ソ連に関するkodai795のブックマーク (319)

  • エセーニンと「神話創造」:彼はいかに愛国詩人となったか

    セルゲイ・エセーニン、1916年(左)、1924年(右) Russia Beyond (Lev Ivanov, Sputnik) セルゲイ・エセーニン(1895~1925)は、ロシア最高の詩人と自認したが、自分自身の居場所を見つけることはついにできなかった。彼は何者だろうか――田舎の青年、悪戯好き、あるいは名声を求める狡賢い人? 田舎の若者が、巨大都市サンクトペテルブルクにやって来た――貧農の装いで、みすぼらしい鞄一つをぶら下げて。駅から真っすぐ、彼は、自分の「偶像」のところへ、つまり今を時めく大詩人、アレクサンドル・ブロークの住まいを探しに、出かけた。ただ彼に会うためだけに…。 しかしこれは、セルゲイ・エセーニンが自分についてつくり出した多くの神話の一つにすぎない。20世紀初頭、ロシアの詩壇は才能に溢れていた(もちろん、三文詩人も…)。有名になるには、トリックや神話づくりに頼ることも必要

    エセーニンと「神話創造」:彼はいかに愛国詩人となったか
  • ロシア北部とプリモーリエ(沿海地方)の超衝撃的料理

    寒い地の果てでは人々は何をべているのだろうか?実は、ロシアの少数民族は、かなり過激なものをべている。この記事には、生々しい料理の描写と画像が含まれている。衝撃や不快感を与える可能性があるため、ご注意いただきたい。 魚がたくさん収穫できるところでは、魚でデザートまで作ってしまう。そんなわけで、魚の鱗と皮を使ったゼリーができるのも当然のことと言える。ウデへ人(2010年時点で人口1,500人)のゼリーの作り方は次のようなものである。サケの皮を乾燥させ、鱗をとり、牛乳を加え、弱火でゼリー状になるまで煮る。ゼリーはこれでほぼ完成なのだが、これを熱いまま器に入れ、ベリーや砕いたナッツやドングリを入れ、冷ましていただくのである。 キヴィアク 鳥を詰めたアザラシ 少し心の準備はできただろうか?次に紹介するのはエスキモーたちのかなり独特なお祝いの料理である。これは珍味であるだけでなく、長い極夜の時期に

    ロシア北部とプリモーリエ(沿海地方)の超衝撃的料理
    kodai795
    kodai795 2021/09/10
    北極のグロテスクな食文化の裏には、これを食べざる得ない過酷な環境がある
  • 北方民族でなければ命を落としてしまう危険な料理

    それは、北方民族の間では珍味とされているが、それ以外の地域の人がべると翌日にも命を落としてしまう可能性がある。1970年代に実際にそのような事件もあった。 北方民族の伝統料理は、他の地域の人々にとってかなり衝撃的なものである。たとえば、トナカイの熱い血や濃厚な「血の」スープ、トナカイの胃の中にある未消化の内容物などをべてみようという勇気のある人はそういないだろう。ではデザートにはどのようなものがあるのだろうか?実はデザートも、当に好きな人でないとべられないものである。北方のアイスクリームは、ベリー類で「味が整えられているものの」、セイウチまたはアザラシの脂身でできているのである。 しかし、北方のもっとも奇妙でもっとも危険な珍味といえば、コパルヒン(クィムグートとも呼ばれる)以外にない。子どもの頃からべ慣れていないと、命を落としてしまう危険性のある代物である。 「嘔吐、意識喪失、肝

    北方民族でなければ命を落としてしまう危険な料理
  • 陽光もない、ビーチもない、でも塩がある ベラルーシで注目のアレルギー治療:朝日新聞GLOBE+

    欧州最後の独裁国家、とよくいわれるベラルーシでの話。 同国内にあるオーストリアの会社でマネジャーをしている40歳のYury Lukasheniaは、休暇に家族を連れてスペインやギリシャといった陽光降り注ぐ国々で過ごすくらいのゆとりはある。 ところが毎年春の休暇シーズンになると、彼は自国ベラルーシのサリホルスクにある岩塩坑に2週間、運が良ければ3週間滞在するのを楽しみにしているのだ。 「もちろん、最初はちょっと怖かったよ」。彼は初めてサリホルスクに行った時のことをよく覚えている。ガタガタの、明かりもつかないエレベーターに揺られながら地下約420メートルまで降り、世界最大級の塩とカリウムの鉱床につながるトンネルや洞窟が張り巡らされた薄暗い回廊に入ったのだから。 以後、旧ソ連時代の「岩塩鉱業の宝」だったサリホルスクへの旅は今回で6回目となった。Lukasheniaは呼吸が困難になるアレルギーに苦

