もう二十年以上昔の話になりますが、実はファミコン時代にはサードパーティ、すなわち任天堂及び任天堂直下の会社以外は年間に出すソフトの本数に制限が加えられていたというのをご存じでしょうか。これは任天堂の方針で、供給過剰や粗製濫造を起こさせないための対策だったと言われています。 しかし、ファミコンに早期から参入したサードパーティは、その初期ライセンス企業の優遇処置として本数制限なし、自社ラインで生産可能等といったメリットがあったようです。その対象企業はハドソン、ナムコ、タイトー、コナミ、カプコン、ジャレコの六社。 そのうち、ナムコはその特権で他社の制作したソフトを自社のブランドで出し、ライセンス料をもらうという方法を始めます。 この後、これの問題から優遇処置打ち切り、そして裁判沙汰にまで発展して、任天堂とナムコの関係が悪化していったと言われています。ちなみにこの時のゴタゴタが後を引いて、ナムコを
異世界召喚・転移・転生ファンタジー小説の歴史 日本の異世界(異界)へ行く物語の歴史は、1820年以前よりもさかのぼれます。平田篤胤ののこした『仙境異聞』は仙界で暮らした少年の話をまとめ、宮地水位が記した『異境備忘録』は神界や魔界への旅の記録をのこしています。これらはファンタジーというよりオカルト的要素が強く出ています。 異世界召喚ファンタジーといえば、高千穂遙さんが1979年に書いた『異世界の勇士』が有名です。高校生の主人公リュージが異世界へ招かれて災厄を救う物語です。また、半村良さんの『亜空間要塞』(1974年)も異世界転移作品といえるかもしれません。 1991年ころから、不安定な社会情勢を背景に、異世界へ行く物語が増えはじめます。しかし以降、現代世界から異世界へ行く召喚・転移ものはなりをひそめ、異世界を舞台にした異世界の物語、異世界ファンタジーが隆盛しました。 そして2011年。ネット
404 NOT FOUND 指定されたページかファイルが見つかりません。 指定されたページかファイルは削除されたか、アドレスが変更された可能性があります。 MANTANWEBトップページへ戻る
平家物語の音楽その1 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!? ─ 本稿は、2012年京都市立芸術大学音楽学部オープンスクールで催された日本伝統音楽特別講座(10月13日、於大学講堂)の講演内容に一部加筆して掲載するものです。2011年オープンスクールでの「源氏物語の音楽」に引き続き、本年度(2012)は平家物語に描かれる雅楽の演奏シーンを取り上げました。曲目は平家物語の小督局(こごうのつぼね)が弾く〈想夫恋(そうふれん)〉と、平重衡が奏でた〈皇麞急(おうじょうのきゅう)〉です。レクチャーに加えて、京都市立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程在学生有志と京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター教職員有志による平安末期・鎌倉期の雅楽譜にもとづく再現演奏も行いました。 プログラム 想夫恋(そうふれん) ~こんにちのスタイルによる~(拍子二まで) 想夫恋(そうふれん) ~平安時代末期・鎌倉時代の古
アンパンマンの作者としても有名なやなせたかしだが、このブログでも一度取り上げたことがある。「[書評]93歳・現役漫画家。病気だらけをいっそ楽しむ50の長寿法(やなせたかし)」(参照)である。表題にあるようにこの本は93歳の長寿法である。やなせさん、100歳まで生きるんだろうなと思っていた。が、94歳で亡くなった。それでも天寿と言ってもよいのではないか。 年齢を見ると大変なお年のように思うが、生年で見ると、1919年(大正8年)。コラムニストの山本夏彦が1915年生まれだからそれより4年は年上。山本七平は1921年生まれで、やなせより3年、年下。同じく漫画家の水木しげるは1922年生まれなので、山本七平に近い。 彼らはそのあたりの年代。実際に大人として戦争を体験した世代である。山本夏彦は従軍していないが、山本七平はフィリピンで九死に一生を得ている。水木は左腕を失なった。 他、思い出すのは北京
コンピューターを使っているとアイコンを目にしない日はないほど、アイコンとコンピューターは切っても切れない関係にありますが、今日使われているアイコンに大きく寄与した人としてグラフィックデザイナーのスーザン・ケアさんが挙げられます。Apple社員として働いていたケアさんですが、彼女が一体何をして、どのようにアイコンの未来を切り開いたかについて、Priceonomicsがまとめています。 The Woman Behind Apple's First Icons http://priceonomics.com/the-woman-behind-apples-first-icons/ ◆グラフィカル・ユーザー・インターフェースの歴史 1984年にMacintoshが発売された時、シンプルで親しみやすいインターフェースが売りでした。しかし、このシンプルなインターフェースが完成するまでには歴史があったの
