ソ連に関するkodai795のブックマーク (319)

  • ナショジオが伝えたソ連の興亡、ロシア革命から崩壊まで 写真10点

    1991年2月、「ナショナル ジオグラフィック」はロシアの混乱を特集。アフガニスタン戦争から戻った兵士が苦しんでいること、宗教団体が復活していることなどを伝えた。写真はソビエト連邦がナチス・ドイツに勝利した日を祝う記念式典。45年前にソ連軍の司令官だった元軍人たちがレーニン廟(びょう)の上からパレードを見物している。(PHOTOGRAPH BY STEVE RAYMER, NAT GEO IMAGE COLLECTION) 2020 希望をつないだ1年 スマホの光を使って印象的な写真撮影、ナショジオ写真家が伝授 写真7点

    ナショジオが伝えたソ連の興亡、ロシア革命から崩壊まで 写真10点
  • 「日本のソルジェニーツィン」:ソ連の強制収容所で生き延び告発した日本人

    Alexander Solzhenitsyn House of Russia Abroad; Getty Images; Alexander Roschenko/ MAMM/ MDF/ russiainphoto.ru; ロシア・ビヨンド 作家・思想家の勝野金政(かつの・きんまさ、1901~1984)は、社会主義的ユートピアを信じ、最初はパリ、それからモスクワ、そして…あらゆる権利を剥奪されてシベリアの強制収容所に送られた。何万、何十万人もの囚人が斃れるなか、勝野は生き残り、スターリンの粛清システムの恐ろしさについて告発した世界最初の一人となった。 1930年代から1950年代にかけて、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの下で行われた、国家による粛清は、ソビエト社会を震撼させた。最も控えめな推算でも、78万6千人以上が粛清の犠牲になり、約380万人が刑務所や強制収容所で服役した。 悪名高き「グ

    「日本のソルジェニーツィン」:ソ連の強制収容所で生き延び告発した日本人
  • https://jp.rbth.com/cuisine/80677-roshia-no-heishi-no-shokuji

    https://jp.rbth.com/cuisine/80677-roshia-no-heishi-no-shokuji
  • 動画:「ボルシチ戦争」 ロシア・ウクライナ紛争の新最前線

    【12月8日 AFP】ウクライナのシェフ、エウヘン・クロポテンコ(Ievgen Klopotenko)氏(33)は、自分がロシアウクライナの紛争に巻き込まれるとは思ってもいなかった。 しかし、クロポテンコ氏は、ビーツとキャベツを使った伝統的スープ「ボルシチ」がウクライナ歴史的遺産だと認められるべきだと主張したことで、紛争の真っただ中に押し出されてしまった。 「ボルシチ戦争とは呼びたくないが、実際その通りだ」。名門料理学校ル・コルドン・ブルー(Le Cordon Bleu)を卒業したクロポテンコ氏は、ウクライナの首都キエフにある、自身の名高いレストランでAFPにそう語った。 クロポテンコ氏は、世界中のレストランが、いわゆるウクライナ料理を出すところでさえボルシチをロシアスープとしていることにうんざりしていた。 そこでクロポテンコ氏は先月、ボルシチをウクライナの無形文化遺産として国連教育

    動画:「ボルシチ戦争」 ロシア・ウクライナ紛争の新最前線
  • Скандальный матч в СССР. Судью прятали в душевой от фанатов

  • ロシアの名称は?ロシア以外にもいろいろあった

    ロシアはかつて、「要塞の地」、「地底の国」、「サルマティア人の土地」などとして言及されていた…。他にも名称はあったかな? 最初にはっきりさせておこう。ギリシア神話のヒュペルボレイオスや、ルーシ・カガン国のような、おそらくは一部の歴史家の頭の中にしか存在しない、過去の神話的国家については、ここでは問題にしない。この国がロシアとして知られるようになる前に、他の民族や国は、それを何と呼んでいたのだろうか?その歴史的実例を調べてみた。 1. ガルダリキ

    ロシアの名称は?ロシア以外にもいろいろあった
  • ソ連最大の新年番組「ゴルボイ・オゴニョーク(青い灯)」に関する10の事実

    ソ連の歌手たちはこの新年の歌謡番組「青い灯」に出演するために競い合った。人々は、番組が放映された後、1週間にわたって、友人や同僚たちとこの番組の内容を話題にした。そしてこの番組で歌われた曲は数十年にわたるヒット曲となった。 1.「青い灯」が初めて放映された後、番組には、憤慨した多くの視聴者から、大量の投書が寄せられた。その内容は「飲みながら歌うとは一体どういうことなのか?もしかしてウラズバエワは歌っていないのではないか?もしそうなら、彼女は一体どんな歌手なのか?!」というものであった。このような事態になったのは、ソ連の歌手、エリミラ・ウラズバエワが生放送で、口パクをしたからである。 ウラズバエワが歌う場面で、彼女はテーブルの方に歩いていき、座っていたゲストの1人が彼女のグラスにシャンパンを注いだのだが、彼女は一口飲んだ途端、むせて咳き込んだ。しかしこの間、歌は流れつづけたのである。このとき

