90年代後半から2000年代にウェブ制作を経験した者なら『とほほのWWW入門』と聞いて、ピンと来ない人はいないだろう。同サイトは、HTMLやJavaScript、Ruby、Pythonなどの基礎知識が学べる、ウェブ制作初心者にとってはバイブルのような、とてもありがたい存在だ。サイトが開設されたのは1996年。国内でインターネットが普及し始めた初期からある老舗サイトで、お世話になった人も多いはずだ。 2016年10月を最後に更新がされていないようだが、それでも20年間コンテンツを出し続けるのは、かなり大変なことだったのではないか。同サイトの管理人・杜甫々(とほほ)さんは、いったいどのような人物なのか。サイトを開設したきっかけやインターネット初期の空気感などについて、話を聞いた。 「とほほのWWW入門」管理人・杜甫々さんとは? ――今回は取材に応じていただき、ありがとうございます。杜甫々さんは
1910年代終わりから1920年代初め、アルコールの禁止によって、ロシアの戦線の兵士の多くがモルヒネ・ベースの痛み止めを打ち、中毒者の数が急増した。 イギリスのドラマーシリーズ『ヤング・ドクター』。原作はミハイル・ブルガーコフの短編集「若き医師の手記」=Kinopoisk.ru ミハイル・ブルガーコフの短編小説「モルヒネ」(1926年)は、病気になってモルヒネを注射した後に、深刻な依存症になった、地方病院の医師の話。医師の生活はすぐに崩壊し、依存症から抜けることができず、銃で自殺を図る。ブルガーコフは物語の状況を良く知っていた。自身が1917年から数年間、モルヒネを使用した医師であった。これは珍しいケースではない。 戦争と麻薬 皇后アレクサンドラ(中央)と娘たちが、ツァールスコエ・セローの病院で兵士を慰問=タス通信 第一次世界大戦(1914~1918年)とロシア革命(1917年)の時代、モ
参道沿いに樹齢千年以上の杉木立が続き、蝉時雨(せみしぐれ)が降り注いでいた。和歌山・高野山の奥の院。7月20日朝、ビルマ(現ミャンマー)のパゴダ(仏塔)を模した「ビルマ方面戦没英霊納骨塔」の前で、竹中直樹(95)=京都市北区=は約80人の参列者とともに、静かに手を合わせた。 塔には、第二次大戦中にビルマで戦没した日本将兵の遺骨が分骨されている。高野山で営まれる慰霊祭は今回で49回目。毎年参列している竹中は、強い日差しが照り付ける参道を、つえをつきながら一心に歩んだ。 「みんなあそこで死んでしもうた」。ちょうど70年前、陸軍第15師団(通称・祭(まつり)兵団)歩兵60連隊の兵士だった竹中は、ビルマの山地を歩いていた。「(中国大陸では)負けること知らんかったから喜んで行ったら、とんでもない所やった。地獄やった」。竹中は、大戦で最も無謀といわれたインパール作戦からの数少ない生還者の一人だ。 □
長男以外の人間は、結婚もできず、世間との交流すら許されず、死ぬまで家のために奴隷のごとく働かされる......。いったい、いつの時代の、どこの国の話だと思われるかもしれない。しかしこれは、日本に20世紀まで実在した「おじろく・おばさ」という風習なのである。 国土の7割が山である日本。山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。昔の長野県神原村(現・下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。 耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。そのため、家に残った下の子供は「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ、長男のために死ぬまで無償で働かされた。 家庭内での地位は家主の妻子よりも下で、自分の甥っ子や姪っ子からも下男として扱われる。戸籍には「厄介」とだけ記され、他家に嫁ぐか婿養子に出ない限り結婚も禁じられた。村祭りにも参加できず、他の村人と交際することも無か
