メインコンテンツに移動 検索 すべて 本文あり 詳細検索 タイトル 内容記述 著者名 著者所属 著者ID 出版者 刊行物名 日付 巻 号 開始ページ 終了ページ DOI 各種ID 資源タイプ 出版タイプ 助成機関名 プログラム情報 機関 学位授与機関 学位授与番号 検索 並び替え
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葦手(あしで)を見るたびに、千年も前にこんな「日本語のデザイン」がなされていたことに驚く。 伝藤原公任(ふじわらのきんとう)『葦手古今集切』(11世紀中頃、→ 拡大写真) 「の」と「や」の部分を拡大したもの。 「葦手(絵)」について、伝藤原公任の『葦手歌切』を例に挙げながら、永原康史氏はこう書いている。 歌にかかわる文字の中には、絵になってしまったものもある。「葦手」である。「手」は女手などと同様、転じて書体の意味だと考えればよい。草仮名を葦の葉になぞらえたところからその名前がついたという。辞書には戯書きとも文字絵ともあり、「へのへのもへじ」などの文字遊びとの関連も指摘されているが、葦手の明確な説明はむずかしい。歌と文字と絵が一体になったもの、といえばいいだろうか。 葦手をとりいれた絵を「葦手絵」という。和歌や漢詩からとられた文字(葦手)は、水の流れや葦、岩、水鳥などその景の中にひそみ、絵
奈良県明日香村の石神遺跡で出土した7世紀後半の木簡に、万葉集に収められた和歌が、万葉仮名で刻まれていたことが森岡隆・筑波大准教授(日本書道史)の研究でわかった。 万葉歌を記した木簡は、万葉集編纂(へんさん)とほぼ同時期とされる滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)(742〜745年)跡から出土したものがあるが、それを60〜70年さかのぼる最古の例となる。飛鳥時代に万葉歌が詠まれていたことを示す貴重な物証。万葉集の成立を考えるうえで、画期的な発見となる。 木簡は羽子板を逆さまにしたような形で、長さ9・1センチ、幅5・5センチ、厚さ6ミリ。万葉集巻七に収められた「朝なぎに 来寄る白波見まく欲(ほ)り 我はすれども 風こそ寄せね」のうち、万葉仮名で左側に「阿佐奈伎尓伎也(あさなきにきや)」、右側に「留之良奈●麻久(るしらなにまく)」の計14文字が2行にわたって、クギのようなもので刻まれていた。
奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(し・が・らきのみや)跡とされる滋賀県甲賀市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、和歌でよく使われる万葉仮名が書かれた土器片が見つかった。市教委が22日発表した。同遺跡からは万葉集の歌が書かれた木簡も初めて出土している。当時の貴族が日常的に和歌をたしなんでいたことを示す資料で、市教委は「仏教色の強い都とされてきた紫香楽宮の性格を再検討する重要な発見」としている。 市教委によると、土器片は04年の発掘調査で、宮殿の中核施設「朝堂」跡の南側で出土した。長さ8〜3・5センチの破片を組み合わせた土器の裏側に、太い筆遣いで「歌一首」、細字で「伊毛」「乃古」と墨で書かれていた。 このうち「伊毛」「乃古」は漢字1字で1音を表す万葉仮名。「伊毛」は女性を示す「いも(妹)」、「乃古」は男性の意味の「おのこ(男)」の下の2字とみられる。「乃」の上にも文字が書かれていたが
やはり 木簡としては薄すぎるのが問題 だ。 木曜日は少し夜遅く帰ってきたのだが、 紫香楽宮跡と推定される滋賀県甲賀市信楽の宮町遺跡から出土した木簡の裏表に「歌」が書いてある のが、大きなニュースになっていた。昨日の大阪本社版朝日の朝刊では一面トップの扱いだ。 万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土 2008年05月22日 滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、国内最古の歌集の万葉集の歌が書かれた木簡が見つかったと発表した。万葉集収録の歌が木簡で確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に墨で書かれたとみられる。 万葉集の歌などが記された木簡=滋賀県甲賀市、諫山卓弥撮影 木簡は上下二つに分かれて出土し
