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  • 「英語の授業は英語で」の陥穽 - 考えるのが好きだった

    英語と日語は全く異なる言語だから、どんなに日語の熟達してもすぐに英語ができるようになるわけでないし、どんなに英語に堪能であっても日語が堪能だと言うことにはならない。(「言語」を扱う潜在的な能力として、母語が得意な人が外国語も得意になるということはある。読解力や思考力などが共通するからだ。しかし、ここでは問題にしない。) ある程度英語がわかるようになると、日語を介在させずに理解が進む。今のセンター試験のあの問題量は、これを意識してのことだろうと思う。いちいち訳しながら読んでいるようでは時間内に読み切れないし答えきれない。英語を理解する過程で、全く母語が介在せずに、英語がいきなり理解につながるのだ。それで、今の英語教育が目指すのはこれのようだ。だから、「英語の授業は英語で」となる。これはこれで良い。しかし、それだけで事足りると思うのは、間違いである。この理解がない。 英語がそのまま自分

    「英語の授業は英語で」の陥穽 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2013/03/11
    「「英語の授業は英語で」は、既に英語が出来る人との関係を深めてはくれる。しかし、英語を介さない人を仲間はずれにする」「習得した第2言語をいかにして母語と連関させるかの理解を深めてこそ、本物の学習」
  • かけ算は、何より「単位」の認識が大事なのだ - 考えるのが好きだった

    茂木健一郎さんのツイッターで、かけ算の順序が議論されているけど、論点がずれている。 あれは、「順序」が問題ではなく「単位」が問題なのだ。 しかも、「単位」を認識することが非常に重要なのだ。 6人に8ずつ鉛筆を与える式、8×6人=48は、6人×8=48でもかまわない。6人が8の列車(列車じゃなくていいのだけど、の単位で表せるもっと良い例を思いつけない。)に乗ると、6人×8=48人、8×6人=48人で、どっちでもかまわない。 ここで、上記の6×8=48、8×6=48を比べてみよう。答えの「数値」はどちらも同じ48である。 しかし、「答え」はちがう。前者は、「48」、ところが、後者が「48人」と同じ48の数字が持つ意味が異なる。 単位が重要なのだ。 たぶん、子供は、8と6の順序をどっちでもいいとなると、「答えの単位の付け方」を「ついつい」間違えるのである。 「なんとなく」「う

    かけ算は、何より「単位」の認識が大事なのだ - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2013/01/28
    「かけ算の初心者には「便宜的に最初の数字に単位をつけることを習慣化させる」方が、たくさんの式が並んだときや式が複雑になった時に、特に単位に関わる計算の不注意間違いをしないで済むようになる」
  • なぜ子供たちは受験のために塾へ行くのか。 - 考えるのが好きだった

    幼稚園以外はすべて公立で育ってきたが、もう何年も前から「高校受験の勉強を塾でする」とか「受験勉強をいつから始めるか」などの言に違和感を感じてしようがない。この思考法というか現状というかは、ますますひどくなっている。なんてことのないテレビの娯楽番組でも、「今年は受験だから塾へ行って勉強」など当たり前のように言う。まるで塾に行かなければ勉強が出来ないかのようである。日中、えらい勘違いである。勉強は、塾へ行かなくても十分出来るのに。 それでも子供たちは塾へ行く。 センター試験まであと1ヶ月ほどの今、日中の高校三年生は、「センター試験で合否が分かれる」生徒はもちろん「個別試験で合否は決まるからセンターなんてほとんど関係ない」生徒も、なんだかんだとセンター試験対策の勉強をしているだろう。 でも、「入試対策」とあっても現実の勉強の内容は、「内容」に関しては多くが「1・2年の復習(英語なんて、全部が

    なぜ子供たちは受験のために塾へ行くのか。 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/12/12
    「特に「高校受験」には、いわば「自分が高学歴社会の一員となる」ための「通過儀礼」としての特別な意味が付随してきたのではないか。「自分がちょっと賢くなる意識化」である。」
  • 授業のいろいろ良い授業 - 考えるのが好きだった

