「勉強ができる」という表現が「蔑称」になってしまうのは、「世の中に出ても『勉強』なんて役に立たない」という old type の価値感から来ているのではないかと思う。それは、勉強ができることよりも、与えられた環境の中でうまく世渡りしていくことが優先され、価値があった時代。言うなれば、「C級の時代」。かつて、言われた言葉を思い出してしまう。最近、「君ってサッカーで言うと中田に似てるよね」と言われました。「あれだけ努力して高みを極めて。でもそのレベルに周りがついて来れなくて孤立して。すごく哀しいけど」。ビジョンを提示するでも、そういう「C級の世界」は終わりに近づいている、と僕は思っている。これだけグローバルな時代において、C級な世界がそのまま生き長らえることができるとはとても思えない。「より高いレベルのチャレンジをする」ことが評価されない場所というのは、本来その人がいるべき場所ではないのだろう