タグ

ブックマーク / manba.co.jp (19)

  • 齋藤なずなインタビュー(代表作『ぼっち死の館』『夕暮れへ』)【幼少期編】神様にお願いした夢 | マンバ通信

    「老人の生態漫画を描いている!」「生態というか…かなり死んでいく!」「これは新しい!いや、古い!いや、かえって新しい!」…などなど、とにもかくにも令和の時代の最先端、77歳漫画家、齋藤なずな先生なんであります。謎が多い。なぜ40歳デビューなのか。なぜ77歳で活筆なのか。なぜこんなに面白い漫画を作れるのか。取材班は、甘いケーキときれいなお花を手に、雨降る中をバスで突っ切って停留所を降り、東京の奥深い土地にある団地=ご自宅を急襲。にゃー、にゃー、にゃー、ニャンコが女主人をガードする中をなんとかかいくぐって、生の声をインタビューしたのであった。「顔編」「編」「幼少期編」の3回に分けてお送りします。(顔編はこちら)(編はこちら) 取材/文/撮影:すけたけしん 着ている服がたまたま似ている。 色々と(命が)流れてくるのですよ ──先生は、空を見る時間と水を見る時間がどちらが多いですか。 それは何

    齋藤なずなインタビュー(代表作『ぼっち死の館』『夕暮れへ』)【幼少期編】神様にお願いした夢 | マンバ通信
  • 齋藤なずな『ぼっち死の館』小学館【夏目房之介のマンガ与太話 その18】 | マンバ通信

    【図1】齋藤なずな『ぼっち死の館』小学館 2023年 表紙 高齢者にはグサッと来るタイトル。作者は齋藤なずな。何となく想像はつくし、まさに想像通りの作品でもある。主要登場人物すべて独居老人で、彼らの住む団地周辺だけで話が進む。同じような年齢になった私には、もはや「あるある」の話である。そもそも「ぼっち死」は、私なども心のどこかで覚悟せざるをえない事態で、いつそうなるかわかったものではない。とはいえ、作はけして悲惨な物語ではない。地味~な当たり前の日常が、地味~に描かれる。ただ、そのいちいちが身につまされる。独居老人の男性が書く「購入品リスト」のメモなんて、私も日々生産している。あ~あ、とか思いながら読んでしまう。 【図2】同上 P.118 こんな地味な話を読者に読ませる作家の力量は凄い。そして、私には確実に身の内に残る作品となった。老人を描いた漫画はけっこうある。海外でも同様の漫画はある

    齋藤なずな『ぼっち死の館』小学館【夏目房之介のマンガ与太話 その18】 | マンバ通信
  • 期待以上に面白かった。特に女の子出てくるシーンでグッと...

    フランスで先行大ヒットの超SFということで楽しみにしていた新連載。日のマンガと海外マンガのいいとこ取りしたようなお洒落な絵でスゲー好き。 あの鳥脚の女の子がメッチャ気になる。 【1話のあらすじ】 フランスの死刑囚たちは功績を上げれば滅罪するという約束のもと、260年前に核対戦で崩壊した旧日から、戦争の引き金となった秘密兵器「TORATSUGUMI」を回収する任務を追う。 日上空で輸送機に異常が発生し主人公は機体から放り出されるが、そこで小さな人のような謎の生物の群と、鳥の足を持つ人間の変異種の少女を発見する。 https://twitter.com/ippatu358/status/1353479446712344581?s=20

