ソ連に関するkodai795のブックマーク (319)

  • 私がロシア人の妻と子供と共に、モスクワから「逃亡」した理由

    ソ連崩壊直前の1990年から28年間、モスクワに住み続けていた国際関係アナリストの北野幸伯氏は2018年11月、ロシア人のと子供達と共に日に居を移した。海外在住のメルマガ発信者として無類の人気を誇っていた北野氏にとっては、切実なある理由があってのことだった。その理由とは? 家族にも恵まれ、快適だったモスクワ生活 私は2018年11月、28年住み慣れたモスクワを離れ、日に帰国した。 なぜ私はこの決断を下したのか? このことを書くことで、皆さんのロシア理解が深まることを願っている。 私は1970年、長野県松市に生まれた。 1990年、モスクワに渡り、ソ連(後にロシア)外務省付属モスクワ国際関係大学に入学した。 留学したタイミングは最悪だった。 翌1991年12月、ソ連という国家自体が消滅してしまったのだ。 それでも「国家消滅」、「その後の混乱」、「復活のプロセス」を目撃できたことは、「

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  • 私たちはソ連にいた! ~1970年代の青春~|ソビエトカルチャーマガジン

    映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』を見て、私は「青春のモスクワ」に思いを馳せた。実は私は縁あって1973年から1983年までソ連の海外向け国際放送(ソ連国家ラジオテレビ委員会=通称モスクワ放送。日課)で働いていた。つまりこの映画の舞台となっていた2年後の1973年から、作家ドヴラートフが1978年にソ連政府からの追求を逃れるためウイーンに亡命するまでの6年間、作家と私ははからずもレニングラード(タリンやプスコフにもいたという)とモスクワという都市は違えども同じ「ソ連」という国家体制の中で、「同じ空気」を吸っていたことになる。ただし私たちが決定的に違うのは、ドヴラートフはソ連体制に批判的な立場で、命がけで表現の自由とストレートに闘っていたことに対し、私は逆にソ連の体制側の仕事に就いて一人「表現の自由」の無さに悶々として働いていたことだった。当然、私たちが出会うことなどはなかった

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  • ソ連のプロパガンダに写真編集

    写真は厳しい検閲と編集を経て、一種のパッチワークとしてまとめられ、白いグアッシュやインクで色づけされた。これは「芸術的修整」と呼ばれ、美術の学位保持者によって行われた。 Arthur Bondar ソ連の新聞の写真編集は、純粋に芸術目的で行われることもあったが(フォトショップがなかった時代!)、プロパガンダ目的で「調整」が行われる場合もあった。

    ソ連のプロパガンダに写真編集
  • エドワルド・リモノフとロシア・カウンターカルチャーとしてのナツボル | 半身文筆家

    2020年3月17日、78歳でこの世を去ったロシア文学界異端児にして赤いカウンターカルチャー巨星、エドワルド・リモノフについて以前書いたいくつかのブログをまとめて再投稿します。 先ずはこの動画を観て欲しい。これは東欧のパワーエレクトロニクス重鎮グループのインタビュー模様ではない。1992年ロシアにて新ユーラシア主義&民族共産主義を掲げて組織された非合法政党「国家ボリシェヴィキ党=ナツボル」の声明発表である。左端は現在プーチンのブレインとして知られるアレクサンドル・ドゥーギン、右端はロシアのパンク・ロッカー、イゴール・レートフだろうか?そして中央に陣取るのはナツボル党首エドワード・リモノフである。 こちらは「掩体壕(バンカー)」と呼ばれたナツボルのモスクワにあるアジトの模様だ。果たしてこの空間がいったい何なのか?エマニュエル・キャレール著”リモノフ”(中央公論新社)には以下のように記されてい

    エドワルド・リモノフとロシア・カウンターカルチャーとしてのナツボル | 半身文筆家
  • 戦争映画の最高傑作『炎628』について知っておくべき9つのこと

    第二次世界大戦を描いたこの映画は、最も恐ろしく最も難解な映画でもある。一度見たらなかなか頭から離れない。 『炎628』はしばしば戦争映画史上最高の傑作と言われ、間違いなく世界で最も人気のあるソ連映画だ。この映画は第二次世界大戦の一部分を、ベラルーシの十代の少年の視点から描いたものである。『炎628』は劇中ずっと戦争の残酷さを憚ることなく見せつける。リアリズムを徹底したこの映画は、戦時中の人間の暗い所業ほど恐ろしいものはないということを教えてくれる。 この映画を見たことがないなら、絶対に見るべきだ(Russian Film Hubで『炎628』を見るにはこちら)。もし見たことがあっても、これらの9つの事実を知れば、映画がもっと面白くなるだろう。だが気を付けてほしい。最後の事実はネタバレだ。 1. 撮影中、実包を使用した

