには記録が残る天皇墓の実際をまずみることが第一とされる。その様相や要因、さらに葬る方も葬られる者にも死への希求とは何か、新著『火葬と土葬』を上梓された筆者に連載をお願いした。 「弔い」の激変で現行法規の対応不全問題とは何か〔21〕 「墓埋法に定められる『改葬』と現実に増えている散骨や自宅納骨という改葬との明らかな乖離」…田中淳子(愛知学院大学教授) 改葬といえば今日、墓じまいのことと思われるが、その様相は一様でないのに、法律は“もとの墓から別の墓などに遺骨を移すこと”と限定しているのだ。これによって困惑しているのが法規に則って遺骨の取り扱いを行っている墓地管理者である。とりわけ自宅に遺骨を移す者
息壌(そくじょう、中国語: 息壤)、あるいは息土(そくど)は、中国神話に登場する土の怪物、あるいは魔法の土である。神話に拠ればそれは自ら増殖する能力を有し、そのため鯀(こん)と禹(う)は大洪水を治める目的でこれを用いた[1]。 いくつかバリエーションがあるが、神話では鯀は黄帝から息壌を盗んだ。黄帝は鯀を罰するために祝融(しゅくゆう)を派遣し、祝融は羽山(地名)で鯀を処刑した[2]。また別のバリエーションでは、禹は天国へ向かう。黄帝に懇願し、彼から魔法の亀の背に乗せられるだけの息壌を譲り受け、大洪水の元となっていた233,559ヶ所の泉を塞ぐために使った[3]。また別の話では息壌は太帝から盗まれ、あるいは授かり、そして祝融以外のものが鯀を処刑したものとして語られる[4]。 ↑ Yang, Lihui; An, Deming (2008). Handbook of Chinese Mythol
四罪(しざい、Sìzuì)とは、中国神話に登場する天下に害をなした四柱の悪神。四凶と混同されることがある。舜四凶[1]とも称される。
鯀(こん)は、古代中国の伝説上の人物あるいは神。姓は姒、諱は鯀。禹の父であり、四罪のひとりにあげられている。爵位は崇伯[1]。 『漢書』律暦志によると、五世の祖は五帝のひとりである顓頊(せんぎょく)であり、子に夏の帝となる禹(う)がいる。『史記』夏本紀、『世本』によれば、顓頊の子であるといい、父が帝であったものの、堯に因って陶が征服された為に、帝位に就くことは出来ず尭の臣下に落とされ、部族を率いて東へ逃れた。 堯(ぎょう)の治世において大河の氾濫が止まなかったため、堯は誰かに治水をさせようと考えていた。このとき皆が口をそろえて鯀にやらせるべきだと言ったが、堯は鯀を用いるべきでないと言って渋ったが、それでも臣下たちが鯀より賢い者はいないと言ったので、堯は鯀に治水を命じた。9年やっても氾濫は収まらないという名目で堯は鯀に罪を着せて、舜(しゅん)を後任として登用した[2]。鯀は四罪の一つとされた
紹興市の会稽山にある大禹陵 禹(う)は、中国古代の伝説的な王で、夏朝の初代王。名は文命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。大河の治水(黄河とも云われる)を成功させた伝説的人物[1]。 大禹に関する最初の記録は西周時代の金文まで遡れるが、西周の記録では啓や舜などの人物との関連性は見当たらない。その時の禹は天の命を受け、土地を敷いて洪水を抑える、あるいは山々を削って大河を塞ぐ姿をしていた。 (遂公盨:「天命禹敷土,隨山浚川」)また《尚書·禹貢》にも「禹別九州島,隨山浚川,任土作貢。禹敷土,隨山刊木,奠高山大川。」という話が書かれている。 禹が大河を山で塞ぎ経路を変えさせたことから、天帝の息壌(無限に増殖できる土壌)を利用して洪水を塞ぐ春秋戦国時代の伝説に発展したと考えられる。世界が禹によ
三府龍脈碑(復元) 三府龍脈碑(さんぷりゅうみゃくひ、三府竜脉碑)は、1750年(乾隆15年)、琉球王国の宰相蔡温によって名護(後の沖縄県名護市)に建てられた石碑である。石碑の形状が、地元で屋敷の正門と母屋との間に建てられる魔除けの塀「ヒンプン(屏風)」に似ていることから「ヒンプンシー(屏風石)」とも呼ばれる[1]。碑文は表面に漢文、裏面に和文で書かれている。1991年(平成3年)1月16日に沖縄県の有形文化財(歴史資料)に指定された。 1750年頃の琉球王国は首里(中頭、島尻)と名護(国頭)との間に軋轢があり、首都を首里城から名護へ移すことと、名護湾から羽地内海へ抜ける運河を建設することについて議論があった。これに対して当時の宰相蔡温が自らの考えを風水思想に基づく文言にまとめ、石碑にして示すことで論争の封じ込めを計ったものと考えられている[2][3]。 1749年(乾隆14年)3月21日
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