    期待以上に面白かった。特に女の子出てくるシーンでグッと...
  • 『動物のお医者さん』読まれてないんじゃないか疑惑について | マンバ通信

    「若い子たち『動物のお医者さん』(佐々木倫子)のこと全然知らないんですよ!」 という話をちょっと前に小耳に挟みまして、それからずーっと気になってたんです。ほんまかいなと。そんなことありえるんかいと。なぜなら僕のスカスカの脳内マンガランキングで『動物のお医者さん』は、『ドラゴンボール』級とは言わないがTOP10に余裕で入る作品であり、誰でも知ってる傑作マンガと思っているからなんですね。 だって『動物のお医者さん』が大ブレイクしていた頃(大ブレイクしてたんです)、街を歩けばそこらじゅうにシベリアンハスキー(同作品の主役犬チョビの犬種)を見かけたじゃないですか。 『動物のお医者さん』 佐々木倫子(白泉社) 寒冷地に強く夏に弱かいとか、半端ない運動量が必要な犬種ゆえに、ちゃんと飼えない人たちがわんさと登場して、社会問題化したりとかもしてましたよね。あんなにデカい、般若ヅラの犬がうじゃうじゃいたんで

    『動物のお医者さん』読まれてないんじゃないか疑惑について | マンバ通信
    navix
    navix 2018/12/01
    “『動物のお医者さん』は、ラボの面白さを描く端緒となったものであり、しかもその面白さをいきなり真芯で捉えて大ホームランをかっとばしたマンガだと思うのです。 大学ってすっげえ面白そう……と”
  • 『二つの「この世界の片隅に」』extra | マンバ通信

    柄 闇市の帰りにいつの間にか帰り道がわからなくなってしまったすずは、遊郭の中に迷い込み、そこで初めてリンに出会う。初対面の二人は、原作のマンガ版で、ちょっと気になる会話を交わす。 リン「あんたもよそから来んさったんじゃろ 広島?」 すず「ほうですけど 何で!?」 リン「うちも広島に居ったんよ そんとな柄の入った着物を持っとったけえ なんとのうね」 リンは、古いよそいきをアッパッパに直したすずの服を指でさして「広島で流行った柄なんじゃろか」と不思議がる。 (『この世界の片隅に』中巻22ページ ) 初めて読んだときは、さして不思議にも思わず読み過ごした会話だが、読み終えてから改めて『大潮の頃』を見直していて、ようやくあっと気がついた。 すずのアッパッパは、すずが子供の頃、草津のおばあちゃんが仕立ててくれた着物なのだ。そして、着物の布は少し余ったらしく、おばあちゃんの道具箱に収められている。 (

    『二つの「この世界の片隅に」』extra | マンバ通信
    navix
    navix 2017/10/06
    「アニメーション版を何度か見直すと、手前ですいかの皮をしゃくっているざしきわらしと、部屋の奥にいるすずとは、まるで姉妹のように同じ柄をまとってやりとりをしているのに気づいて、(略
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(10)爪 | マンバ通信

    爪のあるなしは、登場人物の印象を決定づける。たとえば、萩尾望都描く「ポーの一族」のエドガーやアランの指先に爪があったら、彼らの散らすバラは全く異なった意味を持っただろう。山岸涼子「日出処の天子」の厩戸皇子が爪を持っていたなら、その手先から発せられる霊性はまるきり失われてしまっただろう。逆に、岩ナオの「金の国 水の国」から爪を取り去ってしまったら、サーラやナランバヤルの手先に宿るこの世とのつながりは失せ、A国とB国はのっぺりとした平面になってしまうのではないだろうか。 一つのキャラクターが常に爪のあるなしを保っているとも限らない。たとえば手塚治虫の描くブラック・ジャックは、ふだんはゴム手袋のような爪のない手をしているが、ときおり指先に爪が描き込まれ、繊細な力の方向性を示したり、医者としての威厳を感じさせることがある。さまざまな作家がどの作品のどんな登場人物にいつ爪を描くかを子細に論じていけ

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(10)爪 | マンバ通信
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(18)「バケツの宿」(最終回) | マンバ通信