    戦争映画の最高傑作『炎628』について知っておくべき9つのこと
  • 写真から消えた人々:スターリン式プロパガンダ(写真特集)

    ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの政治的ライバルの多くは、命を奪われただけでなく、地上からそのすべての痕跡を消し去られてしまった――彼らの写真を含めて。 イギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』は、1944年に出版されているが、この作品はヨシフ・スターリンの支配するソ連にある程度インスパイアされている。 『1984年』の世界とスターリンのロシアとの間には多くの類似点があり、その一つは、主人公ウィンストン・スミスの職業に関係がある。スミスは「真理省」に勤めているのだ。この省では、歴史が「改訂」され、独裁者ビッグ・ブラザーの「恵み」から外された人すべての痕跡を抹殺する。 これは、スターリンのソ連でも起こったことだ。ある政治家が今日はお気に入りだと思ったら、明日は「人民の敵」として銃殺されかねない。ソ連ではそういう人々はみな、文字通り歴史から消された。実例をいくつか挙げて

    写真から消えた人々:スターリン式プロパガンダ(写真特集)
  • ロシアでもっとも美しい場所100選

    外観も素晴らしいが、教会の内部はさらに強い印象を与える。教会内の壁は、7㎢のモザイク画で覆われている。この教会は1881年にアレクサンドル2世が暗殺された場所に建立された。 2.キジー島、カレリア半島

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  • コミ共和国:ロシア北部の巨大な「異常」地帯

    これはオブディル村だ。ここでは熱狂的な信者たちが構成する分派がロシア正教から分離し、この地でおよそ10年間生活していた。彼らは文明を逃れて、この世の終焉を予期しつつ、到達不可能な未開のコミの林へと向かった。 ロシアNOWは、忘れられた旅人で黙示録的終末論者のテオドール・グラゴレフに捧げられたロシアのウェブマガジン「Batenka.ru」の内容を引き続きお届けする。今回は、同ウェブサイトのチームのうち5人が、自宅から1,600キロ離れた地に存在するいわゆる「異教徒の森」やその他の尋常ならぬ場所を探しに出かけた。 ロシアNOWは、忘れられた旅人で黙示録的終末論者のテオドール・グラゴレフに捧げられたロシアのウェブマガジン「Batenka.ru」の内容を引き続きお届けする。今回は、同ウェブサイトのチームのうち5人が、自宅から1,600キロ離れた地に存在するいわゆる「異教徒の森」やその他の尋常ならぬ

    コミ共和国:ロシア北部の巨大な「異常」地帯
  • ソ連時代、バルト三国の生活が豊かだったのはなぜか(写真特集)

    ラトビア、エストニア、リトアニアはソ連を構成していた15の共和国の中でもっとも特権的な存在であった。「ソヴィエトのヨーロッパ」、「ソ連の中の外国」などと呼ばれたこの3カ国は巨大なソ連のショーウィンドーであった。

    ソ連時代、バルト三国の生活が豊かだったのはなぜか(写真特集)
  • 第二次世界大戦中の「ロシアの侍」:大東亜共栄圏建設を目指す日本人と共闘した理由は?

    ロシア人はおそらく、日の支援のもとで、大東亜共栄圏建設のために自ら進んで戦った唯一のヨーロッパ人だったろう。しかし、彼らは実は、独自の目標を追求していた。 ロシア革命後の内戦で、赤軍、つまりボリシェヴィキ政権(ソビエト政権)が勝利したことにより、数十万のロシア人が故国を去ることを余儀なくされた。そして、彼らとその子供たちは、いつの日か祖国に戻り、憎むべきソビエト政権を打倒することを望んでいた。 第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパに亡命していたロシア人の多数が、独ソ戦(大祖国戦争)でヒトラーの勝利に期待した。一方、極東に定住したロシア人は、同盟者として大日帝国を選んだ。 同盟者 1920年代以来、日は、中国東北部の満州に定住した白軍勢力との関係を築いてきた。1931年に、日の関東軍がこの地域を占領したとき、ロシア系住民のかなりの部分が、日の対中国戦で日を支援した。 満州と内モン

    第二次世界大戦中の「ロシアの侍」:大東亜共栄圏建設を目指す日本人と共闘した理由は?
  • ソ連時代の中央アジアの人々の暮らし(写真特集)