    ソ連最大の新年番組「ゴルボイ・オゴニョーク(青い灯)」に関する10の事実
  • 背筋が寒くなるソ連アニメ3作:人生に絶望させてくれる実存的恐怖

    なぜ、たいていのロシア人は、むっつりと押し黙り、悲観的に見えるのか?ここに一つの解答があるかもしれない。それは彼らの子供時代にさかのぼる。ソ連時代のテレビは、死、喪失、そして無駄な試みといった実存的なテーマをもつ、実に不気味なアニメを放映していた。そのなかでもとくに重苦しいものをいくつか選んでみた…。 ソ連のアニメは巨大産業で、子供のための娯楽だけでなく、いわゆる「大人のためのアニメ」も生み出した。だが、「大人のための…」といっても、セックス、冒涜、アル中などはほとんど含まれていない。いや、そんな類のものとはぜんぜん違うのだ。 「大人のアニメ」の多くは、人間のようにしゃべる動物など、子供向けのテーマで始まるが、やがて重苦しいストーリーの展開を経て、暗い帰結に至る。しかも、そういう「大人のアニメ」には、放映時間が指定されていなかったため、あらゆる時間帯で放送される可能性があった。その結果、ア

    背筋が寒くなるソ連アニメ3作:人生に絶望させてくれる実存的恐怖
  • 1990年に秘密の美女コンテストで優勝した「ミスKGB」とは誰か

    1990年10月のある朝、ある女性の写真がコムソモールスカヤ・プラウダ紙の一面に掲載された。彼女の名はカーチャ・マヨーロワ。記事の写真を見る限り、若くて魅力的な女性だ。ただし物騒なポーズを取っている。手にしているのは拳銃だ。 見出しには「ミスKGB」とある。しかし、世界で唯一「保安機関の美女」という奇妙な称号を持つカーチャ・マヨーロワは、一体どのような人物だったのだろうか。 KGBの新たな顔  ミハイル・ゴルバチョフが、ソビエト政権の透明性を高める新政策「グラスノスチ」を敢行していたにもかかわらず、KGBは依然としてソ連で最も機密性の高い機関の一つであった。この強大な組織は、真面目で広く恐れられる情報機関というイメージで、不真面目なこととは無縁のようだった。 このため、KGB職員を若く明るい魅力的な女性として紹介する新聞記事を見たソ連の読者は驚いた。外国の特派員も、謎めいたミスKGBに関心

    1990年に秘密の美女コンテストで優勝した「ミスKGB」とは誰か
  • 秘密にされたソ連時代の核爆発演習 その演習の詳細を当時の参加者が語る

  • モイセイ・ナッペルバウムが撮影したソ連の有名人たち(写真特集)

    ロシア帝国の街ミンスク生まれたユダヤ人のモイセイ・ナッペルバウムは、地元の写真館の弟子となって写真家の道を歩み始めた。ここで彼は写真の撮影術と現像術を身に付け、まずモスクワに、次いでサンクトペテルブルクのメインストリートであるネフスキー大通りに写真館を開いた。 彼が最も象徴的な写真を撮ったのは1918年だった。革命家ウラジーミル・レーニンの肖像写真だ。以後20年間、彼は政治家から詩人、映画監督まで、ソ連の著名人の写真を撮り続けた。 ナッペルバウムはスタジオ写真のあり方を根的に変えた。厳格なポーズや構成は廃し、被写体を生き生きと、面白い角度から撮影した。光と影を巧みに使い、被写体の深い心理を写し出すことに成功した。 モイセイ・ナッペルバウムが写した最も象徴的な肖像写真をご覧に入れよう。 政治家ソビエトの最初の指導者、ウラジーミル・レーニン、1918年

    モイセイ・ナッペルバウムが撮影したソ連の有名人たち(写真特集)
  • ロシアでもっとも危険な植物のひとつを紹介しよう

    バイカルハナウド(ソスノウスキーのホグウィード)は一見したところ安全で害のないように見え、ディルに似ているからと言って騙されてはいけない。この悪魔のような植物の狙いは、人に泣き叫ぶような痛みを与え、場合によっては死に至らすことである。 ロシア人は夏になると、特別な防護服を身に着け、刃の鋭いスペード(踏みすき)を手に持ち、バイカルハナウド(ラテン名=Heracleum)に立ち向かう。このディルに似た巨大な植物は、命を危険に晒すだけでなく、文字通り道路ぎわから私邸の庭にもどこでも生長する。では、なぜそこまで危ないと言われているのだろうか? バルカンハナウドがロシアにもたらされた背景 第二次世界大戦後の困難な時期、ソ連で農業生産の再興が必要とされる中、バルカンハナウドの物語は始まる。集団農場の指導者たちは、動物たちの飼料問題を抱えており、安価なかいばを求めていた。そして農学者はトルコやジョージア

