プレゼンしながらTwitterのつぶやきをリアルタイムでPowerPointに表示できる部品、SAPから 最近ではセミナーや講演の参加者が、その内容や感想をTwitterでつぶやくことも増えてきました。そんなつぶやきを、そのままプレゼンに反映してしまえる部品が公開されています。 この部品を使うと、TwitterのつぶやきをPowerPointの画面上でリアルタイムに表示することができます。会場の反応をそのままプレゼンにフィードバックできるわけです。
プレゼンしながらTwitterのつぶやきをリアルタイムでPowerPointに表示できる部品、SAPから 最近ではセミナーや講演の参加者が、その内容や感想をTwitterでつぶやくことも増えてきました。そんなつぶやきを、そのままプレゼンに反映してしまえる部品が公開されています。 この部品を使うと、TwitterのつぶやきをPowerPointの画面上でリアルタイムに表示することができます。会場の反応をそのままプレゼンにフィードバックできるわけです。
自分が事故に遭い死亡するような不測の事態が起こったあと、人には見せたくないプライベートなファイルを完全削除するソフト。PCが一定期間使用されないと自動で削除するといった方式ではなく、遺された家族など自分の死後にPCを使用する人間に起動させる仕組み。すなわち目にとまりやすいデスクトップショートカットを作成しておき、もしもの場合の家族へ宛てたメッセージを表示するソフトとして振る舞う。暗号化メッセージの“解読中”を装いながらバックグラウンドで削除処理を行うため、事前に指定した対象ファイルが大量にあっても、削除が行われていること自体を相手に悟られにくいのがうれしい。また、削除したファイルをファイル復旧ソフトなどで復旧されないよう、ファイル名のランダム変更やデータの上書きを行って削除する設定も可能。もちろん削除処理が終わると自動で開くファイルをあらかじめ指定できるので、家族へのメッセージを書いた文書
この頃の英語教育は、直読直解、英語を英語のまま理解することを良しとする風潮がある。「英語の授業は英語で」という指導方針も同根である。これは、「英語」と「理解する行為」の間に、母語である日本語を介在させないことを意味する。 しかし、私が思うのは、英語は英語で理解し、日本語は日本語で理解すると、英語で理解できることと日本語で理解することの間にギャップが生じないのかということだ。それで、昔ながらの「和訳」とはこの間隙を埋めるという働きをし、母語の世界観を持ちながら、もっと言うと、母語の世界に外国語を入れ込み、元々からある自己の世界観を統合されたままに更に大きく広げるという重要な役割を果たしていたのではないかということだ。 バイリンガルの子供は、使う言語によって使用する脳の部位が異なるらしい。言語はそのまま思考法を表すだろうから、使う言語によって、その子の性格が変わるようなことはないのだろうか。そ
詩というものがあって、あれは何かというと、恋愛感情であるとか、憎しみの感情であるとか、あるいはへこたれた気分であるとか、そういうあられもない感情を、なんだかわかんない程度に偽装して書き表す技術である。直情的な文章をあまりに明確かつ明快に書き表してしまうと、それが人の目に触れた場合には大変な問題を引き起こしてしまう。少なくとも恥ずかしいことになってしまう。 ところが、文法とか文脈とかを少し破壊した文章を使って、その中に自分のドロドロだったりベタベタだったりキラキラだったりする動物的な感情をほのめかすことによって、健全な感情を持った読者には「ふーん」と受け流され、似たような感情を抱いた読者にだけ「わかるわかる」と受け止められるメッセージを放つことができる。 美術にしても似たようなものであって、単に女の裸を眺めて過ごしたい男たちが、「これは生身の人間の女を象ったものではなく、あくまで天界の女神の
日本語で言うと、「品格」騒動の内容に近いのだと思う。品格というのは、格に見合った品の良さというようなものであって、まず大前提に「格」がなければならない。ノーブレス・オブリージュ、高貴さゆえの義務を期待するならば、まずは高貴さを保証しなくてはならない。ノーブルでないところにオブリージュに見合う精神は育たない。 横綱朝青龍に横綱としての品格を要求する声が上がっていたが、その品格を要求する側の一部に見られた品のなさが目に余った。なぜ横綱に品格が求められるのかというと、歴史を持った横綱という格に対する、人々が持つ無条件の敬意があるからだ。個人的品位が高いから横綱が尊敬されるのではなく、まず人々が横綱という格に対して無条件に尊敬する態度を見せるから、そういう格に置かれた個人は、否応なく格にふさわしい品位を持たざるを得ないところまで追い詰められる。これが品格というものだろう。 横綱という格から降りたと
うめぇヨーグルトソースでもいかがですか。個人差にもよりますが。もしよろしければ。 お久しぶりです。 最近うんめぇ〜と思ってるヨーグルトソースがあるので、書いていこうと思います。 ヨーグルトとハーブ類をもりもり使うので、そういうのが食べられない方にはうんめぇソースではないです。ごめんなさい…。もしよろしければお茶だけも…旦~ 【用意する…