    原作とアニメーションの相違の中でも、もっとも気になる箇所の一つが「水鳥の青葉」の中でのすずの台詞だ。原作ですずがリヤカーを押しながら刈谷さんに語りかけることばは次のようなものだ。 生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居ってものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね (下線は筆者) 原作では、この「記憶の器」ということばが大きな鍵となっている。それが何を意味するかを考えるために、花見の頃、リンが桜の樹の上ですずに言った次のことばを思い出してみよう。 ねえすずさん 人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる それはそれでゼイタクなことかもしれんよ 自分専用のお茶碗と同じくらいにね (下線は筆者) リンのことばは、記憶=秘密の器としての人の生のことを語ろうとしている。リンにとって、「記憶」と「秘密」とが結び

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(18)「バケツの宿」(最終回) | マンバ通信
    navix
    navix 2017/06/13
    「すると、急に、晴美の笑い声がする。その声は、着底した青葉に浮力を与え、波のうさぎを呼び出し、水鳥の舞う空の領域へと船を丸ごと泳がせる。哲の「笑うてくれ」という声から哲の笑顔、そして晴美の」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み | マンバ通信

    「この世界の片隅に」でわたしたちがまず引き込まれるのは、幼いすずが船を下り、風呂敷を背負い直す場面だろう。わたしは原作を読んだときにまずこの小さな所作を描いた3コマに引き込まれたのを覚えている。 【図1】 1コマ目、すずは力まかせによっこらせと背負うのではなく、固い壁に風呂敷を壁に押し当てるという謎めいた所作をする。しかし2コマ目で、その所作にはちゃんと訳があって、風呂敷をちょうど肩に来るような高さに押し当てていたのだと分かる。なぜならそのコマでは、すずが自分の背中と壁とで風呂敷を落ちないようにはさんでおり、風呂敷の布の余った部分がちゃんと首の前に来て、すずはちょっとだけ壁に体重を乗せて(このコマの、足の位置の描き方が実に巧みで、胴体がわずかに壁側に押しつけられている感じが出ている)、落ち着いて風呂敷を結わえている。3コマ目で歩き出したすずの左足の下駄の裏は、この小さな一仕事を終えたあとの

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み | マンバ通信
    navix
    navix 2017/05/13
    「重力空間の中で重たいものを持つ小さな子どもに起こるできごとを、一枚一枚の差異に込める描画の巧みさ」
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(打ち上げ編) | マンバ通信

    前・中・後編でわたってお送りしてきた、片渕須直・細馬宏通のトークセッション。実はイベント終了後の打ち上げで、まだ二人の話は続いていたのです。そんなこともあろうかと、しっかり会話を収録しておりました。当日のイベント参加者も聞けていない初公開のトーク、じっくりお楽しみくださいませ。それにしても、居酒屋の会話とは思えぬ濃さ! 女性視点から見た「この世界の片隅に」 (打ち上げの酒場にて) 細馬 萩尾望都の名前が出てきましたけど、僕は監督が少女マンガを読み込んでるほうなのかと思ってました。 片渕 そうでもないと思いますよ。 細馬 僕の場合、少年チャンピオンを見て萩尾望都を知った後に、続きがあるわけですよ。「この絵は妹の部屋で見たことがあるぞ」と。そこから妹にマンガを借りたりして芋づる式に少女マンガに入り浸っちゃうわけです。こうのさんはそんなに少女マンガ独特の文法は使っていないけど、マンガ家の中では相

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(打ち上げ編) | マンバ通信
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編) | マンバ通信

    作品の細部にまでこだわって描写する監督・片渕須直。作品の細部を読み解こうとする研究者・細馬宏通。「この世界の片隅に」をめぐって、この二人のトークセッションが行なわれた。聞き手も受け手も、ものすごく細かいところについて語っていて、思わず「こまけー!」と声が出そうになるのだが、しかし読めば読むほど、原作も映画当に丁寧に作られた作品であることがしっかりと伝わってくるトークになっている。観客は原作と映画はすでに見ているという前提でのトークなので、未見の方はまず作品を味わってから読まれることをおすすめします。 (2017年1月28日、京都・立誠シネマで行なわれたトークセッションを再構成したものです) 「はだしのゲン」を2巻から読んだこうの史代 細馬 あの映画を拝見して、まず「監督はすごくマンガを読み込む人だな」と感じたんですね。それも単なるマンガ好きでパッパパッパ読んでるということじゃなくて、細

