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ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (63)

  • 沖縄県公安委員会に電話してみました - モジモジ君のブログ。みたいな。

    選挙が終わるや否や、安倍が全国の機動隊を高江に派遣し、現地が騒然としていることは皆さんご存知のことと思います。まぁ、なんともえげつない話です。野蛮な国だと思います。警察が国家権力の忠実な手足となっているわけです。 ところで、警察がこのように国家権力の犬となってしまっては、困ります。警察には政治的中立性が要請されるわけです。そこで、警察に対して管理・監督する行政委員会・公安委員会が設置されていて、警察に対する苦情を受け付けたり、諸々そういう仕事をやっています。……もちろん、事実、警察は国家権力の犬そのものなわけです。なぜか。公安委員会がまともに仕事しないからです。 公安委員会の仕事の一つに「警察庁や他の都道府県警への応援要請」というのがあります。問い合わせた人によると、警視庁は「沖縄県警の要請に応じて派遣している」とのことですが、正確には、沖縄県警が直接に要請することはありません。沖縄県公安

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    mojimoji 2016/07/20
    政治的中立性の解釈がカギ。まあ、現状では日本の司法の判断では酷い判断しか出ないけど、それでもここは争っていかないといけない。
  • 文脈依存的な多義性の悪用について - モジモジ君のブログ。みたいな。

    まず取り上げるのは、一つのコメントである。「『判断の正しさ』について」の中で「ニュートンはまちがってましたけど」と記述したことに対して、「ニュートンの理論は適用範囲が狭まっただけで間違ってなんかいない」という(人が信じるところの)「ツッコミ」が入った。大変興味深いコメントだと考えるので、以下、検討の俎上にのせてみたいと思う。 一般的に、言葉は多義的である。それも「一つの語が互いに異なる複数の意味で使われる」というだけでなく、同じ用法に属する場合であっても、文脈によって意味は大きく変わることがある。これを「文脈依存的な多義性」と呼んで区別しよう。その上で、私が書いた「ニュートンはまちがってましたけど」という記述に含まれる「まちがい」の意味は、幾通りかの解釈の可能性がある。 最初に簡単な区別をしておこう。一つの解釈は「ニュートンの理論は、常に、偽なる予想を導く(A)」という意味で「まちがい」

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    mojimoji 2014/09/16
    セルクマ。id:Day-Bee-Toe さんへのラブコール。がんばって自己批判してね。
  • 広域処理に賛成することは科学的態度と言えるか? - モジモジ君のブログ。みたいな。

    実は、震災がれき問題に関わっている間、「震災がれきを燃やすことは危険ですか?」という質問に対して、「危険です」と答えたことは一度もない。この直截な質問に対しては、原則として「わからない」と答えてきた。それでは、僕は何を問題にしてきたのか。安全性と必要性を問題にしてきたとは言えるが、正確に言えば、「政府の言う『安全です』『必要です』との主張の根拠には合理的な疑いの余地がある」ということだ。そして、政府が示している論理と証拠に対して、一つずつ丁寧に疑問を投げかけていった。環境省はおよそ何一つ答えなかったし、答える意志もなかった。 言うまでもないが、「危険です」と答えることと「(安全か危険か、危険だとしてどの程度危険か)わからない」と答えることの間には大きな違いがある。もちろん、「安全です」と答えることの間にも大きな違いがある。僕の立場は、実際に何が起こるかはわからないし、この点で確信的に言える

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    mojimoji 2014/09/15
    セルクマ。
  • 表現が私たちをつなげることができるのだとしたら - モジモジ君のブログ。みたいな。

    僕は、常々、できるだけわかりやすく語りたいと考えているし、できるだけおもしろく語りたいとも思う。耳を傾けてほしいからだ。しかし、もちろん、わかりにくくても大事なことに、おもしろくなくても大事なことには耳を傾けてほしいと願っている。 後者のメッセージはほとんど伝わらない。このメッセージを受け取ることは、多少の面倒くささをもたらすからだろう。気付かないのか気づきたくないのか、とにかく、この部分のメッセージはほとんど届くことがない。 ユーモアをもって語ることは、確かに、社会を大きく変えることがある。しかし、「ユーモアをもって語られていないことに耳を傾けない態度」、ここだけは頑として変わらなかった、変えることはできなかったのではないか。思い起こしてみてほしい。この社会で語られた当に大切なことの多くは、当に当に痛切な思いで語られていて、聴いているだけでつらく苦しく胸が痛むようなことではなかった