    小学生のとき、そろばん教室に通っていた。やっていたのは、先生が読み上げる暗算と読み上げ算、それに、たぶん時間内での級ごとの練習、伝票算だったか。あるとき、教員をしていた親から言われた。何かの拍子に、私がそろばんを「習いに行っている」と表現したときだろうが、「そろばん教室へは練習に行っているのであって、習いに行っているのではない。」と。私はそれでも「習いに行っている」と言い張ったような気がするが、確か、否定された。私は「そろばんを習っている」と思い込んでいたからものすごく衝撃を受けた。あれから数十年、いまだに頭にある。この数十年間に3回はこの話を思い出していると思う。(笑) 「良い授業」がどんなものかを考えるとき、このエピソードを敷衍することで、私は何かわかることが出てくるのではないかと思っている。しかも、どんな教科にも当てはまることをだ。 近頃は、「良い授業」と聞くと、講義形式より、発表を

    授業のいろいろ良い授業 - 考えるのが好きだった
  • 学校教育の影響力 - 考えるのが好きだった

    教員の中には、「学校の教育なんて、子供に大した影響を与えない。それよりむしろ、家庭で、親がどんな教育を行っているかの方がずっと重要だ。」と言う人がけっこういる。他方、「いや、学校でどんな教育を行うかは、大きく子供に影響する。」と、反対の意見を言う人がいる。 さて、一体どちらが正しいか? 前者、「学校教育の影響力は少ない」というとらえ方は、子供一人一人に着目して「個人」として見る場合、学校教育の影響よりも親の影響力の方が大きい。反論する人はいないだろう。格差の再生産が生じる理由にもつながる。 ところが、子供を「集団」として捉えると、はたして学校教育にはさしたる影響力がないと言えるだろうか? それこそ、真実か否かは別として、「ゆとり教育」が子供に与えた影響は大きかったか、それとも何の影響もなかったか。----答えるまでもないだろう。誰しもが学校教育が与える影響は大きい、と認めたから、新しい教育

    学校教育の影響力 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/08/17
    「子供一人一人に着目すると、学校よりも家庭の影響が大きい」「子供を「マス」として見ると、学校教育は大きな影響を子供に与える」
  • ゴシック体は知性を損なう - 考えるのが好きだった

    ゴシック体は、極めて「鈍感」な書体である。日語の場合、毛筆から発展した文字の片鱗もない。撥ね、止めもはっきりしない。同じ太さが最初から最後まで続く。極めて不自然な書き方である。ゴシックを見て育った子供は、撥ねや止めの違いに気がつかない。 ゴシック体を好む人は、「わかりやすい」と言うが、わかりやすいは「曲者」である。わかりやすいことが続くと、人間の思考力や違いに気がつく感性が鈍感になるからだ。また、ゴシック体を好む人は思考が意外に平板で羅列的である(と言う気がする)。 感覚に対する入力を大ざっぱなものにすると鈍感になる。「難しい」と言って、感覚を育てるべき時期にそれ相応の刺激を与えなかったら感覚は育たない。既にそれなりに鋭敏な感覚を有している大人とそうでない子供の扱いは違う。小学校の教科書が教科書体を使うのには理由がある。撥ね・止めだけでなく、カタカナの「イ」1画目の太さにもちゃんと変化が

    ゴシック体は知性を損なう - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/07/11
  • 大発見発表の場の授業 - 考えるのが好きだった

    時々、私は「大発見」をする。内容は書かない。 朝の通勤途中で大発見をするときもあるし、授業中の時もある。そんなときは、なるべく「新鮮」なうちに生徒に伝えることにしている。 生徒のノリが良いと、まあ、たいていはけっこう成績の良い子たちだったりするのだがとても喜んでくれて、なるほど~、と感心してくれる。鈍いとぜんぜーん乗ってこないからつまらない。テンションが下がる。 こうした内容は、たいてい、参考書に載ってないが、真理を突いていることだったりする。(だって、まさにそのとおりなんだもの。例外はまず、ない。ほんの特定できる場合だけ。) で、教室で、のりの良い生徒相手にわおわお騒いで職員室に戻ってきて内容を話すと、「それを知って何の意味あるの?」と言う顔をされることもあって、がっかりする。 私はそうとうな効率主義者だから、真の実力につながらない「無駄」は決してしないのである。よって、エセ効率主義者か