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編) | マンバ通信
    navix
    navix 2017/02/28
    逸話と薀蓄満載の濃厚対談。「原作と映画はすでに見ているという前提でのトーク」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(16)遡行 | マンバ通信

    フォーク・クルセイダーズの『悲しくてやりきれない』は不思議な構造を持った名曲である。取り立てて難しいコードやメロディがあるようには聞こえないけれど、流行歌によくある8小節ではない。4拍子で始まる前半は7小節、後半は7小節ののちにふいに「告げようか」と2拍子が差し挟まれて、また4拍子に戻る。あえて4拍子として数え上げるなら、7小節+9.5小節ということになる。なかなかに変則的だ。 そしてメロディ。わたしがとりわけ惹きつけられるのは冒頭の旋律だ。「胸に」の「に」。この粘りのある「に」の持続音によって、聞き手の精神はぐっと引き伸ばされる。その十分伸び切った精神に、「しみる空の輝き」という粒立ちのよいメロディが降ってきて、まさしく空の輝きを沁ませる。歌はいつの間にか水の上を滑るような推進力を得て、聞き手をやりきれなさへと誘ってゆく。悲しくて悲しくて、しかし、その悲しさを何度でもたどりたくなってしま

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(16)遡行 | マンバ通信
    navix
    navix 2017/02/22
    「(略)賛美歌、そしてクリスマスの光景は、アニメーション独自の演出だったのだ。アニメーションのすずは、きっと大人になっても、戦前の広島で見た、このクリスマスの光景を記憶しているに違いない」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(8)虫たちの営み | マンバ通信

    さて、正月早々、これはトリならぬ虫の話。 「戦争しよってもセミは鳴く。ちょうちょも飛ぶ。」 そう物語った19年夏のある日、すずは晴美がしゃがんで「ありこさん」を見ているのに気づく。二人はアリの行列をたどってゆくのだが、そのアニメーションの描写に、わたしは思わず笑ってしまった。アリの行きと帰りが描かれていたからだ。 (図1 『この世界の片隅に』中巻 p. 12) 原作のマンガでは、アリの行列は一列に描かれている。アリをマンガ的に描くときのお約束だ。しかし、アニメーションではアリは二列になっており、しかも片方は逆向きに動いている。さらにその片方をよく見ると、それぞれの小さなからだが何ものかを運んでいる。晴美とすずは、マンガでは一列のアリの向かう先をたどるのに対し、アニメーションではアリの行き帰り、すなわち収穫の営みをたどる。この間鳴っているコトリンゴの音楽は、ピアノ、木琴、弦のピチカートによっ

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(8)虫たちの営み | マンバ通信
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器 | マンバ通信

    アニメーション版『この世界の片隅に』を見ていると、マンガにそんなことが描かれていたのかと虚を突かれることがある。たとえば画帳だ。 19年5月、径子たちが街に戻って再び事の支度をすることになったすずは、刈谷さんから教えてもらった料理を試みるのだが、なぜか広島に帰ったときに描いた街のスケッチを広げており、めくると、続くページに調理法を描いた絵が現れる。この画帳は、すずが実家に帰ったとき父親にもらったおこずかいで買ったものだ。物資不足の時代だから、いくつものノートを使い分けるゼイタクはできなかったのかもしれない。それでも、街の景色も料理の方法も一つの画帳に収まっているのを見ると、すずの絵心の分け隔てなさが表れているようで温かい気持ちになる。すずにかかると、「かく」ことのもとですべてがそれぞれの価値を持っているかのようだ。 おそらくすずは事あるごとに、こんな風に身の周りのできごとを画帳にしたため

