サーロー 節子(サーロー せつこ、英語: Setsuko Thurlow、1932年1月3日 - )は、広島県広島市南区出身[2]でカナダのトロント市在住[2]の被爆者[9]、反核運動家[10][11]。セツコ・サーロー[1][3]の日本語表記もある。 経歴[編集] 中村節子として[1]、広島市南区で生まれた。父はドイツ人の共同経営者とともにアメリカ合衆国(米国)カリフォルニア州で「西部フルーツ会社」を起業し果実業を営んでいた[1]。 広島女学院(現広島女学院中学校・高等学校)に進学、後に学徒勤労動員され、大日本帝国陸軍第2総軍司令部[12]で暗号解読作業の訓練を受けた[1][3]。正規の暗号解読助手になって最初の日である1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により爆心地から1.8㎞離れた同司令部で被爆、建物の下敷きになったが九死に一生を得た[1][3]。このとき8人の親族や多くの同窓