昭和天皇の末弟で、今上天皇の叔父にあたる三笠宮崇仁親王が、昨日27日、心不全により逝去した。享年100歳だった。一部メディアは、崇仁親王の先の戦争に対する反省の念や、戦争反対への思いなどを伝えているが、その発言は、マスコミが報じている以上に踏み込んだものだった。崇仁親王は、いまこの時代を支配している右傾化に対して、早くから警鐘を鳴らしてきたとさえ言える。 それを象徴するのが、右派の“南京大虐殺はなかった”という歴史修正主義に対する強い批判だろう。 1915年生まれの崇仁親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書き、日本の侵略主義を批判したのだが、その文書が発見された1994年には、月刊誌のインタビューで“南京大
1)古代・中世の捨子捨子の歴史は古い。人類史においていつ捨子が始まったのか定かではないが、各地の神話や伝承にも捨子のエピソードが語られることから、おそらく有史以来、嬰児遺棄の習俗は行われていたと考えられている。エジプト王はイスラエル人に男子が産まれたらそれを川に捨てるよう命じていたと旧約聖書はいい、ローマの建国者ロムルスとレムスは生まれてすぐに母に捨てられたとプルタルコスは語る。日本の国生み神話も産まれた子ヒルコを捨てることから始まる。 日本では古代から中世にかけて子を捨てることに対して罪悪感は薄かった、と考えられている。特に障害児は前世の因縁を理由として「鬼子」と呼ばれ捨てられることが多かった。一方で障害児は「福子」として家に福をもたらすとして大事に育てられたという習俗もあり、穢と聖の二面性を持つ存在であった。他、双子の片方も捨てられることが多かったという。また、困窮を理由とした捨子――
士農工商はただの身分分類だった 昭和の時代。僕が神童とよばれ学問にいそしんでいた頃、日本史の授業ではこんなふうに教わっていました。 「江戸時代には士農工商という身分制度があり、武士が一番上、年貢を納めさせる百姓をその次、工業や商業という職業従事者より上に据え置くことで様々な不満から目をそらせていました」たしかこんな感じ。 昨日とあるサイトさんにうちのブログを紹介していただいたんですけど :::::HK-DMZ PLUS.COM::::: その中で同じように並んで記事で目に止まったものが。たまにこういう知らないサイト見ると面白いよね。 www.edojidai.info 士農工商という身分序列はなかった そもそも農は農業の人だけではない 工業という職業概念もない 武士より偉い商人もいる←それはわかる 医者は偉い えええ、それはしらなかった。勉強した時の教科書と内容がだいぶ変わってるんですね。
「お世話になりました」(伊能忠敬) 江戸時代に17年かけて全国を測量し、日本最初の実測地図を完成させた伊能忠敬を支援した約1万2000人の名前が伊能忠敬研究会によりデータベース化され公開された。支援者の子孫が保存・伝承している未公開史料発掘とともに、顕彰を進め交流の場とするのが狙い。 伊能忠敬(1745年~1818年)は1800年から1816年に北海道から九州を歩き測量している。その際に全国各地で測量に協力したと思われる宿の提供者や案内人など、測量日記28巻に記載されていた人名を都道府県別、市町村別に日にちを追ってデータベースに表示した。 北海道を検索してみると……子孫の方いませんかー! 研究会では「測量は幕府の理解、受入れた諸藩、町村の膨大な協力により完成されたものであって伊能隊のみの成果ではない」として、没後200年に当たる2018年秋に関係者の子孫らの交流顕彰発表会を行うとしている。
ココがキニナル! 昭和初期の磯子は、景色や地の利の良さで訪れる人が増え、料亭が軒を連ね芸者さんもたくさんいたそう。大人の歓楽街としての写真とか、その名残の建物などは残っているのでしょうか。(エルコラソンさん) はまれぽ調査結果! 磯子は昭和以前から花街が形成され、昭和30年代半ばに最も隆盛を誇ったが、時代とともに消滅した。その跡をとどめるようなものは残っていない。 磯子には花街があった はまれぽではこれまでも「花街があった開発前の『上大岡』の歴史について教えて!」あるいは「花街として栄えたころの『鶴見三業地』を徹底調査!」といった記事の中で、横浜にあった花街について取り上げている。 そして今回は大正、戦前、そして昭和30年代ごろまで磯子にあった花街を調査されたし、とのご依頼である。 JR磯子駅 現在はJR根岸線をはさんで工業地帯となった磯子の街に、その昔潮風と波音を背景に三味線の音が鳴り響
