【ミラコスタ】シーの中で買ったダッフィーを部屋にテキトーに置いてたら、係の人がベッドメイキングしてくれた後こうやって枕元に置かれてた。感動。こういうちょっとしたサービスでものすごい幸せな気分になれちゃう。
これは4年前の2008年5月20日付の記事です。 ■GMOインターネット、オンライン広告のNIKKOを連結子会社化 前日の5月19日15時にGMOからリリースが出て、この20日の朝、全社員の前で状況を説明しました。記事の通り、第三者割当によるNIKKOへのキャッシュインでした。 8月25日の株主総会で取締役会長を退任しましたが、実質的な最終出勤日は地味に荷物を運び出した5月23日金曜日でした。その日を最後にするつもりってことを言わずに机を離れたので、いつものように軽く『おつかれさまです』と会社を出ました。 もう4年経つんですねぇ。 当時よく周りから『EXITおめでとう』とかいわれました。でも会社への第三者割当でしたから。なんも個人的な入金はありません。 ま、たしかに2年にわたり続いていた個人的な経済危機・自転車操業からは脱出できましたけど。 本人としては愛してやまなかった会社の経営からの不
熟達者がそれを作り、初学者がそこから学ぶ。それがマニュアルに対する認識だった。 組織においてはそれが逆ではないかということを、ある話を聞いて思った。 ディレクターは自ら手を動かして仕事をしてはいけないという。彼がやるべきことは指示と判断であり、その際にはマニュアルが必須なのだという。マニュアルは本当は、熟達者のためにある。熟達者は、マニュアルから引用し、指示を出す。相手の仕事に対しても、マニュアルに従っているかどうかによって、判断を下し、伝える。もちろん熟達者なのだから、マニュアルに書いてあるような内容は熟知しているし、そんなものをいちいち見なくても同じく指示や判断をくだすことはできる。しかし、それはやってはいけないことだという。 組織において、そこで行き来する指示や連絡が、個々人の好みにすぎないのか、あくまで仕事としての割り切った判断なのか、それが明解であることはとても大切だという。たと
授業で習った吉田松陰は、松下村塾を開いた聖人君子のイメージかもしれないですが、とんでもない。彼は相当クレイジーな人間だったんです。 吉田松陰はこの人。 多少厳しそうな眼差しをしつつも、偉人らしく穏やかに見えますが、この人の人生は無茶の連続でした。 たとえば、21歳の時、松陰は親友と東北旅行を計画します。しかし、自藩の長州藩に申請した通行手形がなかなかもらえず、友と約束していた旅行日に間に合いそうにありません。 そこで彼はどうしたか? しょうがないので、松陰は死罪覚悟で脱藩します。 いくら目的が東北の海防調査という意義深いものとはいえ…。 旅行の約束をした親友・宮部鼎蔵(みやべていぞう)も正直ドン引きしたと思います。 ちなみにこの方、後に池田屋事件で新選組に襲われ自害します。 さて。吉田松陰 23歳の時、黒船が来航しました。 当時は鎖国まっただ中。武士も農民も、畏敬と好奇の目でアメリカ艦隊を
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