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    mojimoji 2014/09/11
    セルクマ。9.11という日付は、関係あるようなないような。
  • 「わかりやすさ」について - モジモジ君のブログ。みたいな。

    同じ話なら、できるだけわかりやすく話した方がいいと思うし、そのように努力することは大事だと思う。ただ、だからこそ、聞き手である人々は、わかりやすさの危険性について、もっと具体的に考えておいた方がよいと思う。 人は、気づいていないことには、気づいていない。そのことに気づくことは、決してわかりやすいことではない。ちょっとした違和感を感じて、少し足踏みをするように考えて、ジワジワとの気づいていなかった「何か」の姿が見えてくることもあれば、あるヒラメキとともに「何か」が見えてくることもある。いずれにせよ、「気づき」と「わかりやすさ」は別のものだ。 だから、次のことに注意する必要がある。もし、あなたが「わかりやすさ」を基準にさまざまな知識や考え方を求めているなら、あなたの気づいていないことに気づかせる「何か」に出会う可能性は、その分だけ、低くなる。 この「何か」は、まだ気づいていない盲点にある、とい

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    mojimoji 2014/07/28
    セルクマックマ。
  • 7月20日だから書いておきたいこと - モジモジ君のブログ。みたいな。

    占領下パレスチナを題材にしたドキュメンタリー映画「プロミス」にて。映画の中で、イスラエルとパレスチナの両方の少年たちが、一日一緒にサッカーをしたりして仲良く交流する。その後で感想を聴くシーンで。イスラエルの少年が交流を通じての和解の可能性を語っていたのに対して、パレスチナの少年は別の感想を抱く。「仲良くしたい。でも、仲良くしちゃいけない気がする」、文言は正確ではないが、パレスチナの少年はそのようなことを言った。 当時、「イスラエルの少年は寛容だけど、パレスチナの少年の方がよくないね」と感想を言った人もあって驚いたけれど、もちろん、これはそんな話ではない。パレスチナとイスラエルの間を隔てる検問所。分離壁。イスラエルによってほとんど一方的に振るわれる暴力の数々*1。それらの非対称な関係をどちら側から見ているのか。それが少年たちの発する言葉の違いに現れているのだろう。問題は仲良くするかどうかでは

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    mojimoji 2014/07/20
    更新しました。販促セルクマ。
  • 新宿の焼身事件について - モジモジ君のブログ。みたいな。

    今日、新宿駅で、安倍政権による集団的自衛権容認への動きに抗議して、男性が焼身自殺を図ったという。その後、亡くなったという話は聞いていない。とにかく命をとりとめたなら、そのことは良かった。 「焼身自殺(未遂)」という行為を、持ち上げることも貶めることもしたくない。自分もやりたいと思わないし、他の誰にも真似してほしいとも思わない。しかし、少なくとも言えること、言わなければならないことがいくつかあると思う。 当たり前のことだが、男性が「身を焼いた」ことは、男性の主張が正しいことをまったく意味しない。関係がない。しかし、私たちは重々承知しているはずだ。安倍が進めている集団的自衛権容認への手続きは、ありとあらゆる嘘とゴマカシに満ちており、今すぐやめるべきだということを*1。つまり、男性が身を焼いた事実とは無関係に、男性の安倍政権への批判は、正しい。 にもかかわらず、この正しさ=安倍政権の欺瞞をめぐる

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    mojimoji 2014/06/30
    更新しました。
  • 『美味しんぼ』問題で明らかになったこと - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「美味しんぼ」が明らかにした論点は、鼻血が科学的にどのような意味を持つかという点だけではない。 行政が、自覚症状の訴えに関する系統的な調査をまったくしていないこと。そもそも、がれき焼却にせよ低線量被曝にせよ、危険性を明らかにするような調査は原理的に困難であること。そのことを承知の上で、がれき焼却を強行し、除染の効果を検証もせず、性急に汚染地域への帰還を推し進め、汚染材の流通を野放しにする等していること。これらの重大事項が、「美味しんぼ」で紹介されている大阪の母親たちの聞き取り調査の方法論に関する科学的な批判と同列に並べて良いものかどうか、真剣に考えるべきだ。 僕は大阪のあの調査を根拠として何か科学的な主張をするつもりは、少なくとも当面はまったくないけれど、しかし、あの調査の不十分さを批判する資格のある人間は、少なくともこの日にはいない、このことは断言する。仮に批判をするならば、その数百