    大発見発表の場の授業 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/06/14
    「「私の大発見」を人に伝える時というのは、「気づいたんだぞ、すごくないか?」と「あなたひょっとして私と似てませんか?」の両方の目的があるような気がしますね。」
  • ○○大学○○名合格 - 考えるのが好きだった

    特に全国規模の塾や予備校のパンフレットを見ると、難関大学などの合格者が「○○名合格」と人数が出ている。 でも、と思う。 これって、「合格者数」ではなく、「受講者中の合格者の割合」で表したら、どうなるのだろう? ほとんど宣伝には使えないだろうな、と思う。 違うかな? 塾などの私企業は、100人集まって、そのうちの2,3人がかなり良いところに合格したら、それでけっこう「元が取れる」レベルになるのだろうか、と思ったりするが、真実はいかほどのものなのだろうか?

    ○○大学○○名合格 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/06/02
    お察しの通り、小規模の塾では合格率を謳うこともあります。始めから戦略が違うのですよ。大手は地引網漁法が使えるから原石の数を謳ったほうが理に適う。(…というか今更だよな…。)
  • 「勉強」とアルキメデスが死んだワケ - 考えるのが好きだった

    授業をしていて感じていたのは、私が生徒に教えていることは、ヒトが生きていくのにホントに役に立たないことだということだ。英語であっても、数学でも国語でも、みんな同じだと思う。 「勉強は将来の役に立つから、必要だから、やる。あるいは、やらせる」「やっぱり学歴」など、学校の勉強に「意義」を見いだす考え方は多々ある。しかし、これらはすべて二義的なものであろう。一義的には決してそうではないとずっと感じていたその理由がわかった。 「日の文脈」で中沢新一が子供時代を思い出してアルキメデスが殺された理由を言っていたことだ。アルキメデスは、地面に向かって幾何学の証明に没頭していたとき、シラクサに攻め込んできた兵士に気づかず、兵士に向かって「もう少しで証明ができる。影が邪魔だからどいてくれ」と言ったものだから、そのままブスッと殺された。アルキメデスの場合、知性が現実世界での合理性や効率性を考えてなかったから

    「勉強」とアルキメデスが死んだワケ - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/05/05
    2. 「内観」と「現実世界」のどっちが楽しいかっちゅー話。「自分独自の世界を広げる」って、要は「妄想を逞しくする」に同義なわけで。内観に逃げてると褒められるなんて学生・生徒時代だけよね(笑)
  • 能力そのものを高める勉強をさせようよ - 考えるのが好きだった

    つくづく思うだが、イマドキの子供の勉強方法は、自分の能力を高めることを考えてないのではないか。 元凶は、「効率よく」「無駄のないように」「ラクに」「労力がかからないように」(←ほとんど同語反復)という今風の思考法である。もっとも、能力を高めるための物の「効率の良さ」はある。しかし、一般に言われる「効率の良さ」は能力を高めないことが問題だと思うのだ。 たとえば、学習に付きものの覚える能力、記憶力について考えよう。 たぶん、記憶力を高めるにはどんどん覚えていくことが大事だ。体力を付けるためには体力を使わなければならないのと同じではないか。ロンドンのタクシー運転手の海馬は年を取った人の方が大きいそうである。道を覚える経験の蓄積ゆえである。 学校の勉強では、学習事項に関して、試験に必ず出題される「今すぐに覚えるべき知識」と「今は必要ないかもしれないがいずれ必要とされるかもしれないし、必要でないか

    能力そのものを高める勉強をさせようよ - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/05/03
    (実践例が必要だろうなあ。偏差値30の子に、80の子と同じ教育をして成功した事例が。…大衆が信じるためには。)
  • 学年別の指導 - 考えるのが好きだった

