中国には「生態移民」という、わたしたちには聞きなれないことばがある。これは、ある地域の特殊な生態系を保護・修復するために住民が移住すること、あるいはその地域の生態系が崩壊したためそこに住めなくなって移住することを指すという。 中国は2000年から「生態移民」が進められ、計画としては西部地区だけでおよそ700万農牧民を移住させる予定だという。おもな対象は乾燥地域だが、北京にも山地緑化と砂嵐防止のための「生態移民」がある。 内モンゴルの「生態移民」については、いち早く日本のモンゴル学者が多くの論考を発表した(たとえば『中国の環境政策 生態移民』(小長谷有紀・シンジルト・中尾正義編著、昭和堂など)。 チベット高原では長江・黄河・瀾滄江(メコン川上流)という三大河川の水源地域が重点対象で、この地域を「三江源」と呼ぶ。全面積30.25万平方キロ(北海道と本州を合わせたくらい)。人口55.6万(北海道
チベット人プンツォク=ワンギェル(プンワン)は、いまどきの中国ではもちろん、日本でもめずらしくなったマルクス主義者で弁証法哲学者である。この人物は1950年代末に「地方民族主義者」として失脚、18年を秦城監獄で過ごし、のちに国家民族委員会副主任という閣僚級の地位を経歴した。 退職後は江沢民・胡錦濤両政権に民族政策とりわけチベット問題解決策をたびたび提案してきた。 わたしがおもうに、彼の提案が中共中央によって慎重に検討され、重要部分が採用されていれば、2008年3月のラサ事件(3・14)や、今年7月のラクイラ8ヵ国サミット直前のウルムチ事件(7・5)は起こらなかっただろう。したがってサミットを目前に胡錦濤主席が突然帰国するという不名誉なことはありえなかった(帰国は暴動そのものが原因ではなく、中央指導部のあいだに事件をめぐって重大な意見の相違が生れたからではないか)。 そこで以前紹介した彼の提
日本から、ダライ=ラマ時代について「中国公式筋がいうように、チベット政府は本当にあれほど過酷な政治をやり、農牧民はあれほど悲惨だったのか」という質問を受けた。 今年は「農奴解放50周年」という。中国国内ではチベット農奴制について多くの論説があったが、共通するのは、農牧民への抑圧と強収奪、土地への縛りつけ、生産の停滞、そして食うや食わずの生活という内容だった。 だが、25年前もダライ=ラマ時代は「農奴は毎年現物あるいは貨幣の形で収入の70%以上の地代を納めたほか、多種の重税と『ウーラ』と高利貸の搾取があった。人身の自由はなく、農牧業生産も発展できなかった」(『西蔵農業地理』科学出版社 1984年)という評価であった。 江戸時代はだいたい「四公六民」「五公五民」といわれたが、米以外の畑ものを勘定に入れるともっと負担は軽かった。なのにダライ=ラマ時代の収奪が「七公三民」とはひどいと誰でもおもうだ
■4月25日はチベット仏教の指導者のひとりであるパンチェンラマ11世の20歳の誕生日だそうである。ちなみに、パンチェン・ラマ11世は2人いる。一人はダライ・ラマ14世が、パンチェン・ラマ10世の転生とみとめたゲンドゥン・チューキ・ニマ 。もう一人は中国共産党が指名したギェンツェン・ノルブ(現在満19歳)。中国報道でパンチェン・ラマ11世として登場するのはこちらのノルブの方で、現在はもっぱら北京におわして、和諧社会だの三つの代表論だの中国共産党思想を学んでいらっしゃる。25日に誕生日を迎えるのは、ニマ青年の方である。 ■ニマは1995年5月14日、6歳のとき、インドに亡命していたダライ・ラマ14世から転生者として正式に認定されたが、その3日後に両親もろとも失踪。で、同年11月29日に中国当局はこっちが本物のパンチェン・ラマ転生者だと主張してノルブを発表した。翌年5月には、」中国当局はニマ少年
みどりごを殺す「正義」はありや? パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう 王力雄:チベット問題解決の鍵(1) 原文:http://www.weekmag.com/html/3706.htm 2000年7月 表面的には、チベット問題は歴史問題であり、1959年インドに亡命したダライラマと彼の10万人余りの追随者の問題である。しかし本当のチベット問題はチベットの外にあるのではなく、チベットの中にある。もし問題が亡命チベット人だけだとしたら、中国にとって脅威とはならない。国境の外でどれほど多くのデモが行われようと中には影響しない。たとえ海外でハンストや焼身自殺のような激しい抗議が行われても、「安定」のために自国の首都で数百人の庶民を射殺するような政府を動揺させられるだろうか? 海外世論はしばしば次のように北京に勧告する。「早くチベット問題を解決しないと、