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    mojimoji 2014/05/18
    セルクマ。はてダに、ちょっとだけ復帰してみる。
  • ハルキも泣かずば撃たれまい - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、村上春樹。>村上春樹さん、ノルウェーで講演 執筆も「ワクワク」@asahi.com 主人公が、月が二つある現実がねじれた世界に紛れ込む物語「1Q84」の発想について聞かれ、9・11テロを引き合いに出し、「ビルが破壊される映像は完璧(かんぺき)すぎてコンピューター・グラフィックスのようだった。この世界とは別のところに、違う世界があるにちがいないと感じた」と説明。「9・11が無ければ、米国の大統領は違う人になり、イラクも占領しない、今とは違う世界になっていただろう。誰もが持つ、そうした感覚を書きたかった」と話した。 まぁ、ペラいよね。世界的な小説家であるとは信じがたいほど。昔、エルサレム賞スピーチを擁護した経緯もあるので、落とし前をいくつかつけておく。 9.11の衝撃 僕も9.11のときには衝撃を受けた。ハルキと似たような衝撃もそこには含まれていたことは認めるが、それは最初の2、3日だけ

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    mojimoji 2010/08/25
    村上春樹のスピーチ@ノルウェーに。エルサレム賞騒ぎからは1年半も経ったのだな。/追記:何を「不遜」と言っているのか、それによって何を言っているのか、読めてない人がチラホラ。大丈夫?
  • 当事者主義だけではダメなんだろうな - モジモジ君のブログ。みたいな。

    Arisanの分析。>「排除する政治」@Arisanのノート ここに続けて。 元々、民主党というのは寄り合い所帯で、統一的な政見などない。個々のメンバーは民主党そのものの党勢を考えるようにはできていない、つまり、民主党内の保守層が「党利党略を超えて」、社民的なものを政治の場から排除するべく画策した、と考える必要がある。民主党右派というのは、その路線を実現するために、民主党左派の存在を仮面として、まるで社民主義的なもの「も」代表するかのごとく擬態しているだけだ。 ともかく、辺野古回帰案のような暴挙が出てきた以上、社民党としては罷免されるまで抵抗→連立離脱は鉄板。連立に未練を残すようなスタンスこそが、ここでは害悪だろう*1。その上で、現在のターンに注目すべきは、民主党左派のグループだろうと思う。 で、以前から危惧していることなのだが、民主党左派のほんとどはシングル・イシューの人だというところ。

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    mojimoji 2010/06/01
    id:nagonaguさん、その点はおっしゃる通りですね。「はめられた」というより「地金が出てきた」という方が真実には近いのかもしれません。
  • 「時間厳守」はみんなのもの - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117 http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117 あまりまとめずに書く。──わざわざ説明するのも興がそがれるけれど、「「時間厳守」はみんなのもの」とは、「みんなの義務」という程度のことを言っているのではないし、「みんなが守ればみんながハッピー」などと言っているのでもない。 自立生活してる障害者の介護に入っていたのだけど、介護者が交代の時間を守らないと、あらゆる人の予定が狂う。場合によっては、命に関わる。不測の事態というのはいくらでもあるので(そして、それぞれの人のメンタルの問題も含めて、不測の事態というものを相当程度広く取ることも必要だということは認めた上で)、それに対処するためのある程度の余裕は作っていく方がよい。

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    mojimoji 2009/11/22
    つっても、時間はともかく〆切守れなくて迷惑かけることの方が多いのだが。説得力nothing。orz
  • なにが暴力か/なにを暴力とみなすのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091008 面倒なんで、記憶に頼って書くけれど。 追記。なんかおもしろいトラックバックが来た。>http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091009/p1 暴力の原イメージが直接的暴力であるのはそのとおり。その上で、直接的暴力だけを問題にすれば、人が平和に暮らせるうまいやり方を考えることができるか。できない。どうしてか。直接的に殴られているわけではない場合でも、人の生命が危険にさらされていることはあるし、そこに作為や怠慢が働いていることもある。たとえば、人を殴り倒せば直接的暴力だけど、飢えている人にべ物を「与えない」ことも、直接的暴力と同じように人を傷つける。こうして、直接的暴力とは異なるけれども、暴力と同様に人を傷つけたり破壊したりする構造を「構造的暴力」として問題化す

