2017年に開始したゲーム「フォートナイト バトルロイヤル」が世界的なヒット作となっている。2018年には世界で7,830万人だったユーザー数は、2020年5月には3億5,000万人に達したとされる。 フォートナイトは多人数が同時に参加するシューティングゲームで、無料でも十分に楽しめるのが特徴だ。また、パソコン、スマホ、ゲームコンソール(Xbox、PlayStation、Nintendo Switch)のいずれの機器同士でも同時に接続して利用できるマルチプラットフォームのため、利用者を大きく増やしてきた。 基本のゲームは、1回の戦闘に100人のユーザーが参加し、最後まで生き残った人が勝者となるバトルロワイヤル形式。ゲームの会場となる仮想空間を探索して戦闘を有利に進めるアイテムを集めたり、チームを組成して団体戦を行ったりする要素もある。 楽しみ方は多様であり、戦闘を行わずに友人と時間を過ごす
店内で家庭用ゲーム機が遊べるゲームバーに対し、コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)が著作権(上映権)侵害だとして業務改善や営業停止を要求し、4月に大阪の3店舗「ゲームバー1UP」「ゲームバーカティーナ」「ゲームバーClan」が閉店を発表、今月には京都の「ゲームバークランツ」「アミューズメントBARカラフル」と兵庫の「ファナティー神戸三宮」「エクルイット」が摘発され、経営者が逮捕される事態に至った。ACCSは各ゲームバーに警告を出しており、今後この動きは全国に波及する可能性が高い。 その中で、家庭用ゲーム機を撤去し、ボードゲームバーに転身するお店がある。もともとボードゲームが遊べたところもあれば、新たに始めたところもある。閉店を発表した「ゲームバー1UP」は『ボードゲームカフェパス』に掲載され、摘発された「ゲームバークランツ」はボードゲームカフェバーによるスタンプラリー「ボードラン
過去の名作ゲームの企画書を見てもらいながら開発秘話を聞くシリーズ「ゲームの企画書」。連載2回めとなる今回は、人気シリーズ『桃太郎電鉄』を長期にわたって手がけてきた、さくまあきら氏に『桃鉄』誕生秘話を聞いた。 『桃鉄』といえば、放課後に友達の家に集まって遊んだり、あるいは大学時代にサークルの部室で遊んだり、という記憶が誰しもあるような、”国民的ゲーム”の一つ。しかし、そのゲームデザインについて真剣に語られることは、あまりにも少ない。 ボードゲームに鉄道の要素を盛り込んだシステムが人気を博した『桃鉄』は、シリーズ累計売上1,500万本を超える。第1作目『桃太郎電鉄』が1988年に登場して以来、携帯アプリ・ボードゲームも含め、39ものタイトルを展開してきた。画像は2008年発売の『桃太郎電鉄20周年』。 一方で、制作者のさくまあきら氏は、『ドラゴンクエスト』の堀井雄二氏や『俺の屍を越えてゆけ』の
「ファミリーコンピュータ」が発売されてから30年以上、『スペースインベーダー』から数えると、いわゆるコンピュータゲーム市場なるものが産業として産声を上げてから、実に35年以上の月日が経過している。 一時期は、文字通り世界を席巻した日本のゲーム産業。しかし、スマートフォンの台頭や、あらゆる分野がグローバル化の波に飲み込まれるなかで、「日本のゲーム」も、徐々にその影響力を低下させつつあるのは、今さら指摘するまでもない。 大規模化、高度化するゲーム開発環境に、次々と台頭する新興ゲームメーカー。そんな中にあって、日本のゲーム産業の進むべき道、取るべきポジションはどのようなものになっていくのだろうか。 この連載「ゲームの企画書」は、ゲーム史に名を残した名作ゲームのクリエイターの方々に、製作時のエピソードをお聞きして、まとめていく連載企画である。 名作と呼ばれるゲームがどのように作られ、またそこにはど
[SPIEL’15]「T.I.M.E Stories」から「T&T」まで。グループSNEの安田 均代表が読み解く,ドイツゲームのこれまでとこれから ライター:徳岡正肇 カメラマン:田井中純平 常日頃からアナログゲームを遊んでいる人であれば,安田 均氏,あるいは氏が代表を務めるクリエイター集団・グループSNEの名前を知らない者は少ないだろう。「ロードス島戦記」を始めとする作品群でテーブルトークRPG(以下,TRGP)をいち早く国内に紹介し,また国産TRPGのマイルストーンとなった「ソード・ワールドRPG」や,いまや巨大な市場を形成する国産トレーディングカードゲーム(以下,TCG)の先駆けとなった「モンスター・コレクション TCG」などを生み出してきた,アナログゲーム界きってのヒットメーカーである。アナログゲームファンにとっては,氏およびグループSNEが関わった作品にまったく触れないほうが難し
世間はお盆を迎え、それぞれが縁のある故人を偲んだが、筆者はゆっくりと任天堂4代目社長の岩田聡さんのことを思い出した。縁があった、と言うのはおこがましいが、2006年秋以降、取材を通じて随分とお世話になっただけに、偲ばずにはいられない。 岩田さんが急逝してからもう1カ月が経つ。週明け、7月13日の午前9時前、任天堂広報から「メールをご確認ください」という電話がかかってきた。慌てて確認すると、信じがたい内容のメールが届いていた。 「当社をご担当頂いている記者の皆様 当社代表取締役社長岩田聡が7月11日土曜日午前4時47分、胆管腫瘍のため京都大学附属病院において永眠いたしました」 直後、脳裏をよぎったのは、今年3月に任天堂の京都本社でお会いした、岩田さんの意気軒昂とした姿だった。 その前日にディー・エヌ・エー(DeNA)との業務・資本提携を東京のホテルで発表した岩田さんは、「してやったり」といっ
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