なんだか絶望先生のサブタイトルみたいだな(ありましたっけ?)。 例によってtwitterの発言関連をメモっておこうと思ったが、直近のじゃないので見つけること能わず。 外部の検索は不安定な感じだし、公式の検索はラテンアルファベット以外の文字にはすごく弱い感じなのであれをなんとかしてほしいな。 ということで私の持論ですが正確には引用じゃないけど前回の例に倣って書きます。 高度成長経済期には人々が上を向いて憧れるようなものがウケるが、 低(マイナス)成長期には人々が下を向いて安心できるものがウケる 具体的に言うと、例えばテレビのクイズ番組。 高成長期には素人(非芸能人)の出演者が出て徐々に難易度が上がる問題を次々に突破し、優勝すると高額賞金や賞品を得る番組がウケていた。 翻って低成長期の現在では、タレントが出演しておバカな回答やリアクションをする番組がウケている。 視聴者は向上心への憧れなどはす
マンデヴィルの『蜂の寓話』は、資本主義社会の元になった理論ですね。 アダム・スミスに影響をあたえました。 蜂の寓話の要約が下記のサイトに載っています。 【消費が人々を豊かにする】 蜂の巣に蜂の大群の詩です。 一部の資本家は物を作り、販売することで利益を得て、 さらにその利益を消費に回すことで、社会全体が豊かになるという話です。 資本家は貧乏人を雇用することで、社会は潤い、貧乏人はいなくなるというわけです。 金を持った者が社会を動かすので、悪徳に溢れてはいるが、世の中は豊かであるということですね。 奢侈擁護論ともいわれています。 【反対運動】 キリスト教徒、道徳家がこの寓話を攻撃しました。 これに反対する人々に対して、反論を「続・蜂の寓話」として発表されています。 参考URL:http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/Econ …
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“格差”を絵で表現すると下記のようになります。 左側の水色さんは丸々太ってメタボ気味だし、コートも来ているし、両手に貯金も持っている。 一方、右側の黄緑さんは皮下脂肪の蓄えもないし、コートもなければ貯金もありません。 恵まれている人は二重三重のセーフティネットに守られているんです。正社員で、病欠も認められ、貯金もあり、助けてくれる家族もいる。 けれど寒空に凍える人は雇用も不安定で貯金もなく、親族もみな同じような状態だから頼る人もいない。 こういう二種類の人がいる世の中が、大不況に陥りました。寒風が吹き、仕事もなくなった。 でも水色さんには大きな痛みはありません。 ぬくぬくしたコートを着ているし、食べ物もある。ボーナスは減ったけど、まだ貯金もあります。 一方、不況は黄緑さんには死活問題です。寝るところ、食べるもの、生きる意味、すべてが危機にさらされる・・。 さて、ある社会に 100人の人がい
雨の中、新横浜へ。 足立さんの仕切りで、二誌の取材と広告用写真撮影。 最初はサンケイ新聞。 『日本辺境論』について語る。 訊かれるたびに違う話をしているので(退屈だから)、だんだん混乱してきて、自分が何でこんな本を書いたのかわからなくなる。 写真撮影のために、いろいろポーズを取る。 個人的には “Arc” の表紙のメルロー=ポンティのポーズ(眉をしかめて煙草にマッチで火を点けているところ)を真似したいのだが、煙草を吸っている写真というのは当世では「政治的に正しくない」画像だそうで、ただちに却下される。 続いて『Engine』のスズキさんがおいでになる。 ヨーロッパにおける辺境といったらどこでしょうね、という問いから、「アイルランド」じゃないかなという話になる。 私はアイルランドについては何も知らないけれど、ローマ帝国によるヨーロッパの「開化」とキリスト教化によって周辺に押し出された「原ヨー
倉吉東高校に講演に行く。 この高校の芝野先生という方がたいへん熱心な「ウチダ読者」で、ご招請いただいたのである。 増田聡くんによると、「たいへん熱心なウチダ読者」のことを業界の一部では「タツラー」というそうである。 ええ、そうなの〜 「ウチダー」よりはいいでしょうと増田くんは言う。 まあそうだけど。 とにかく、その先生の音頭取りで全校をあげて「ウチダ本」を読む運動を展開されているらしい。 生徒たちはしかたなく近くの書店に行って「ウチダタツルの本ありますか?」と訊くことになる。 倉吉の書店の人も次々に高校生がやってきてはウチダ本を求めるので、さぞや驚かれたであろう。 そのせいで倉吉の書店では「内田樹コーナー」を作ったそうである。 リバプールでレコード屋をやっていたブライアン・エプスタインのところにある日レイモンド・ジョーンズという少年が来て、「ビートルズのレコードある?」と訊いた。 ブライア
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091203/p1 男はケモノ「だから」予防拘禁すべしなんて一言も述べてないのに、文章のある一部だけを取り上げて「男性への予防拘禁だけしからん!(キリッ」って言っている人たちは何なんでしょうかね。もちろん記事を投稿した時点である程度予想していたことですが。予想していたなら対策しとけよボケという突っ込みが聞こえてきそうですが、無視します。 ところで「予防拘禁」まかりならんというのは当然だと思うし、「予防拘禁」に怒りを燃やすのはたいへん結構なことだと思います。であるならば、そのような人はぜひ、現在、実質的に女性が「予防拘禁」されているという現実、あるいはそのような「予防拘禁」を容認するような言説(「自衛」論)がまかりとおっていることにまず抗議すべきだし、抗議していただきたいですね。 ブクマ
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