1945年、第二次大戦の終結とともに日本は降伏した。米軍率いる連合軍が国土を占領し、日本の社会はすべてにおいて劇的に変化した。日本は非武装化・解体され、経済や教育システムもたて直された。広島・長崎への原爆投下や、おびただしい数の空襲による破壊から立ち直るのに長年かかったが、1950年代までに、日本は戦時中の敵だった西側の同盟国となった。そしてアメリカ文化の一部が、日本の風景の一部となり、日本は家電メーカーとしての経済的基盤を見出し始めた。 海外サイトが特集した、1950年代の日本がわかる写真を見ていくことにしよう。 ■1. 1958年10月30日、日米で大流行したフラフープブームにのる、浴衣姿の若い日本女性。 この画像を大きなサイズで見る ■2. 1950年4月26日、戦争捕虜になっていた帰還兵たちを出迎える女性たち。元兵士たちは、抑留中に亡くなった戦友の遺灰を胸に抱えている。 この画像を
マイクロソフト、「MS-DOS」と「Word for Windows」のソースコード公開。コンピュータ歴史博物館への寄贈で 米マイクロソフトは、同社が1982年にリリースしたIBM-PC向けオペレーティングシステムの「MS-DOS 1.1」および1983年の「MS-DOS 2.0」と、1990年にリリースしたWindows向けワードプロセッサの「Word for Windows 1.1a」のソースコードを、米カリフォルニア州マウンテンビューにあるコンピュータ歴史博物館に寄贈したことを明らかにしました。 同時に、この2つの製品のソースコードが同博物館のWebサイトで公開されました。 MS-DOSは、IBMが当時開発していたPCのためにマイクロソフトが開発したOSで、同社がPCのOS市場で圧倒的なシェアを築く礎となったソフトウェア。 Word for Windowsは、Windows用のワード
作曲家・山田耕筰(こうさく、1886~1965)の歌声を収録した大正末期のSPレコードが新たに見つかった。自ら作曲した「関西大学学歌」の歌い方を示すために独唱したもので、「幻のレコード」とされてきたものだ。数多くの童謡の作曲者として知られる山田が、熱心な歌の指導者だった一面も示している。 東京都内在住のコレクターが昨年10月、東京・神田の中古店で見つけて購入。関西大OBを通じて大学側に伝えられた。1923(大正12)年ごろ録音されたA面のみの3分12秒で、山田がピアノ伴奏に合わせ学歌の全3番を歌い上げた。関大は音源をデジタル化し、インターネットで公開する準備を進めている。 音楽史研究家の郡修彦(はるひこ)さん(51)によると、山田の歌声が収められたレコードは関西学院大の校歌など5点ほど確認されている。ただ、いずれも昭和初期の録音で「大正時代のものは例がない」と指摘する。
3月15日。新宿ロフトプラスワンにて、『アイドル楽曲ディスクガイド』(アスペクト)の刊行を記念するトークイベントが開催された。 ハロプロ楽曲大賞、アイドル楽曲大賞の主催者として知られるピロスエ氏が編者となった「アイドル楽曲ディスクガイド」は、1950年代から現在の2010年代までのアイドルとアイドル的な女性歌手のシングル850枚+アルバム100枚の950タイトルのレビューを収録したものとなっている。 2010~12年からはじまり、50年代から2000年代までの歴史を振り返りながら、間に井上ヨシマサ、tofubeatsのインタビューを挟み、最後に2013年を振り返るというボリュームのある構成の本書を読むと、アイドルという概念がいかに幅広く、様々なものを内包していて、その全貌を捉えることがいかに困難なのかがよくわかる。 トークイベントは二部構成でアイドル史を振り返るものとなっており、ピロスエ氏
江戸末期の蝦夷地探検家・松浦武四郎が、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6つの案を提言。 先住民族のアイヌが自分たちの地を「カイ」と呼んでいたことから、6案のうち「北加伊道」を基本とし、五畿七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)になぞらえ、「北加伊道」に「北海道」の字を当てて命名された。 入り江の近くに、松の木が青々と生い茂る青森山があった青森市の市名を県名に制定 した。 その青森山の名前は、 (1)磯馴松(そなれまつ)が青々と茂った小高い森であったからという説 (2)アイヌ語で「ア(接頭語)・オ(高くなったところ)・モリ(突き出た丘)」を意味するという説 がある。いずれにせよ弘前藩が1624年に港を開いたときに青森と命名したことによる。
斎藤 きち(さいとう きち、 1841年〈天保12年〉[1] - 1890年〈明治23年〉3月27日[注釈 3])は、幕末・安政4年の一時期、初代駐日アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスに雇用された伊豆国下田の日本人女性。幕末開国後、外国人にかしずいた最初の日本人女性として喧伝され[2]、後年「唐人お吉」の異名で呼ばれた[3]。 一説による出生地に作られた「唐人お吉出生地碑」(愛知県知多郡南知多町) 1841年(天保12年)、伊豆国賀茂郡下田の坂下町(現在の静岡県下田市)で出生(月日不詳)[1][注釈 4]。父・市兵衛、母・きわ、姉・もと、弟・惣五郎の家族がいたことが判明している[1]。船大工の父が没し生活が困窮したことから1847年(弘化4年)新田町の老婆せんの養女になる。1855年(安政元年)芸妓になる[注釈 5]。翌年養母せん没により実家に帰る[5]。 玉泉寺に駐留していたアメリ
NHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」の今週火曜(3月4日)放送の第128回では、大阪大空襲のさなか、ヒロイン・め以子(杏)たちが地下鉄の心斎橋駅構内に逃げこみ、さらにはホームに入ってきた電車に乗ってより安全な梅田方面へ避難するという場面があった。そもそもめ以子が地下鉄駅に避難したのは、夫で大阪市職員として地下鉄建設にかかわった悠太郎(東出昌大)から渡された手紙に「地下鉄に逃げれば安全だ」と書かれていたからだ。 このエピソードは、実話にもとづくものである。1945年3月13日夜から翌日未明にかけての米軍による大阪大空襲(第1次)の際、街が火に包まれるなか、大阪市営地下鉄の心斎橋駅に避難してきた人々を救うべく、電車が梅田方面や天王寺方面へ運行されたというのだ。 もっとも、空襲下に地下鉄を走った救援電車について公式な記録は一切残っていない。というのも、戦時中の地下鉄は軍事輸送に使われることも多
1956年生まれ。テレビディレクター、映画監督、作家。ドキュメンタリー映画『A』『A2』で大きな評価を受ける。著書に『東京番外地』など多数。 森達也 リアル共同幻想論 テレビディレクター、映画監督、作家として活躍中の森達也氏による社会派コラム。社会問題から時事テーマまで、独自の視点で鋭く斬る! バックナンバー一覧 住宅地を少し歩く。細い路地を抜けると突然視界が開ける。異様な光景だ。敷地いっぱいに墓石が並んでいる。でも普通の墓石ではない。ほぼすべては高さ50センチメートルほどの小さな直方体(先端は少し尖っている)。台石は1枚だけ。すぐ足もとの墓碑には「陸軍歩兵加藤周一郎之墓」と彫られている。 大阪市天王寺にある真田山陸軍墓地。徴兵令が初めて発令された明治4年、当時の兵部省が設置した日本で最初の兵士の墓地だ。当初の面積は2万8040平方メートル。そして今は1万5077平方メートル。 ここには戦
知人の若い作家がネットで論争してるのをちらっと見かけて、最初は華麗にスルーしようと思ったのだが、めざとく見つけられて「お前はどうなんだ」と詰問されてしまった。論争のタネは「作品制作において模倣と独創とどちらが大事か」という話であって、なんとも壮大な問いである。私の答えは「まあ、どっちでもいい」という、なんとも締まらないモノだ。実際、私は以前に「西洋美術の歴史は壮大な二次創作の連鎖である」と書いたことがある。詳細を書くのは面倒なので、下記リンクを見て欲しい。ほぼ画像のみ、一目瞭然で言いたいことはわかるはずだ。 ヴィーナス http://d.hatena.ne.jp/higuchi1967/20130121/1358747160 この連鎖を見ていると、亡くなった十八代目中村勘三郎さんの「型があるから『型破り』、型がないのは『カタナシ』だ」という言葉を思い出す。伝統をまったく踏まえない表現という
唐突ですが、ちょっと時間的余裕があったので久々の文字起し。今回は1984年にNHKサウンド・ストリートの枠を1週間使い放送された「大滝詠一スペシャル’84」のうちHISTORY OF NIAGARAと題されたナイアガラの歴史を渋谷陽一司会で大瀧詠一氏が語ったものをアップしてみました。1984年6月20日に「HISTORY OF NIAGARA Part1('73~'76)」が翌21日に「HISTORY OF NIAGARA Part2('77~'80)」がオンエアされていますが今日はそのうちのPart1となります。 -------------------------------------------------------------------------------------------- 大瀧詠一(以下 大) ナイアガラの全作品が聴けるナイアガラの歴史、ヒストリー・オブ・ナイアガ
「ドリームキャスト」はおそらく、ゲーム業界でも最も輝かしい失敗だろう。米CNETの「Adventures in Tech」の最新記事(英語)では、非常に革新的だったが最終的には悲運に見舞われた、このセガのゲーム機を紹介している。また、ドリームキャストを称えることを目的に、同ゲーム機の見事な写真を集めたフォトギャラリーを作成した。 このフォトギャラリーで、セガの最後のゲーム機をさまざまな角度から見てほしい。そして下のリンクをクリックして米CNETのAdventures in Techを見れば、さらに懐かしい気持ちになるだろう。 「Sega Dreamcast, gaming's most magnificent failure」(英語) 提供: Andrew Hoyle/CNET
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