    こんなだと、「使いこなせる英語の習得」という観点でけっこう効果的に勉強出来るようになると思っている。まあ、やってくれればの話。今はこんな風にやってないから、ついつい書いてしまう。(笑) 1年生・・・徹底的に授業重視。教科書の表現、単語等を含め、全部覚える(努力をさせる)。習得すべき事項にえり好みさせない。全部覚えきれるわけがなくても構わない。(というか、「全部出来る」という幻想を取り除かせるのは早いほうが良い。) 文章読解(論の流れ)の基を捉えさせる。(3年生まで、すっと。) 英文は主語+動詞の重要性、動詞の用法に目を向けさせる。 構文集を持たせ、例文を覚えさせる。というか、英語の勉強では文を意識することが大事だという認識を持たせる。(なかなか覚えない。) 2年生・・・ライティングの授業を大事にする。文法問題をさせてお茶を濁すのではなく、教科書の例文を構文集の文と関連させて覚えさせ、作文

    学年別の指導 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/03/10
    やってることのノウハウ的なものを書かれるとは珍しい。
  • 形態だけが新しい授業 - 考えるのが好きだった

    英語の授業が英語で」など、授業を変えることが推奨されているようだ。若い先生が頑張って、人も受けたことがない積極的な活動が豊富な授業を行った。形態的には新しい授業である。 「良い授業」だと言えば言える。生徒も活発である。定期試験も、おそらく彼らは(それなりに勉強をすれば)出来るだろう。 しかし、と思ってしまった。 やっている内容は、文法項目に関わる事項の予習プリント、内容読解、それも主としてQandAに関わる読解である。新しい物は何もないのである。見方を変えると、活動が重視されているせいで、生徒が間違えやすいところなどの教授がおろそかになっている。唯一新しいのが「やり方」だけだというものだ。 疑問に思った。新しいカリキュラムは、授業形態が変わることをだけを求めているのだろうか。それとも、教えるべき内容を変えようとしているのだろうか。(どっちも同じだという人は、論外。また、活動することその

    形態だけが新しい授業 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/03/10
    清涼飲料や車のモデルチェンジと同じ。機能としてはすでにベースができてしまっているから。
  • can-doリスト - 考えるのが好きだった

    Can-Do List を作れという話があるらしい。 で、たぶん、リストの内容は、単語だったり、表現の数々だったり、場面設定の状況で、何々ができる、何々をする、というのが、ふつーの英語の先生が考えるこの類いのリスト項目だろうと、思ったりする。 でも、私は、こんなことをしていると、大事な物を見失うと思う。 今の生徒の学力があまりに低いから、たぶん、そのレベルの「底上げ」を図るために作成し、実行するように促されているのがこのリストだろうが、たぶん、この発想をする人は、申し訳ないけれど、数学が(少なくとも私より)出来ない人だ。 英語の先生は、特に、英語の達人のような先生は、非常に多く、数学ができない。 「英語を教えるのなら数学が出来なくても構わないじゃないか」とおっしゃるかもしれないが、そこんところはちょっと違う。 英語「だけ」がものすごくできる方は、たいてい、極端な語学の才能、言語学的な才能に

    can-doリスト - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/02/09
    「CAN-DOリストは、つまるところ、おそらくは、ホテルのレセプション英語を目指すところなのだろうな、と思ったりする。で、そういう英語を求めると、それ以上の英語能力はなかなか育たなくなる。」
  • わかって満足症候群 - 考えるのが好きだった

    ほり先生と内田先生を理解できてます? (わど) 2012-02-08 00:28:02 >授業もわかりやすいと良い評価を受ける。 うえの引用は代表的とみなした部分にすぎませんが。こうした”風潮”にたいしては、以前に内田樹先生も少し一般化させた形で警鐘をならされていたと記憶します。 こちらの高校時代とは、ずいぶん変わってきているのでしょうか。と申しますのは、これと定めた先生の授業をひとことも聞き漏らさない構えで、それこそ必死になって理解しようと努めたからです。「これと定めた先生」の部分に、ほり先生は眉をひそめておいででしょう。だけども当時の自分と数少なかったかも知れない仲間たちには、やむを得ない事情もあったのです。 「必死になって理解しようと努めた」理由は単純でした。自学自習しても理解が及ばない大きく大切な部分を、いつも裏切らず飛び越えさせてくれたからです。このあたりの事情は、ゴテゴテと細か