オリンピックが開催されている北京で、 当局に監視されながら、中国語のブログで思いを綴り続けている チベット人女性作家ツェリン・ウーセル(中国名は唯色)。 →看不見的西蔵〜唯色 Woeser's blog ↓先日、中日新聞(東京新聞)にもインタビューが掲載された。 中国・チベット暴動 その後 チベット人女性作家 ツェリンウォセ氏(中日新聞、2008年8月17日) ↓あともうひとつ ただ独りのチベットの声、今なお語らんとす(ワシントンポスト@チベットハウスのHP) ここでは、彼女が記録した、2人のチベット人の証言を紹介する。 まず1人目。ラサから北京に逃げ、どこかの国へ逃げようとしているDZ(もちろん仮名)の証言だ。 原文は 在北京看見拉薩的恐懼(一)(2008.06.21) 英文は The Fear in Lhasa, as Felt in Beijing(2008.08
私は、イタリア語、フランス語、ドイツ語などの語学を勉強しています。この夏は、中国には帰省できそうもないので、アラビア語を勉強するつもりです。私の目標は30歳になるまでに中国語と英語以外に10カ国語をマスターすることです。 私が語学を学んでいる理由は、言葉は、理解の橋渡しになると考えているからです。中国とチベットについて言えば、より多くの中国人がチベット語を学び、チベット人が中国についてもっと学べば、2つの民族は、互いに理解を深め、現在の危機を平和的に乗り越えることができるはずです。一週間ほど前にデューク大学で起きた事件の後、私はより強くそう思うようになりました。 中国人とチベットを支持する抗議者グループの仲裁をしようとしたところ、私は板挟みになり、中国人から攻撃されるようになりました。抗議活動の後、ネット上で脅迫が続き、脅迫電話がかかってくるようになりました。状況はさらに悪化し、中国にいる
みどりごを殺す「正義」はありや? パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう これは、3月20日という情報封鎖の最初期での異議申し立てとして貴重である。指摘の通り、共産党が情報封鎖を続けた中国では、これ以降排外主義の嵐が吹き荒れた。いまも、共産党当局が国粋主義の方向を建設強国=富国強兵にそらしているだけで、問題は何も解決していない。 連岳:チベット情報論 (連十条) 2008年3月20日 1、権力が情報を封鎖しようとしたら、その権力者が悪いと仮定すべきである。 2、権力が本当に情報を封鎖したら、一層その権力者が悪いと仮定すべきである。 3、情報を封鎖した権力が一方的に流す情報は、偽物だと仮定すべきである。 4、すべてのゆがんだ情報について、情報を封鎖した権力が責任を負うべきである。 5、情報を封鎖した権力は、流布する情報を判定しうるいかなる信頼性も有し
Radio Free Asiaチベット語サービスのサイトにある証言集の4月分までの全訳。超長いです。要約しちゃうと短くなりそうだけど、そのままがいいと思い、全訳にしました。 What witnesses are saying(Radio Free Asia) ほとんどがチベット現地のチベット人・中国人に対する電話インタビューです。 記事は新しい順に並んでいます。見出しは勝手に付けました。 急いで訳しているので、細かいところでミスがあるかもしれません。 だいたい合ってると思いますが、あやしそうだったら原文を参照して下さい。 地名についてはチベット語・中国語の併記はしませんでした(原文でも統一されていません) 目撃者の証言 中国当局がチベットの都ラサを封鎖状態に置いている中、目撃者たちが各地に広がる抗議行動の報告を伝えている。ラジオ・フリー・アジア(Radio Free Asia)
ダライ・ラマ14 世がインドに亡命する契機となったチベット騒乱事件(1959 年)から49 年目の3 月10 日、約300 人のラマ僧がラサ市内でデモ行進の最中、警備当局に大量逮捕された。それをきっかけに事態は騒乱に発展、騒乱は中国・甘粛省、四川省などにも広がった。 中国の温家宝首相は3 月18 日の記者会見で「ダライ集団の策謀」と非難したが、ことはそう単純ではない。 テロを容認する青年会議派の存在など、亡命政府側の内部事情は複雑だ。チベット自治区党委書記の経験もある胡錦濤(国家主席)がトップの座にあり、高齢のダライ・ラマが柔軟路線を表明している今こそ、チベット問題解決の機会にすべきではないか。同問題の解決は、大国中国が世界に好意をもって迎えられるか否かの試金石である。 3 月10 日はチベット人にとって「抗暴記念日」である。ダライ・ラマがインドに逃れ、亡命政府を組織する契機となった195
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