    陽光もない、ビーチもない、でも塩がある ベラルーシで注目のアレルギー治療:朝日新聞GLOBE+
  • 【簡易まとめ】ソビエトの農業について

    田中ピカチュウ @USSR1945_5_9 「ソビエト連邦を超大国のまま存続させてみる」読んだ! ncode.syosetu.com/n1088gf/ #narou #narouN1088GF うーんネップマンが都市部で飢える民衆を尻目に「まだまだ農作物の値段は上がる!」なんて資主義のクソみたいなとこを煮詰めたような行動したものがどうスターリンに認められるか脳内補完できん 2020-05-11 21:49:56 田中ピカチュウ @USSR1945_5_9 ソビエトの農業集団化そのものが問題だったのかにも疑問が残るところではある気がする ソビエトの農業生産高は1940年が最大で(41年に一大穀倉地帯を焼き払われ地雷まみれにされてる)その後一度もピークに達しないが、それでも崩壊前の時点で世界第二位の農業国だし 2020-05-11 21:52:09

    【簡易まとめ】ソビエトの農業について
  • ソ連のホームドラマ7選:庶民の悩みと希望を映し出した映画

    家庭の諍い、喜劇、ドラマ、魅力的なキャラクター、母子家庭の子供、理想的な愛…。何かのソ連映画は、家庭の男性、女性、両親その他の人間関係を、千の言葉よりもよく描き出している!そうした名画が実際どれだけ現実に近いか見てみよう。 ソ連時代には、映画のホームドラマもまた、他の形式の視覚芸術と同じく、理想社会への志向を見せることを目的としていた。しかし、ここにパラドックスがある。ほとんどのソ連映画は、それなりに現実との接点があったが、実のところ、人々が映画を見に行ったのは、困難な現実から束の間逃れるためだった。 第二次世界大戦とスターリンの大粛清の結果、人口統計上の巨大な不均衡が生じた。それは主に、男性の「遺伝子プール」を破壊し、ソ連の男女関係を歪んだものとした。 問題は、ソ連の全世代のかなりの部分が父親なしで育ったということだ。戦後、父の不在は、男女間に根的に異なる関係をもたらした。父の不在、

    ソ連のホームドラマ7選:庶民の悩みと希望を映し出した映画
  • 現代も使えるソ連式しつけの10の原則

    ソ連は天才的な研究者、優れたスポーツマン、そして創造的な知能が溢れていることで広く知られていた。これは優秀な遺伝子プールだけでなく、ソ連のしつけにおける原則によっても説明することができる。その原則をいくつか紹介しよう。 ソ連における幼年時代というもの、そしてソ連で子どもたちがどのように育ってきたのかということを理想化する必要はない。そこには多くの暗い面があり、一義的とは言えない規則があった。もっとも有名なものを挙げるなら、「できないなら、教えよう。したくないなら、やらせよう」というものだ。 ソ連のしつけにおける多くの原則は1930年代に伝説的な教育者アントン・マカレンコによって打ち立てられた。当時ロシアにはホームレスの子どもたちが多数存在し、そうした子どもたちは後に犯罪者になった。そこで政府はホームレスの子どもたちを通りから集め、孤児院に収容したが、それらの子どもたちを“普通の子”にするの

    現代も使えるソ連式しつけの10の原則
    kodai795
    kodai795 2021/08/23
    戦後教育にソ連方式が導入されていたのは有名だが、確かに似ているところがあるな。
  • スターリンのブラックジョーク5題

    辛辣なユーモアは、暴君の手持ちの武器の一つと考えられてきたが、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの場合も例外ではなかった。スターリンに帰せられているジョークのすべてが真実かどうかは分からない。しかしいずれにせよ、これらのジョークの質は、粛清と過酷な生活条件の暗い背景をもち、歴史書などよりも、スターリン時代のロシアの暮らしについてより多くを語ることがある。 1.「我々は同志ロコソフスキーを羨まなければなるまい」 あるとき、赤軍の高級将校レフ・メフリス(最終階級は大将)が、スターリンに報告した。赤軍のコンスタンチン・ロコソフスキー元帥(1896~1968年)*が、あるとき公衆の前で極めて美しい女性と連れ立っていたのだが、それは彼のではなかった、と。 「どういたしましょうか?」とメフリスは尋ねた。明らかに、ロコソフスキーに対して何らかの命令を実行することを期待して。 「どうしようかって?」。スタ