    わかって満足症候群 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/02/08
    同じ「わかりやすさ」を求めるのでも、わかったその先(の体得の過程等)へ早く行きたいから求める場合と、危機感の緩和のためだけに求める場合とがあるよね。(後者が多いという話に私はほり氏ほどには関心はない)
  • 階層的な思考法 - 考えるのが好きだった

    この間、落合(監督)がテレビで、良いことを言っていた。野球は、投げて、打って、捕る(守る?だっけ?)だけだ、とか何とか。私は野球のことは何も知らないのだけど、これって、至言じゃないのかな。「打つ」に関しては、球の芯にバットのスイートスポットを当てる、ということだろう。打てない、というのは、これが出来ないのだ、たぶん。 野球をやっている人は、たぶん、「言うのは簡単だが、実際にやるのは大変だ」とおっしゃるだろう。それはそうだと思うが、私は、実現がどんなに困難であろうと、野球の基が「投げる、打つ、捕る」にある、と捉えることこそが、長い道程の大きな道標になると思う。 勉強の「投げる、打つ、捕る」は、階層的な思考法だと思っている。単純な原理である。でも、これが、数学だの、国語だと、英語、理科、社会、と姿を変えると、まるで「別もの」に見えてくるから、たいていは余計なことを考える。でも、経験的に、頭の

    階層的な思考法 - 考えるのが好きだった
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    heis101 2012/02/05
    「いくら甲子園を目指そうにも、「投げる、打つ、捕る」の基本から離れることは出来ない」「どんなに必要性に迫られてやっても大して能力が伸びないのは、きちんと勉強の「投げる、打つ、捕る」をしてないからだ」
  • 集団指導よりも個別指導のワケ - 考えるのが好きだった

    イマドキは「個別指導」花盛りである。 塾は個別指導の塾が人気あるようだ。学校も、(たぶん)「個性」が入り込んできてからというものの「個別指導」が効果的だと考える人が増えてきた。生徒もそれを望む者が増えてきた。 個別指導をすると、指導者に「良いこと」がある。「先生のおかげで合格できました。」そうでなくても、「先生、ここを教えてください」と生徒が寄ってくるのは、快感なのである。承認欲求が満たされるからだろう。 しかし、だからといって、生徒が力を付けるとは限らない。 「いや、個別指導で伸びる生徒は多い」と反論される。そりゃ、当たり前である。指導はないよりあった方が良い。 ところが、問題はここからである。 「学校の先生」の数は限られている。これは、指導に掛けるエネルギー総量も限られていると言うことだ。すべての生徒に個別指導をすることはできないのである。 これが問題である。 個別の生徒の指導に掛けら

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    heis101
    heis101 2012/02/05
    「習熟度別指導は一人でも到達できるレベルを目標に据えることになってしまうが,教師や仲間の助けがあって到達できるのはもっと高いレベルである」「佐藤学」
  • 珍しく英語 - 考えるのが好きだった

    先日久しぶりに会った教え子(と言っても、実際には一度もその子に授業をしたことがないような気がするなぁ?笑)の大学院生に「私は文法の授業では、自分の文法を作れ、と言っている。」と言ったら、「高校の先生でそういう人は珍しいんじゃないのか」と言われた。以下、そのときに話した内容ではないけど。 I found a ball under the table.と言う文は、普通は第3文型とされる。いわゆる五文型では、そうせざるを得ないからだ。でも、私は、実は、高校生の時から、ずっと疑問に思っていた。(で、今もそうなんだけれどね。笑)だって、I found the book interesting. と一体どこが違うというのだろう? The book is interesting. であるなら、The ball is under the table. だもの。しかし、もちろん、前者は第2文型だし、後者は、

    珍しく英語 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/02/01
    たぶんこの辺りのセンス、「I found a ball under the table.はI found the book interesting. と一体どこが違うの?」と思ってしまうようなセンスが、ほり流英語統語論の肝の一つとしてあるのだと思う。
  • 70点を目指させる教育は偽物だ - 考えるのが好きだった