    ソ連には15の共和国があり、それぞれがはっきりとした民族的特色を持ちながら、共同で共産主義社会を建設していた。その様子はどのようなものだったのか。中央アジアの5つの共和国、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンを例に取ろう。 子供たち ソ連の重要な課題の一つが文盲解消だった。ソ連全土に新しい学校が作られた。成人向けの学校もあった。ロシア語とそれぞれの民族語が教えられた。子供たちは幼い頃から共産党とレーニンを愛することを教え込まれた。中央アジアの多くのピオネールが自分たちの共和国の首都やモスクワに行くことができた。

    ソ連時代の中央アジアの人々の暮らし(写真特集)
  • ジョージ・オーウェルとロシアの5つ接点

    Cassowary Colorizations (CC BY 2.0), Mikhail Mitzkevich/V.A. Nikitin collection オーウェルはわけあってロシアの読者にとても近かった。第一の理由は、長編『1984年』と中編『動物農場』が、明らかにソビエト社会を風刺したものだったということだ。第二の理由は、長年ソ連で発禁だったことである。当時の人々は、発禁になるのは現実世界に影響を与え得る傑作だけだと知っていた。 1960年代にはオーウェルの作品が地下出版され、一夜の読書に入手することができた。最近オーウェルの伝記を著したヴャチェスラフ・ネドシヴィンは、新聞『コムソモリスカヤ・プラウダ』の同僚とそうした読書の夜を過ごしたことを述懐している。 「私はよく覚えている。編集室の扉の鍵を閉め、電話のダイヤルを引っ張って鉛筆を挟んだ(こうすれば盗聴を防げると言われていた)。

    ジョージ・オーウェルとロシアの5つ接点
  • 水着姿のロシアの看護婦がミームのヒロインに

    看護婦は上司から注意を受けたが、インターネットのユーザーたちはこの女性に「職場での忍耐強さ」に褒賞を与えるべきだとしている。 トゥーラ州立病院の看護婦が水着の上に透明の防護服をつけて男性患者の病室にやってきた。 患者の一人がこの女性の写真を地元の新聞社に送り、女性は防護服が暑くて水着を着たのであり、そこまで透けて見えるとは思っていなかったと説明した。しかしこの説明もむなしく、トゥーラ州の保健局はこの女性に注意勧告を行ったが、ソーシャルネットワークのユーザーやメディアはこの女性職員を擁護している。 ユーザーの一人、@redsquare2018さんは、「なんて素晴らしい看護婦でしょう!おじいさん患者が人工呼吸器を自分ではずしたんだ!」と書いている。 フェイスブックのユーザー、シャフカト・アイホジャエフさんは、彼女には罰を与えるのではなく、「職場での勇敢さと忍耐強さ」に対して褒賞を与えるべきだと

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  • ロシアの神童たちの恐ろしい運命―彼らはどんな人生を辿ったのか?

    天才少年、天才少女たちは両親にとって、そして国にとっての誇りである。しかし彼らの人生には別の計画が用意されていた。 1980年代、ソ連の新聞は特殊な才能を持つ男の子について、多くの記事を掲載した。その男の子は3歳で複雑な暗算をすることができ、5歳で独学でピアノを弾き、6歳で対数関数のグラフを書き、8歳で冥王星の明るさに関する物理学的問題を解いた。これは数学オリンピックで16–17歳の少年たちに与えられる課題である。 これはモスクワ出身のパーヴェル・コノプリョフである。小児神経心理学者は、当時6歳のパーヴェルを検査したが、そのときのIQは142であった(ちなみにスティーヴン・ホーキングとアインシュタインは160)。一方で、パーヴェルは産院で感染症になり、医師たちは知的な遅れがあると診断した。しかしいずれにせよ、彼はその年齢で母親の大学の教科書を読み、ロシア版サンタクロースのジェド・モロースに

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  • ロシア車ブハンカ、愛され60年 構造シンプル、悪路に強く(北海道新聞) - Yahoo!ニュース