    ロシアでもっとも危険な植物のひとつを紹介しよう
  • 貨物列車でモスクワからウラジオストクへ

    若手の画家、ドミトリー・シレさんは貨物列車で9,259キロの移動をしたが、一度も切符代を支払わなかったとのこと。シレさんが携行していたのは必需品を入れた旅行バッグとビデオカメラだけだった。 「わたしは石炭をいっぱいに積んだ車両に乗っていたのですが、悪天候には苦労させられました。わたしは電圧27,000ボルトの架空電車線の上に横たわっていたので、感電する危険性がありました。湿った天候の日には、感電する危険性が何倍も大きくなるのです」とドミトリーさんは話す。 しかし幸い、そのときは何事もなく、無事だったという。貨物列車での移動は、不法であり、また危険な手段である。しかしそれでもドミトリーさんの決意は変わらなかった。モスクワからウラジオストクまで、貨物列車でロシアを横断したのである。 シベリア鉄道の旅といえば、ロシア人だけでなく、世界中の多くの観光客が夢に見るものだが、普通は乗り合わせた人たちと

    貨物列車でモスクワからウラジオストクへ
  • ロシア革命の理解を深める映画6選

    1917年に起きたロシア革命とそれに続く内戦、そしてソヴィエトという新たな政権の樹立は今なお、画家や作家から建築家、作曲家にいたる芸術界全般にインスピレーションを与え続けているが、もちろん映画監督もその例外ではない。 以下は革命時代の歴史と人々の感情をよりよく理解し、新たに解釈する助けとなる映画6作品である。 1.「10月(世界をゆるがした10日間)」(1927年) セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による革命3部作の最終作。監督自身、この作品に関して、革命は「わたしにもっとも大切なものを与えてくれ、わたしを芸術家にした」と述べている。革命3部作はデビュー作品の「ストライキ」が1作目、黒海で反乱を起こした戦艦ポチョムキンとその船員たちを描いた映画史上屈指の名作「戦艦ポチョムキン」(1905年)が続く2作目となった。「10月」は革命についての映像の集大成であり、そこにはニコライ2世の銅像の破壊

    ロシア革命の理解を深める映画6選
  • すでに25年、ずっとたまったままの水溜り。この水溜り、インスタグラムアカウントを取得した!(写真特集)

    ロシアのユジノ・サハリンスクの大きな水溜りはかなり手強いものである。実はこの水溜り、数十年もの間、水が抜かれたことがない。地元の人々は、この伝説的な水溜りはインスタグラムでアカウントを作るのに十分な年齢だと考えている。 長期間にわたって存在しつづけるこの手強い大きなユジノ・サハリンスクの水溜り。2020年9月に地元住民のニコライさんは、この水溜りをソーシャルネットワークを通して人々に知ってもらおうと考えた。この水溜りはすでに長年にわたって、地域の名物となっているからである。 水溜りが現れたのは1994年。2014年に住民たちは政府に対し、対処してほしいと要請したが、道の改修工事は延期に延期が重ねられた。最初は2017年、そして現在は2024年まで延期されている。 こうした扱いに耐えきれず、この水溜りがネット上に登場し、語り始めた。「こんにちは!わたしはユジノ・サハリンスクのチホオケアンスカ

    すでに25年、ずっとたまったままの水溜り。この水溜り、インスタグラムアカウントを取得した!(写真特集)
  • ロシアの女性はなぜ室内で帽子を取らなかったのか?

    どうやってレストランの中で暖かい帽子をかぶったままで事ができるだろうか?実は、かつてはこれは多くの人にとってまったく普通のことで、誰も疑問を持たなかった。 ソ連後期、1990年代に撮影された多くの写真を見ると、女性たちが室内で、コートは脱いでいるのに大きな毛皮の帽子はかぶったまま映っているのに気がつくだろう。みんな、頭が寒いのだろうか?あるいは女性は頭をなにかで覆わなければならなかった革命前の慣習の名残なのだろうか?いや、理由はまったく別のことにあった。 数十年前、毛皮のコートは防寒のためではなく(もちろん、何よりも体を暖かくするものではあったのだが)、特定の社会的地位を示すものであった。今の若者たちが、最新モデルのスマホを買うために行列についているように、当時の女性たちはミンクやキツネの毛皮でできた贅沢な(そしてなかなか手に入らない)帽子を買うために行列についた。ちなみに、ウサギやフェ