    2日ほど前だったか何も事件が起こらなかった日のようで、NHKのニュースが中学受験の塾の様子を映していた。塾の先生が子供たちに語った指導内容は、「70点で合格できるのだから、難しい問題には手を付けないで、出来る問題で点を取れ。」というものだった。 いつだったか、京大理学部の先生が、近年の入試の数学の答案で、中間点ばかりで点を稼ごうとするものが増え、新傾向の出題にチャレンジしない答案が増えた、と嘆いて書いていた。 私は同じことだと思う。 今の子供たちの学力が低下している要因の中でかなりを占めるのが、私はこの思考法、「難題にはチャレンジしない」、言い換えて、「自分の限界に挑戦しない」だと思っている。この思考法は、思念の番だけに限らない。 私が関与する定期テストにおいても同様なことが言える。試験勉強においても、生徒は最初から「自分に出来そうなこと」と「出来そうにないこと」を区別して「出来そうなこ

    70点を目指させる教育は偽物だ - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/01/22
    難題という概念がそもそも相対的。普通の老人がいきなりフルマラソンに挑戦することは難題への挑戦というよりただの無謀。殆どの12歳の児童にとって、難関中学の入試で(特に算数で)満点を狙うのはかなり無意味。
  • 今までと全く違う異質な子供たち - 考えるのが好きだった

    理由はわからない(わけでもないけど)。 タマタマそうなのかもしれないが、それでも、やはり、今の高校生世代の特徴ではないかと思う。だって、予備校の先生が書いているブログに私が見聞きするような学生の様相が書かれているのだから。 特徴1 勉強をすることはソンすることだと思っているフシがある。 特徴2 覚える量を極力減らす。見事である。英語では似た表現がいろいろ出てくるものだが、自分が知っている表現と似た表現は覚えようとしない。勉強をする際にも、新しいことを学ぶよりも、すでに自分が知っていることでやりくりしようとする。 特徴3 字が極めて汚い。判読不明な文字から、判読できないわけではないが、区別が付きにくい文字を書く。注意をしても直そうという気が全くない。 特徴4 自分が必要と思うか不要と思っているかに極めて敏感である。必要と思えばやるが、必要性を感じなければ全く自分の意識の外。 特徴5 「頑張る

    今までと全く違う異質な子供たち - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/01/18
    「ただ単に、「後をなぞる」だけの体験ではなく、常に、自分自身も昔の人と同じように、発見を続けていくことだと思います」「で、ほりの場合は、英語の語学的な学習については、「自分の文法を作れ」と言ってます」
  • 教養人を目指さない今の英語教育 - 考えるのが好きだった

    「ネイティブの子供たちが英語を覚えるように覚えさせよう。そのためには、読んだり書いたりするより、聞く、話す活動が重要だ。」 たぶん、こうした考えに多くの人が賛同し、「コミュニケーション活動」を主体とする今の中学英語が始まった。 これを良しとする方々は、「プルーストとイカ」の132ページ「書物がもたらす豊かさ」を読むと、大いに後悔するでしょう。このには以下のような内容がある。 まだ読むことが出来ない5歳児であっても、「読み聞かせ」で育った子供と対照群では、大きな差が出たという。書物には、音声言語にはない表現が数々あるので言語発達のあらゆる側面が豊かになっていくのだ。誕生日の個人的な出来事を語らせた際、前者は対照群に比べて洗練された統語形式や言い回し、関係詞節まで使ったという。 ここで少し注釈を加えたい。 「関係詞節まで」はの表現そのままである。ということは、ネイティブである筆者ですら、幼

    教養人を目指さない今の英語教育 - 考えるのが好きだった
    heis101
    heis101 2012/01/08
    奥ゆかしいですなあ。統語と言う(英語の)先生を他に知らないので驚いている(まあ掘り下げていけば十中八九いつものほり節の二番煎じでしょうけれど(笑)。「こうした文法、もっと言うと、「統語」を」