    スターリンのブラックジョーク5題
  • ソ連が創設に関わった世界の秘密警察TOP 3

    これらは、冷戦時代の最も強力かつ冷酷な秘密警察だった。その血まみれの遺産は、まだそれぞれの国を悩ませている。 東ドイツドイツ民主共和国)の国家保安省は、「シュタージ」の通称で知られている。東側陣営だけでなく全世界で最も効果的な情報機関の一つだった。西ヨーロッパで3万8000人以上のエージェントが活動し、国内には60万人以上の情報提供者がいたので、シュタージのカバーする範囲はほとんど無限だった。 シュタージは、東ドイツのほぼすべての成人市民、および最も重要な西側のビジネスリーダーと政治家に関する極秘ファイルを持っていた。アーカイブのシュタージの極秘レポート、音声記録、マイクロフィルムの棚は、全部つなげると150キロメートル以上にもなる。 東独の秘密警察は、ソ連の秘密警察「KGB」の前身である「国家保安人民委員部」(NKGB)の支援を受けて、1950年に設立された。その後7年間、それはソ連の

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  • タブーを破ったソ連映画のセックスシーン:1930年(!)からペレストロイカ期まで

    全体として言えば、セックスにアクセントを置くことは、ソ連時代はモラル上許されないと考えられていた。検閲をかわすために、ロマンティックな作品を作ろうとする映画製作者たちは、登場人物間の情熱的なシーンを撮影する前に、よくよく考えなければならなかった。 実のところ「セックス」は、ソ連では「はしたない」だった。画面上の性描写は、ソ連の道路上のベンツ車とほぼ同じくらい稀だった。どんな種類の性交もタブーで、情熱的なキスさえご法度だった。だから、基的にソ連の俳優はシャイで、裸になることさえできなかった。 彼らの多くは、厳格な(共産主義者の)両親に育てられた。親たちは子供たちに、揺るぎない理想主義と道徳的規範の感覚を植え付けた。だから概して、ソ連の俳優は、セットでパートナーの前で裸になるのを嫌がり、その嫌悪感が画面にも現れていた。その結果、セックスシーンにはリアリズムがなく、情熱もほぼ完全に欠けていた。

    タブーを破ったソ連映画のセックスシーン:1930年(!)からペレストロイカ期まで
  • ロシアの絶滅寸前の伝統木造家屋

    インスタグラムのアカウント@oldrussianhousesは、ロシアの典型的な木造住宅の画像を投稿している。ロシアでは、都市部から数キロ歩くと、このような家が見えてくる。

    ロシアの絶滅寸前の伝統木造家屋
  • ロシアでコロナウイルス・ワクチン接種証明書の偽造が横行

    Russia Beyond (写真: Double_Vision/Getty Images; Moskva agency) 「15分でスプートニクVワクチン接種証明書を、3人分以上の注文で割引」――テレグラムのメッセンジャーのチャンネルでこんな宣伝を目にすることがある。誰がどうやってワクチン接種証明書を販売しているのか、なぜロシア人は実際にワクチンを打つ代わりにこれを購入するのか、お話ししよう。 「私たちはロシアで最も影響力のある研究室の一つです。抗体証明書も、COVID-19のワクチンを接種した証明書も提供します。証明書はゴスウスルーギ[診療予約や税金の支払いなどの公共サービスを提供するロシアの主要なポータルサイト――編集部註]に登録します。どんな検査も可能です」とドミトリーと名乗る男性が私に説明する。彼の方から私のインスタグラムに登録してきたが、アカウント名は「診断書」という単純なもの

    ロシアでコロナウイルス・ワクチン接種証明書の偽造が横行
  • 知っておくべきソ連の主要な芸術家10人

    芸術学者で、モスクワのトレチャコフ美術館で開かれた展覧会「社会主義リアリズム・メタモルフォーゼ・ソ連芸術1927〜1987」のキュレーターを務めるアレクサンドラ・ハリトーノワが、20世紀半ばに活躍した重要なソ連の芸術家10人を選んだ。ハリトーノワ氏は、このうちのほとんどはプロパンダ芸術という枠を大きく超越した存在だったと言明している。

    知っておくべきソ連の主要な芸術家10人
  • ブジョンヌイとアコーディオン - レーニンの部屋

  • レズビアンのイメージで一躍有名になったポップスデュオt.A.T.u.の2人に何があったか?

    かつてロシアの16歳の2人の少女が、互いへの愛を歌った曲を引っさげて、世界のヒットパレードに旋風を巻き起こした。2人がデュオを解散してから10年が過ぎたが、この間2人は精神科医に通い、外国に移住し、ガンと闘い、声を失った。 シングル曲「All the Things She Said」は2002年、ユリヤ・ヴォルコワとエレーナ・カーチナという2人のポップスデュオによってリリースされた。学校の制服(チェック柄のミニスカートに白いハイソックス)に身を包んだ16歳になったばかりの2人の女の子がカメラに向かってキスをし、お互いをどれだけ愛しているかを歌にした。 しかし実際、彼女たちがレズビアンだったことは一度もない。レーナは2013年にDaily Beastからのインタビューに応え、「あれは役を演じていたようなもの。わたしは一度もレズビアンだったことはないし、女の子を好きになったこともない」と告白し

