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2009年4月4日のブックマーク (4件)

  • 「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    主に、「個人と民族主義」について。 「個人に依拠せよ」の意味が取り違えられていると思うので(無理もないことですが)、そこから始めたいと思います。 「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」 僕は「個人に依拠せよ」と述べました。「いかなるアイデンティティの基盤とも関係のない無色透明の個人」みたいな理解をしている人が多々いるので、それは誤解であるとハッキリ申し上げておきます。僕が「個人」に依拠せよというときに述べているのは、私の身体、私の生活、私の関係性、すなわち、私の生の現実に依拠せよ、ということです*1。それが民族主義者の言う模範的形式にしたがっているならば、それをそのままに、したがっていないとしても、それをそのままに。「そのままに」です*2。これは抽象的なものでも透明なものでもありません。民族主義が要請する規範などより、遙かに具体的で現実的なものです。生きられている現実そのままなので

    「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。
    mojimoji
    mojimoji 2009/04/04
    そもそもは民族性を擁護することと民族主義を擁護することの区別の話です。>id:sharouさん
  • 民族性と民族主義は別の問題(一部修正・追記) - 遠方からの手紙(別館)

    「民族性」というものは、その自覚の有無にかかわらず、おそらく数千年だか数万年だか前から存在する。しかし、「民族主義」はそのような「民族性」の自覚の上に成り立ったものであり、たかだか100年から200年の歴史しかない近代の問題だ。なので、この二つの問題は明確に区別しなければならない(ここまでは当たり前の話)。 実際の話、「民族性」そのものは、誰にも否定できるものではない。たとえ様々な民族の間に生まれ育った場合であっても、いかなる「民族性」も持たない人間は存在しないし、人が母語として話す言葉はすべてどこかの民族語であり、誰もがどこかの民族的文化の中で育つのだから(例外はむろんある)。もっとも、そういう民族性も永遠に不変なわけではない。 ただ、そのことと「民族主義」の問題ははっきりと区別すべきだ。「民族性」を肯定することは、それ自体「民族主義」を肯定することではないし、「民族主義」を批判ないし否

    民族性と民族主義は別の問題(一部修正・追記) - 遠方からの手紙(別館)
    mojimoji
    mojimoji 2009/04/04
    シオニズムなんかになると、もはや民族性に基盤を置いてるのか置いてないのかわからない民族主義みたいな変なことになってきてる。
  • 倫理の鏡 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    わたしは、いつも、何ものでもなく、ただ「わたし」でありたいと願っているのですが、でも、わたしが何ものでもなく「わたし」だと思っているものは、当に何ものでもない「わたし」であるのか、いつもわからなくなります。  わたしは、今、朝鮮舞踊とチャンゴを習っています。舞踊のほうは、今年で四年目で、チャンゴの方は、習い始めてまだ一年しか経っていません。どちらも難しいですが、でも、習い始めてよかったと思っています。踊りを習い始めたきっかけは、オモニたちのように「オッケチュム」を踊れるようになりたいな、そして、わたしも、オモニたちと一緒にほがらかな顔で楽しく「オッケチュム」を踊りたいな、そう思ったことでした。「オッケチュム」は、オッケ(肩)をつかって自由に踊る踊りで、もともとは、どこかに習いに行くというような、形式ばったものではないように思います。むしろ、そういう形式性とはもっともほど遠い、ひとりひとり

    mojimoji
    mojimoji 2009/04/04
    「それは、わたしが「在日」だから、どうしようもなく舞踊に憧れ、チャンゴをたたきたいと思ったのだと思います」を民族主義的だとはまったく思いません。
  • 前回の記事のブクマコメントに答えて - Arisanのノート

    前回のエントリーに寄せられたブクマコメントに、いま答えられる範囲で答えます。 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090330/p1 まず、mujigeさん。 植民地主義が清算されない限り、すべての日人は植民地システム(朝鮮人を否定する集団の論理)から抜け出すことはできない。とすれば、“善意の介入”であれ、それは朝鮮人の自己決定権を否定するものでしかない。 「善意の介入」であっても、たしかに暴力です。それは否定しません。 しかし、植民地主義が清算され、日人が「朝鮮人を否定する集団の論理」から抜け出せなければ、朝鮮人の「集団の論理」の悪い効果を批判することが出来ないとは、ぼくは考えません。 その理由は、エントリーの中に書いたと思います。 この「介入」が具体的に、どういうものであるか、ぼくには言うことはできま

    前回の記事のブクマコメントに答えて - Arisanのノート
    mojimoji
    mojimoji 2009/04/04
    ○○人であるより先に、個人でしょう。誰でも。そのことは、○○人であることと完全に両立しますし、誰もそんなこと否定していないのです。