去る4月25日、群馬県勢多郡富士見村の羽鳥家菩提寺の珊瑚寺において、日本統治時代の「最後の台南市長」として今でも台湾の人々から尊敬されている羽鳥又男翁(1892年~1975年)の胸像除幕式が行われた。 当日は朝から生憎の雨模様だったが、今年、開創1200年を迎えた天台宗の名刹でもある珊瑚寺には、羽鳥又男翁令息で三男の羽鳥直之氏やご家族、次男故羽鳥道人氏のご子息夫妻をはじめ、羽鳥又男顕彰会(関口隆正会長)などの関係者が続々と集まり、台湾駐日代表処からは李世昌文化部長、本会からは柚原正敬事務局長や早川友久前青年部長、群馬県の会員の須田雅江さんなども参列し、総勢60名ほどとなった。 羽鳥又男翁の胸像は、アーチ形に桜の枝が覆う地蔵堂に続く参道の左側に設置され、羽鳥忠男・元富士見村教育委員会委員長の司会により予定通り10時から始まった。まず胸像を覆っていた幕が羽鳥直之氏や関口隆正(せきぐち たかのぶ
どうも、服部です。昭和30年代を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」や、その続編「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の頃は本当に良い時代だったのか、当時のニュース映像で検証した前回記事「『これ本当に日本?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1」の続きです。 前回記事では、鉄道事情・道路事情・タクシーやトラックの運転マナー事情を見て、交通事情に関していえば、昭和30年代は良い時代ではなかったかもしれないと結びました。 今回の記事では昭和30年代の住宅事情、治安、衛生面について書きたいと思います。 ●【住宅事情】引っ越したいけど引っ越せない、超格差な住宅事情(昭和31年) 「大都会を空から眺めますと、立て込んだ家の間にアパートの集団住宅が目立つようになりました」というナレーションでニュース映像は始まります。田んぼや畑が広がっていて、現代に生きる者には、ちょっと大都会には思えませんが……。 団
半年くらい前の話だ。新宿紀伊国屋の地下でカレーを食べていたら、汚れたジャンパーのおっさんが隣に座った。そして店のおばちゃんに向かって言った。 「お前、愛想悪いな。外国人か?」 おばちゃんが中国人だと答えると、彼は「国に帰れ」と言い捨てた。凍りつく店内の空気をものともせず、おっさんはおばちゃんに口汚く絡み始めた。 「いい加減にしろよ、おっさん」 私は思わず、言ってしまった。 「こっちはメシ食ってんだ」 おっさんは顔を真っ赤にして、三国人がどうのと説教を垂れ始めた。私は流し込むようにカレーを平らげて店を出た。あのおっさんの疲れきった灰色の顔が、今でも忘れられない。 ◆ たぶんあのおっさんは、豊かではないのだと思う。 誇らしさとか、満たされている感覚とか、そういう「豊かさ」を得にくい生活をしているのだと思う。貧しさは外国人排斥の感情にかんたんに結びつき、たぶん、戦争をしたい「気分」のようなものに
~二次加害者とならないために~ 日本人慰安婦の話と、元日本軍慰安婦に関する正確な知識 2015.1.14 【日本人慰安婦の話~橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより) 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。 あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。 従軍慰安婦というのはもう60年以上前の、つまり半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。 これでいろんなメディアが昔を語るという、終戦記念日に近くなると、よく昔の焼け跡だとか兵隊さんの話とか色々なものを聞いて、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。 でも従軍慰安婦の人たちというのは、直の話を聞けないんですよね。 そして聞けるのは大体、韓国と中国の従軍慰安
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