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2015年8月11日のブックマーク (5件)

  • 集団的自衛権の「問題点」を一気に学ぶ/伊勢崎賢治『戦場からの集団的自衛権入門』から - SYNODOS

    国連PKO上級幹部として、東ティモール、シエラレオネの戦後処理を担当。また日政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除の任に就き、「紛争解決請負人」「武装解除人」として、戦場でアメリカ軍、NATO軍と直接対峙し、同時に協力してきた東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏。日人で最も戦場と言う名の現場を知る氏が昨年刊行した『戦場からの集団的自衛権入門』の中から、重要な部分を引用する。(構成 / 編集集団WawW ! Publishing 乙丸益伸) 対テロ戦争は、アメリカ自身に大きな打撃を与え、日自衛隊派遣の活動内容に多くの課題を残しました(「集団的自衛権の歴史」を一気に学ぶ )。しかし、それに対する真摯な検証は一切されないまま、「なお一層アメリカに協力をしないと有事の際に助けてくれない」というイメージが先行する形で、日は集団的自衛権の行使容認に向け、ひた走っています。 しかしその動きは

    集団的自衛権の「問題点」を一気に学ぶ/伊勢崎賢治『戦場からの集団的自衛権入門』から - SYNODOS
  • MEGA地震予測創設以来初 南関東警戒レベルを最大に引き上げ (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

    異例の出来事だ。震度5以上の地震を誌で幾度も的中させてきた村井俊治・東大名誉教授の「MEGA地震予測」を主宰する民間会社JESEA(地震科学探査機構)の幹部から「週刊ポスト」編集部の担当者に連絡が入った。 「南関東の警戒レベルを最大に引き上げた。これは我々が東日大震災後にメルマガを開始してから初めてのこと。村井は国民に警告を発しなければならないと考えている」──村井氏がこれほどまでに危機感を募らせているのはなぜか。 村井氏の「MEGA地震予測」の分析に用いているのは、主に日全国の電子基準点の1週間の上下動による「異常変動」、地表の長期的な「隆起・沈降」(上下動)、地表が東西南北のどの方向に動いているかの「水平方向の動き」の3つである。今回、南関東ではそのすべてにおいて大地震の前兆現象と考えられる動きが確認された。まず「異常変動」について見ていこう。 「昨年7〜8月に全国で一斉変

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  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 林京子 - Wikipedia

    『祭りの場』講談社、1975 のち文庫 収録作品:祭りの場 / 二人の墓標 / 曇り日の行進 『ギヤマン ビードロ』講談社、1978 のち「祭りの場・ギヤマン ビードロ」文芸文庫 収録作品: 空罐 / 金比羅山 / ギヤマン ビードロ / 青年たち / 黄砂 / 響 / 帰る / 記録 / 友よ / 影 / 無明 / 野に 『ミッシェルの口紅』中央公論社、1980 のち文庫 収録作品:老太婆の路地 / 群がる街 / はなのなかの道 / 黄浦江 / 耕地 / ミッシェルの口紅 / 映写幕 『無きが如き』講談社、1981 のち文芸文庫 『自然を恋う』中央公論社、1981 『上海』中央公論社、1983 のち文庫、講談社文芸文庫(「ミッシェルの口紅」併収)(1983年女流文学賞) 『三界の家』新潮社、1984 のち文庫 収録作品:谷間の家 / 父のいる谷 / 家 / 煙 / 無事ー西暦一九八一年・

  • 久野収 - Wikipedia

    1910年、大阪府堺市生まれ。奈良県立五條中学校(現:奈良県立五條高等学校)、第五高等学校を経て、1934年京都帝国大学文学部哲学科卒業[1]。京都帝国大学在学中の1933年、学生の立場で「滝川事件」に関わる。 大学卒業後は、中井正一らと共に1935年に雑誌『世界文化』にかかわる。1936年からは隔週刊新聞『土曜日』にかかわる。これら雑誌のようなマルクス主義とは一線を引いた、軍国主義反対のメディア刊行物の発行を行ってゆく。久野は一時期、中井正一宅に居候をしていて、先輩の中井を支えた。しかし、1937年に治安維持法違反で逮捕された(1939年に釈放)。1936年から1938年2月まで昭和高等商業学校(現:大阪経済大学)に勤務[2]。 戦後は、思想の科学研究会の主要メンバーとなり、60年安保反対闘争、ベトナムに平和を!市民連合などの思想的指導者として活動。学習院大学専任講師を長らく務め、その後

    久野収 - Wikipedia