    レズビアンのイメージで一躍有名になったポップスデュオt.A.T.u.の2人に何があったか?
  • ソ連時代に存在した信じられない犯罪

    1930年代から1940年代にかけては、共産党の指導者や発言、あるいはスターリンをネタにしたアネクドート(小噺)を口にするのは危険なことであった。このようなジョークは「反ソビエト的プロパガンダで反革命的ジョーク」に関する犯罪とみなされ、6年から10年までの収容所送りとなった。戦時中はこれにより処刑されることもあった。たとえば、セルゲイ・ポポヴィチは以下のようなジョークを口にした咎で10年、収容所生活を送った。 生まれて初めてラクダを見た老婦人が叫んだ。「かわいそうな馬・・・、ソ連政権に何をされたんでしょうねぇ・・・」。 一方、反ソ連的なアネクドートを聞いた者がこれを政府機関に通報しなかった場合も犯罪と見なされ、「報告を行わなかった罪」で最大5年の収容所送りとなった。 空手の指導 ソ連では、1930年代末からほぼすべての武術は厳しく禁止されており(サンボ、レスリング、ボクシング以外)、信奉者

    ソ連時代に存在した信じられない犯罪
  • https://jp.rbth.com/lifestyle/84863-soren-tv-cm-ikani-arawareta/amp?__twitter_impression=true&s=09

  • ロシアのアパートでいちばん重要な部屋:ソ連のキッチンは単なる厨房ではなかった

    「フルシチョフカ」と言えば、安価で簡単に建設できるパネルハウスだ。ソ連のフルシチョフ時代に、住宅問題を解決すべく大量に建てられ、ソビエト市民の大半がこれに住んでいた。その標準的な間取りを見てみよう。 リビングが非常に狭いことがはっきりとわかる。こういうアパートに4人家族が住むとすれば、2つの部屋が寝室兼リビングになり、夜、誰も寝ない部屋はキッチンだけだ。こんな間取りのせいで、ソ連の台所はそれ自体が社会・政治現象になった。 革命でトイレも共用に ロシア帝国には、こうした社会現象は存在しなかった。農民は、家の内部にあるペチカで事を作ったから、独立したキッチンルームはない。裕福な農民、商人の家族や、都市に住む貴族は、通常、調理する場所として台所を持っていた。そして、台所には使用人が頻繁に行き来した。やがて、各アパートにキッチンが備わっている、大きな集合住宅が現れたが、そこでも人々は、キッチンで

    ロシアのアパートでいちばん重要な部屋:ソ連のキッチンは単なる厨房ではなかった
  • チュコトカの絶景写真15選

    写真家オレグ・ゾートフとイーダ・ルーチナは、シカやクジラ、驚くべき大自然をカメラに収めるため、チュクチ自治管区(チュコトカ)へ行った。彼らが撮影したチュコトカの風景はさながら壮大なサーガだ。トレチャコフ美術館でその展覧会が開かれる。 チュクチ半島はロシア最東端の半島だ。この過酷な大地にロシア最北端の街ペヴェクがある。ここでは一年の大部分、予測不能な強風が吹き付ける。この半島のツンドラには少数民族のチュクチ人やエスキモーなどが暮らしている。オレグ・ゾートフとイーダ・ルーチナの写真には、チュクチ半島の壮大な大自然と、太古と変わらぬ暮らしを営む人々の姿が収められている。 1. 惑星チュコトカ

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  • ロシア内戦のドラマ:戦争で行き場を失った子供800人が米国と日本により救出される

    ロシア革命直後、この学童たちは、ウラルでふつうの夏休みを送るはずだった。それが突然、世界を半周する3年間の長旅になってしまった。いわばソビエト児童版の『オデュッセイア』はいかに始まり、どんな結末を迎えたか。 1918年5月18日、約800人の子供たちがペトログラード(現サンクトペテルブルク)を後にした。夏休みをウラルで過ごすためだった。このときは誰も想像だにしなかったが、彼らは間もなく恐るべき危険にさらされ、世界の半分を旅し、ようやく2年半後に帰国することになった。 内戦で立ち往生  1917年11月、ペトログラードで、ボリシェヴィキによる武装蜂起と10月革命が起きる。その後間もなく、糧も暖房も足りない冬が来た。春になると、各学校は両親とともに、約1万1千人の学童を組織的に、全国各地のいわゆる「夏季保養児童キャンプ」に送ることを決めた。そこで子供たちは、体力を取り戻し、悪化していた健康状

    ロシア内戦のドラマ:戦争で行き場を失った子供800人が米国と日本により救出される