    ロシアの女性はなぜ室内で帽子を取らなかったのか?
  • チェルノブイリに黒人はいなかった?!いや、実は一人いたのである

    英国の脚家であるカーラ・マリーは現在ネット上で熱い話題となっているHBOの連続ドラマ「チェルノブイリ」にPoC(有色人種)が登場しないことを不満だとしてツイッターで指摘した。 この投稿はロシアで嫌味だと受け取られた。人々はマリーに、ソ連では有色人種の人が機密事項である原子力発電所で働くことはほとんどあり得ないことであると説得しようとした。 しかしながら、ウクライナのウェブサイト、theBabelは一人の黒人が確かにチェルノブイリ事故で救援活動をしたことを「発見」したのだ。 彼の名前はイーゴリ・ヒリャク。このウェブサイトによれば、イーゴリは18歳の時に徴兵され、1985年にキエフの浮橋建設部隊に加わった。この部隊の兵士たちは結局、チェルノブイリ事故の救援活動に参加するように命を受けたのである。 1986年に、この部隊はプリピャチの市民を非難させるために、プリピャチ川に浮橋を設営した。 ロシ

    チェルノブイリに黒人はいなかった?!いや、実は一人いたのである
  • ロシア北部を訪れたカストロ:スキーの腕前はもう一つだったが…

    1963年、米ソ冷戦のピークだったキューバ危機の直後に、フィデル・カストロは、ソ連を40日間にわたり旅した。カストロが乗ったアエロフロートの通常の飛行機は、4月27日、オレネゴルスク近郊に着陸した。ロシア旅行は、雪玉を投げ、スキーを試み、北方艦隊を訪問することから始まった。 「あのろくでなしめ!」。1962年にフィデル・カストロは、ソ連の指導者、ニキータ・フルシチョフについて、こう吐き捨てたと伝えられる。 キューバ危機の際にフルシチョフは結局、キューバに侵攻しないと米国が約束したのと引き換えに、同国にソ連が配備した中距離弾道ミサイルを撤去することに決めたが、その知らせにカストロはこう反応したのだった。少なくとも、ムルマンスク州公文書館のウェブサイトでは、そう伝えられている。 カストロは、自分の頭越しにフルシチョフがアメリカへの譲歩を決めたのが気にわず、キューバ全国にこんなスローガンが広め

    ロシア北部を訪れたカストロ:スキーの腕前はもう一つだったが…
  • 地下核実験はいかに、またなぜ行うのか?

    1949年8月29日、ソ連の原爆が初めて炸裂した。後に、その実験に携わった者の1人、ケシュリム・ボツァエフは、次のように回想している。 「閃光にさらされたソウゲンワシやタカは、恐ろしい光景を呈していた。片側の羽毛は焦げ、目は白くなっていた。通信ケーブルの上にとまったまま、我々が近づいても身動きもしなかった。ある場所には、死んだ豚が転がっていた。黒く焼け焦げて膨れ上がっていた。医師たちはそれを他の場所に移すいとまがなかったのだ。とにかく恐るべき光景だった。この偉大な発明は、人類に対しこんな恐ろしい結果を約束しているわけだ」 ソ連最初の原子爆弾は、1949年にセミパラチンスク核実験場(カザフスタン東部)で炸裂した。しかしこの実験から数年経つと、居住地から離れたところで行われたとはいえ、環境への影響は破局的であるということが、ソ連指導部には分かった。 こうして、1963年に核兵器保有国(アメリカ

    地下核実験はいかに、またなぜ行うのか?
  • ソ連医師の驚異の手術:南極基地で自分の盲腸を摘出

    レオニード・ロゴゾフ医学博士は、信じ難い外科手術を成功させた。南極大陸のソ連の基地で、盲腸を自分で摘出したのだ。彼は一躍ソ連のヒーローになり、ほぼ同時期に人類初の有人宇宙飛行を成し遂げたユーリー・ガガーリンと比較された。 信じ難い話だが、ソ連の医師レオニード・ロゴゾフ(1934~2000)が行った、自分で自分の盲腸を摘出する手術は、空前絶後というわけではなかった。すでに1921年に、アメリカの外科医エヴァン・オニール・ケインが、自分の盲腸を摘出し自分で縫合する実験を行っていた。 ただ、彼とロゴゾフのケースが違うのは、手術を行ったときの条件だ。米国医師は、設備が完備した手術室で、いざという場合に備えた外科医チームの立ち合いのもとで、「自己手術」をしたのだが、ロゴゾフはそうではなかった。また、彼が手術したのは、別に科学の進歩のためではなく、自分が生き残るためであった。 生死の境 1960年、若

    ソ連医師の驚異の手術:南極基地で自分の盲腸を摘出