    【ユジノサハリンスク細川伸哉】旧ソ連時代から60年以上、形状をほとんど変えず販売されているロシア製のバン型車「ブハンカ」がロシア国民に愛され続けている。悪路に強く、改造しやすいなど、野外活動の「道具」としての使い勝手の良さが売りだ。安全や快適の装備に乏しく、故障が多いのはご愛嬌(あいきょう)。自動車王国の日にもファンがいる。 「日車では走れなかった悪路に行ける。外国人はロシアらしさを味わえると喜んでくれる」。東シベリアのバイカル湖に浮かぶオリホン島で、観光客向けのブハンカを運転するニコライ・ジェリュービンさん(55)は1月に日製バンから乗り換えた。 人口約1500人のオリホン島では約200台あるブハンカが主要な移動手段だ。ロシアの地方でもブハンカであれば交換部品がそろう。新車で80万ルーブル(115万円)程度という安さも、平均所得の低い地域で受け入れられやすい。 ブハンカはロシア語で

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  • ロシアのナショナリズム熱で国内家電メーカー急成長 - ライブドアニュース

  • 世界最多生産一眼レフ・ミニ「ゼニト」

    一眼レフ・カメラ「ゼニト」は1952年~2005年、ソ連および現代ロシアで盛んに生産されていた。12年のブランクを経て、2018年に復活する。ソ連の有名なカメラの歴史ロシア・ビヨンドで振り返る。

    世界最多生産一眼レフ・ミニ「ゼニト」
  • ソ連の赤軍が宿敵の白軍と共闘:中国で奇妙な合従連衡

    ロシア革命後、赤軍と白軍の戦いが国を分断した。ところが、内戦で不倶戴天の仇だった、この両軍が、中国で共闘した珍しいケースがあった。 不俱戴天の仇  1917年、ボリシェヴィキ革命がロシア社会を分裂させ、ロシア史上最も凄惨な戦いに突入した。赤軍と白軍(新ソビエト政権を支持する勢力と反対勢力)が戦った内戦で、1千万人以上の犠牲者が出ている。 対立する両勢力の相互の憎悪は、ロシアにおける白軍の敗北で消えたわけではない。白軍は、世界中で反共産主義組織を創り、スペイン内戦、フィンランドの冬戦争、独ソ戦等々で、ソ連と積極的に戦い続けた。 ソ連の情報機関もまた、手をこまねいていたわけではない。亡命した白軍勢力の活動を注視し、最も重要かつ危険な者を捕らえたり、殺害したりした。 にもかかわらず、これら不俱戴天の仇同士が、共通の利害を見出したのみならず、同盟者、さらには「友人」にさえなったケースがあった。それ

    ソ連の赤軍が宿敵の白軍と共闘:中国で奇妙な合従連衡
  • 戦時厨房:第二次大戦時ソ連兵は何を食べていたか

    戦時中、調理師たちは兵士に高カロリーで多様な事を出すために発明の才を発揮した。彼らがどんな知恵を絞ったかお話ししよう。 戦時中、兵士の事はいわゆる「野戦厨房」で調理された。これはパンを焼くための「野戦パン焼き場」と同様に、19世紀末にはすでに現れていた。野戦厨房は移動式の車体かトラックの荷台に載ったトレーラーのような外見だった。厨房は、いくつかの釜(1〜4つ)と、材や調理器具をしまうためのコンパートメントから成っていた。 野戦厨房の釜は薪で焚いていたが、煙突から出る煙が敵に見えないよう、事は夜明け前の早朝か、辺りが暗くなった晩に作られた。釜の水は40分で沸騰し、2品から成る昼は3時間、夕は1時間半で作られた。夜の厨房は慌ただしかった。材の準備で例えばジャガイモの皮を剥いたり、釜の汚れを洗い落としたりしていた。ちなみに戦争の初期は、調理師の大部分が女性だった。 事の配給もまさ

    戦時厨房:第二次大戦時ソ連兵は何を食べていたか
  • ロシアで食されるやばいキノコ6種

    「静かな狩猟(キノコ採り)」をあまり好まない、経験の浅いキノコ採取者は、籠の中に変なキノコが入っているのを見たら驚くだろう。ロシア料理の世界に深くもぐりこむと、どう見てもべられそうにない森の恵みのレシピが見つかる。 警告!  この記事に記される一部キノコをべると、健康被害をこうむる可能性あり!~ロシア・ビヨンド ベニテングタケ(Amanita muscaria)Legion Media ベニテングタケは従来から、非常に危険な毒キノコと考えられ、熱心なキノコ採取者でも避ける。もったいない!正しく調理されたベニテングタケは、安全というだけでなく、とてもおいしい。 ロシアの有名な作家I.A.ブーニンの短編小説「草刈人」には、貴族の間で意識をもうろうとさせるキノコとして有名なベニテングタケを、農民が喜んでべている様子が描かれている。 ベニテングタケを中毒にならないようにべるには、まず、洗っ

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