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    mojimoji 2009/10/09
    形式の違うそれぞれを「暴力」とまとめる問題意識の話をしてるのに、自分の問題意識ではそれが不要と言い張り続ける人たちって。何を目的に他人の文章読んでるの?/id:Yogokoro、本音ぶっちゃけ過ぎだろ(笑)
  • 排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090929/p1の続き。たとえば、「「暴力」の意味がブレてる。暴行・障害罪等の意味で取れば思想は関係なくなる。排外主義を暴力的思想として批判するなら暴行・障害罪とは別の話。殴らなくても排外主義だが、暴行・障害罪にはならない」みたいな意見がバカげている、ということについて。 「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で、まったく等しく、暴力です。では、どうして一方に対しては法で取り締まられ、警察・監獄に象徴される制度化された対抗暴力が発動されるのに、他方に対してはそうではなく、ほとんど何もなされないのか。それは、少なくとも、暴力としての程度が小さいからではありません。程度の大小について何かを言える根拠などどこにもありません。 直接的暴力は、行為であり

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    mojimoji 2009/10/04
    法が切り縮めた暴力概念を元に戻して考えましょう。みたいな。>id:anigokaさん
  • 排外主義それ自体が暴力です - モジモジ君のブログ。みたいな。

    そして、動画につけられたブックマーク。*1 ブックマーク・コメントを見ると、「思想はどうあれ、暴力はよくない」的な主張が散見されるが、これはどういうことか。在特会の排外主義プラカード&シュプレヒコールは、在日外国人にとっては直接の恐怖だ。常野氏に対してふるわれた暴力に勝るとも劣らない暴力、どっちかだけ批判とかありえない。 元々、薄く広がる無自覚な排外主義は日社会の隅々にある。そういう排外主義的な主張に接しても「事を荒立てない」「大人の」態度が当然とされる。その一方で、近年の右傾化を経て、音ダダ漏れ化が進行、春先のカルデロンのり子さんの問題が持ち上がった頃、「当事者の生活空間に押し寄せて排外主義の主張を行う」という特異なデモが企画されたあたりから、具体的に目に見える形を取り始めた。それから、今回の事件。排外主義者のデモに対して「排外主義反対」の紙切れ(即席プラカード)を掲げた男性に対する

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    mojimoji
    mojimoji 2009/09/30
    id:hokusyuさん、ナイーブな共和主義者さんには、「在日外国人と社会契約を結ぶつもりはない」とわかりやすく明言しておいてほしいな、とは思うわけです。
  • ヌルさについて - モジモジ君のブログ。みたいな。

    えーと。 頼れる大人もいなくて、もちろん経済的にもたくさん苦労して、殴られたり蹴られたり、放置されたり、あるいは支配されたり、生まれる前になんか悪いことでもしたんかというくらい不運な環境に生まれてきてそこで育って、とにかく年だけは重ねて。そんな風に大人になる人がいて。で、そんな風にして育った人が、同じように大変な酷い目に遭いながらとにかく年だけは重ねるように大人になった人から、さらにまた酷い目にあわされたりして。そんなことは実際にある。……とりあえず、した方をA、された方をBとしておく。 そんな苦労がこの世にあることも知らずに育った人ならば、そんな二人を前にすれば言葉を失うだろう。なんにも気にしない奴がいるとすれば、そいつはおかしい。 しかし、言葉を失うとして、で、言葉を失ったままウンウンうなるままなだけでいいわけ?そんなわけはないだろう。やはり、考えて、これまでどんな目に遭わされてきたと

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    mojimoji 2009/09/23
    第三者の沈黙を問題にすると、当事者の沈黙という問題を否定したことになるわけですね。id:letterdustさんの読解では。で、僕は「気楽」であると。なるほど、すばらしい。
  • 行為への欲望を擁護する - モジモジ君のブログ。みたいな。