今日から角屋本『源氏物語』の「末摘花」が一般公開されるので、早速「角屋もてなしの文化美術館」へ出かけました。JR丹波口駅から南へ歩いてすぐの所にあります。 ここには何度も来ています。しかし、これまでは、近世の島原の揚屋の文化を見るためでした。ところが、今日は、鎌倉時代の書写にかかるとされる『源氏物語』の写本を見るためです。 こんなことで島原に来るとは、思いもしませんでした。 角屋 入場料は千円です。自動販売機で購入し、チケットを渡して入りました。館内の解説があるとのことでしたが、今日は『源氏物語』だけを見て帰るつもりなので、そのまま展示場へ直行しました。 島原文芸資料室という一室に、≪源氏物語コーナー≫がありました。 入って右手のガラスケースに、『源氏物語』の写本が展示されています。 手前に、江戸時代中期『源氏物語』が54巻揃って展示され
(写真=巻物に仕立てた、桂本の複製) 読みやすかった『万葉集』の《文字法》 本来漢字のみで書かれた『万葉集』は、漢字平仮名交じり文に慣れた、私たちには、“読みにくい”ものに感じられます。そして、この“読みにくさ”を克服するために、平安時代に平仮名が発明され、これで和歌を書き記すようになった、と考えがちです。 しかし、果たしてそうであったのでしょうか。 先の記事「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(2)」「万葉集の文字法(3)」で、柿本人麻呂の時代に確立された、『万葉集』の《文字法》の特徴を、見てきました。この《文字法》は、歌の「ことば」一つ一つを、完全に表記するものでは、ありませんでした。 文脈がきちんとたどれるように、文の骨格に関わる助詞・助動詞は、しっかりと表記します。その上で、文脈によって、容易に捉えられる「ことば」は、思い切って表記を省略します。そして、漢字の視覚的印象を前面に
『万葉集』原本は1行16字詰めであったか 先の記事「万葉集原本のレイアウト」で、『万葉集』の原本が巻物であり、その本文が、界線(かいせん。罫線)に囲まれた枠中に書かれたことを推測しました。 果たして、『万葉集』原本は1行何字で書かれていたのでしょうか。それを推定するいくつかの手がかりがあります。 中国文化圏では、仏教経典・儒教経典・道教経典・法典・歴史書など正式な書物が、1行17字詰めで書かれたことを、まず想起したいと思います。その上で、次のような事実に注目したいと思います。 ① 漢詩文集である『文選』の敦煌本では、本文は、1行15字または16字詰めで書かれています。これは、正式な書物の字詰めを意識しながら、最も格の高い経典類と区別をするためのものと思われます。 ② 『万葉集』の最古の写本である桂本(平安中期写)の、漢字本文の字詰めも、1行15字から16字となっています(長歌は1行平均15
いま出ている『電撃「マ)王*111月号』から『狼と香辛料』の連載が始まった。このマンガの扉をみると「キャラクターデザイン:文倉十 作画:小梅けいと」と表示されているが、肝腎の原作者の名前がクレジットされていない。どうやら担当編集者の指定ミスのようだが、なんだか『狼と香辛料』の今後を暗示しているかのようでもある。 それはともかく、この号の巻頭ではちゃんと名前入りで原作者のインタビューが掲載されているが、そこで「アニメ、コミックには、先生ご自身が関わった部分はありますか?」という質問に対して次のように回答しているのが興味深い*2。 基本的に小道具や細かいところのチェックが主です。たとえばですが、うっかり『狼と香辛料』の世界では使われていないアルファベットが混じったりしないようにとか、そういったレベルです。(後略) ここで『狼と香辛料』の原作者が「アルファベット」をどのような意味で用いているのか
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