【第2回】はこちらをご覧ください。 東条英機の尋問 1947年12月26日、この日東京・市ヶ谷の法廷には、日本の新聞社はもちろん、AP、UP、フランス通信、タス通信など世界の主要通信社が記者とカメラマンを派遣して待機させていた。この日の午後から、東京裁判のいわば「主役」である東条英機の弁護立証と尋問がはじまることになっていたからである。 朝日文庫の『東京裁判〈下〉』(朝日新聞東京裁判記者団)によれば、東条は、いつもは色あせた軍服を着ていたが、この日はだれが差し入れたものか、「仕立て下ろしの緑がかった軍服」を着ていたという。 同書は「なんといっても戦争の最高責任者、全世界の耳目がひととき、このたぐいまれな独裁者、八千万国民の運命を、あの無謀な真珠湾の一撃に賭けた大賭博師の告白に集注されたのも当然であった」と書いている。 その東条英機は、1884年(明治17年)7月30日に、東京府麴町区(現在