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器 | マンバ通信
    navix
    navix 2016/12/31
    「すずの右手が描く絵には、まるで手紙のように宛先がある」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(6)笹の因果 | マンバ通信

    「とりかへしのつかぬあやまちをおかして仕舞ひました」と主婦十九歳はがっくりしている。義姉の径子が様子を見に行くと、驚いたことにその主婦十九歳はずらりと並んだ端切れを前に、目を笹の葉のごとく三線にして「裁ち間違えた……」と俯いている… 【図1: 中巻 p. 74】 19年11月の回は、マンガ版『この世界の片隅に』の中でもとりわけ変わった構成をしている。まず、テキストは、戦前のお悩み相談の体で進む。義姉の径子は義妹について悩みを打ち明ける。「家事を任せてゐる義妹は大陸的性質です。殊におさいほうが大ざつぱで気になります」。この義妹とは、むろん、すずのことだろう。よく観ると、径子の着る割烹着の肘にも、もんぺの膝にも、地の柄とは似ても似つかぬ素っ頓狂な柄のツギがまつり縫いで当ててある。どうやらこれがすずの「大ざっぱ」な仕事らしい。 では、すず(主婦十九歳)はまったくの不器用なのか。そうとも言えな

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(6)笹の因果 | マンバ通信
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(5)三つの顔 | マンバ通信

    マンガ版「この世界の片隅に」の第15回、19年9月のこと。周作はうっかり家にノートを忘れ、すずが届けに行こうとする。普段着のまま出ようとするのを見咎めた径子にうるさく言われて、すずは着替えて白粉もはたき、すまし顔で出かける。着替えた服は、やはり径子にうるさく言われて着物から仕立て直した笹模様のもんぺなのだが、これは周作にというよりは径子に気を遣ってのことかもしれない(以来、すずのお出かけの服はきまってこの笹模様だ)。 鎮守府に来たすずはおすましした標準語の口調で「帳面をお届けに上がりました」と一礼して周作にノートを差し出す。出迎えた周作は「えっ」と驚いてからようやく「ああすずさんか」と気づく。 このやりとりを描いた一コマは、読者にちょっと謎をかけている。周作は、一瞬相手がすずであることがわからなかったらしい。では、なぜわからなかったのか。家では見せないかしこまった振る舞いゆえか、それともお

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(5)三つの顔 | マンバ通信
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(4)空を過ぎるものたち | マンバ通信

    『ぴっぴら帖』『こっこさん』『日の鳥』。こうの史代の作品で、鳥は特別な位置を占めてきた。『この世界の片隅に』に表れる鳥もあちこちで不思議な印象を残す。中でも読後、間違いなく読者の記憶に残る鳥は、サギだろう。 マンガの中でサギがはっきりと描かれるのは、意外にも中盤以降だ。19年12月、呉で久し振りにすずに再会した水原は、オミヤゲがわりに鳥の羽をすずに渡す。水原は南方の船上で、サギに似た鳥を見上げたのだという。マンガの片隅に記された注には「サギの中でも、チュウサギは冬を東南アジア、夏を日で過ごす渡り鳥なんだって」とある(この注が羽で始まる小さな工夫がまたぐっとくる)。しかし、故郷の広島での水原の記憶は違う。「のう……年がら年中、川へつっ立っとろう?」。おそらく南方で空を見上げた彼は、郷里でもある広島がひととき空を過ぎったような、奇妙な幻視の感覚に囚われたことだろう。幻かうつつか、水原の手元に

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(4)空を過ぎるものたち | マンバ通信
    navix
    navix 2016/12/31
    「こうの史代の談話によれば、鉛筆で描いた線は印刷にどう出るか予測しにくいから、一度コピーを取ることで濃淡を定着させる意味があったのだという(「この世界の片隅に」公式アートブック/宝島社参照)」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(3)流れる雲、流れる私 | マンバ通信