    まぁ、無理だ無理だと言いなさんな。こここそ、擁護しておかねばならんことのはず。 陵辱表現であっても、必ずしも陵辱する側に感情移入してるわけではないとか、性に対する罪悪感と性的欲望の一つの結合のあり方であるとか、陵辱表現に対する欲望は(確かに)さまざまにありうる。その意味で、陵辱表現への欲望と陵辱行為への欲望は、必ずしも重ならず、表現を欲望する人たちの姿はずっと多様。それはそう。 ただし、陵辱行為への欲望とほとんど区別つかない形で陵辱表現を欲望している人というのは、ホントにいる。そういう人はいて、じゃあ、そういう人は救いようがないのか。死んでもらうべきか。そんなことでもない。 こういう人にとって陵辱表現はどのような意味を持つか。ガス抜きになるか。なる面もあるかもしれないが、むしろ、こういう欲望を強化するような面もあるかもしれず、私見では、後者の方が強い気がする。じゃあ、表現自体にアクセスでき

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    mojimoji 2009/06/15
    結局、陵辱行為を欲望する心性を肯定するだけの覚悟はないんか、おのれらは。しっかりせい。/結局のところ、陵辱表現への欲望を一番軽蔑してたのは誰なんだろうね。/お望みなら残しとくよ。
  • いしけりさんへのコメント - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/barcarola/20090613/1244917026 度々言及ありがとうございます。 あまり長くならないようにしたいですが、いくつか。 第一に。国家権力の怖さは、直接介入だけでなく、私的権力行使の黙認という形でも実現されます。強制退去だけでなく外国人排斥デモの容認によって。女性に対する権利制限・教育によってだけでなく、私的表現の流通によって。格差問題や公害問題などで、国家による資管理によってではなく、私企業に対する国家介入の制限によって。ですから、憲法でさえ、「個人を国家から守る」というにとどまらない側面を持っています。 かつて、マッキノンの主張をいろいろ読んだことがありますが(そして、とても賛同はしませんが)、それでもマッキノンへの反論には首をかしげざるをえない、と結論しました。直接介入の危険性が語られるときに、私的権力を通じて実現され

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    mojimoji 2009/06/14
    id:y_arimさん、とりあえず、その理解はまったく違う。/id:triggerhappysundaymorning、落ち着いてよく読め。
  • 「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があのに冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ

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    mojimoji 2009/06/11
    つまりは、表現の自由より先に、自分の表現それ自体を擁護しなよ、という話なわけですが。
  • 連想ゲームをしているのではありません - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「固有性の棄却」 いろいろ来てますが、まぁ、一つずつやってくしかないですね。 今更こんなことを書かれるのであれば、一度、発端の記事に戻って検討して見せるしかないですね。>http://d.hatena.ne.jp/F1977/20090331/1238475336 (A)昔から、「民族意識をもて!」とか「民族の誇りを持って生きろ!」と言われることがとても嫌いでした。わたしは、「民族」である前に、ひとりの個人であるし、もし、何か誇りを持って生きることが「立派」で「正しい」ことなのだとしたら、それは「民族」としてではなく、ただの「個人」として誇りを持って「正しい」生き方をしたい、そう思っていました。だから、「民族」「民族」と、わたしに「民族」を押し付けてくる、一部の同胞の社会や人たちを敬遠していました。今でも、その思いはあまり変わりません。 (B)ただ、そういう人がなぜ「民族」「民族」と言って

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    mojimoji 2009/04/06
    id:F1977サン、僕は「傷つけない」を物理的暴力の意味でしか言ってません。/そういうロジックで行われる「場からの具体的排除」が問題ということ。物理的暴力では狭すぎますね。言い換えます。>id:mujigeさん
  • 「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    主に、「個人と民族主義」について。 「個人に依拠せよ」の意味が取り違えられていると思うので(無理もないことですが)、そこから始めたいと思います。 「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」 僕は「個人に依拠せよ」と述べました。「いかなるアイデンティティの基盤とも関係のない無色透明の個人」みたいな理解をしている人が多々いるので、それは誤解であるとハッキリ申し上げておきます。僕が「個人」に依拠せよというときに述べているのは、私の身体、私の生活、私の関係性、すなわち、私の生の現実に依拠せよ、ということです*1。それが民族主義者の言う模範的形式にしたがっているならば、それをそのままに、したがっていないとしても、それをそのままに。「そのままに」です*2。これは抽象的なものでも透明なものでもありません。民族主義が要請する規範などより、遙かに具体的で現実的なものです。生きられている現実そのままなので

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    mojimoji
    mojimoji 2009/04/04
    そもそもは民族性を擁護することと民族主義を擁護することの区別の話です。>id:sharouさん