徴側は交阯郡麊泠県(現在のハノイ市メリン県)の有力な貉将(地域の軍事指導者)の娘[2][3]として生まれ、朱䳒県(現在のソンタイ)の有力者であった詩索(ベトナム語版)の妻[2][3][4][5]であった[6]。徴弐の出生地は伝わっていないが、姉と同様であると考えられる。 南越国滅亡後に前漢の支配下に入った交阯郡では、それまで貉将および貉侯(地域の領主)が有していた税の徴収権が漢側へと移されていた[7]。当時、交阯を支配していた後漢に対して、現地の有力者の家系であった徴側[注 1]が取り纏める形で、徴税権を貉将・貉侯側に戻すよう通告した。 当時の交阯太守であった蘇定(中国語版)の悪政もあって、建武16年(40年)3月には交阯刺史部内の合浦・九真・日南[2]各郡65県の貉将・貉侯がこれに賛同した[7][注 2]。妹の徴弐も加わって、徴側は自ら女王として「徴王」を称し[2][3][5]麊泠に本拠