    マンガのことばはテキストで、アニメーションは声。 そう書くと、いや、マンガのセリフだって話し言葉ではないか、という反論がくるかもしれない。しかし、たとえ話し言葉であってもそれはテキストである。その多くは抑揚や強弱や速度、あるいは表情を欠いている。もちろん、?や!、あるいは太文字や書き文字による装飾によって多少の表情をつけることはできるし、そうした装飾付きのテキストから頭の中で誰かが話しているところを想像したり、実際に自分で朗読することもできる。しかし、そのやり方は読み手に委ねられている。 たとえば、「ほんらいはアニの役目でしたが風邪のため、わたくしが」というテキストがあるとする。これをわたしたちはどう読めばよいだろう。見たところ、何の変哲もない標準語だ。何の装飾もない。すらすらと、訛りのないことばで読めばよいように思える。 では、次の3コマを見てみよう。上のテキストは実は『この世界の片隅に

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(3)流れる雲、流れる私 | マンバ通信
    navix
    navix 2016/12/31
    「これらの、テキストには表れない微細な言語上の表現や感情表現が一気にきこえてきて、わたしたちは始まってほんの1,2分のうちに、のんの声がすずから発していることを体感する」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)「『かく』時間」 | マンバ通信

    マンガ「この世界の片隅に」には、「かく」場面が多い。鉛筆で、絵筆で、羽で。すずはかくことが好きだ。婚礼の日ですら、嫁ぎ先の片隅に居場所を見つけ、行李の前に座り込んで兄に絵入りのはがきを書く。祝いの席で出たべものをひとつひとつ鉛筆で絵に描いてから、「兄上のお膳も据ゑましたよ。せめて目でおあがり下さい。」とことばを添える。しかし翌朝、はがきの表に自分の名前を書き終えたすずの手がふと止まる。すずは新しい家族に尋ねる。「あのお………… ここって呉市…? の何町…? の何番ですか?」 「ぼうっとしている」すずは、嫁ぎ先の住所すら把握していなかったというわけなのだが、ここでわたしがなぜ「すずの手がふと止まる」と書けたかといえば、マンガのコマ運びがこうなっているからだ。 (『この世界の片隅に』上巻 80ページ) すずが表書きを書くコマはわずか3つにすぎない。けれど読者はこの3コマから、鉛筆の動きと停滞

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)「『かく』時間」 | マンバ通信
    navix
    navix 2016/12/31
    「水原のことばの中途で声の遠近を切り替え、そこに動く絵の短いカットを重ね、観客が耽溺するよりも早く消し去る絶妙なタイミングは、絵コンテ集を見るとあらかじめ精密に設計されていたことがわかる」
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(1)「姉妹は物語る」 | マンバ通信

    2016年11月、ついにアニメーション版『この世界の片隅に』が公開された。アニメーション好きばかりでなく、原作であるマンガのファンからも高い評価を受けている。2回あるいは3回観たという知人もいる。わたしは4回観た。名作であることは間違いない。しかし、名作名作と言っているだけでは飽き足らない。そろそろこの物語について、ネタバレも含めて自由に語りたくなってきた。 わたしはふだん、誰か一人の行為ではなく、行為と行為のやりとり、すなわち相互行為を扱う仕事をしている。だから、アニメーションで交わされる会話をきくときには、特定の誰かの声の魅力に聞き入るよりも、誰かと誰かの相互行為において彼らの声がどんな風にきこえてくるか、それを手がかりにアニメーションの受け手はその場面をどんな風に理解しているかが気にかかる。また、原作とアニメーションのどちらがよいか、ではなく、アニメーションが原作をどう翻案することに

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(1)「姉妹は物語る」 | マンバ通信
    navix
    navix 2016/12/31
    「アニメーションは、冒頭のエピソードを姉妹の会話に翻案することによって、この愉しみを、原作から掬い上げている」
  • 1