加藤周一と丸山眞男 日本近代の〈知〉と〈個人〉 [著]樋口陽一 / 学問/政治/憲法—連環と緊張 [編]石川健治 自民党改憲草案では、現憲法の「個人」という言葉が「人」に差し替えられている。些細(ささい)な違いとも見えるが、個人を基礎とする国家という近代の基本枠組みの否定となりかねないというのが、樋口陽一ら憲法学者たちの見解である。 戦後日本を代表する知識人たちと自らとの関係を述べた『加藤周一と丸山眞男』で、樋口は若き丸山の「弁証法的全体主義」という謎の概念に注目する。国家が個人をのみ込む全体主義と、欲望追求だけの個人主義との双方を批判し、個人は国家をつくるが、「しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持」すべきだと丸山は述べた。樋口は、これを、自らが重視するルソーの思想と結びつける。 単なる欲望の担い手たる「人」は、「市民」となって国家を構成することで、宗教や経済などの社会的圧力から解放さ
批評メディア論―戦前期日本の論壇と文壇 [著]大澤聡 本書の企図はある意味でシンプルだ。それは一行目に掲げられている。「言論でも思想でもよい。もちろん批評でも。それらの名に値する営為は日本に存在しただろうか?」。存在した、とも、存在しなかった、とも、著者はすぐには答えない。その代わりに、書名に冠されているように、とりあえず「批評」の一語に問題を代表させつつ、その歴史的な存立要件をひたすら掘り起こし、根本から問い直してゆく。発掘の現場となるのは、一九二〇年代後半から三〇年代中盤までの一時期、大正末期から昭和初期、いわゆる戦前期である。その理由は「現在もこの時点で構築されたパラダイムの只中(ただなか)に批評はあり続けている」からだ。しかし「獲得される成果の効力の射程は特定の歴史段階に局限されるものではない」とも著者は断言する。そうして膨大な資料と文献を駆使して、言説のメディアとしての「批評」の
書物の夢、印刷の旅 ルネサンス期出版文化の富と虚栄 著者:ラウラ・レプリ 出版社:青土社 ジャンル:産業 書物の夢、印刷の旅―ルネサンス期出版文化の富と虚栄 [著]ラウラ・レプリ 原題は『富か栄誉か』。中世から近代への移行期を、印刷産業を通して記述した「歴史ノンフィクション」である。舞台は16世紀の伊・ヴェネツィア、主人公は校正者。編集者である著者と重なる。 1469年、ドメニコ会修道士は「ペンで書かれた文字は純潔だが印刷は汚れている」と糾弾した。その頭越しに、ヴェネツィア政府がドイツ人に「書籍の印刷術」を遂行する特権を授与した時「近代への門を開いたのである」。俗語がラテン語に勝利し宗教改革の帰趨(きすう)が決まった。 近代は出版業の勃興とともに幕を開けた。直前のヴェネツィアは「イタリアの書籍の半数以上」が出版される「世界で最も豊かなところ」だった。「200ページほどの豪華本が26ドゥカー
外交ドキュメント—歴史認識 [著]服部龍二 本書は、歴史教科書、靖国神社の参拝や従軍慰安婦、河野談話や村山談話などの「歴史問題」について、日本外交の視点から、政策の決定過程をたどる。1980年代以降の中国や韓国との関係を中心に振り返り、共有できる議論の土台を作ろうとしている。 首相の名前を冠にした「談話」も、本人の熱意に牽引(けんいん)されてはいるが、個人の心情の表現ではない。「村山談話」の経緯からは、政治家や官僚など多くの意見から練り上げられていることが分かる。ただ、「対外関係における言葉の重みを政策に活(い)かした」成功例とはいえ、国会で審議もせず、国家の見解として国際的に大きな影響力を持ちえてしまう危うさも感じる。 戦後70年にあわせて安倍晋三首相が出す「安倍談話」に注目が集まる。「歴史認識」は外交の利害調整でもあるだけに、片方の完勝は難しいと指摘する。提言は書き込まれていないものの
■歴史家の作業に感動する 文庫や新書で、歴史ミニ知識が、わかりやすい短いストーリーでいっぱい収録されて、一冊読むと物知りになったような気にさせられるという本はけっこうある。この本も、つくりとしてはそうなのだが、中公新書であるからもっと専門的で、東京大学史料編纂所の学者が読み込んだ資料の中からとっておきを紹介している。一冊読み終わって「物知りになれた」というよりも「自分は歴史のことなど何もわかっていなかった……もっと歴史に対しての考えを深めねば……」という気持ちになる本だった。 といっても読みづらい、難解である、なんてことはない。一つの話がだいたい4、5ページで、まったく未知の世界のことでもするする読めてしまう。 最初に紹介されるのが「正倉院文書は宝の山」というものだ。そりゃ正倉院の文書なら宝だろうと思って読んでいくと、その総数は1万5千点とも1万点以上ともいわれて、「役所でいらなくなってゴ
ジョン・レディ・ブラック 近代日本ジャーナリズムの先駆者 著者:奥 武則 出版社:岩波書店 ジャンル:エッセイ・自伝・ノンフィクション ジョン・レディ・ブラック―近代日本ジャーナリズムの先駆者 [著]奥武則 本書を読み進むうちに、ジョン・レディ・ブラックという英国人の生き方に強い共感がわいてくる。ジャーナリズム史研究者はこの新聞人の名を知るだろうが、一般にはほとんど知られていない。 しかし明治期の新聞人やジャーナリズムの先達たちは、この英国人を先覚者の一人に加えている。著者もそのことで関心をもったという。ブラックはスコットランドの地域社会では名門の家に生まれ、学校教育のあと、オーストラリアにわたる。実業家として成功するが、やがて歌手に転じ、インド、上海などを回り、長崎にやってくる。このエネルギッシュな人物に、近代日本の新聞事業に名を残す英国人経営者が目をつけ新聞事業に引き込むのである。 ブ
■ゆらいでいるのは米の覇権 国家は今後どうなっていくのだろうか。たとえば2014年をふりかえるだけでも、ロシアによってクリミア半島が編入され、ウクライナ東部でも親ロシア派勢力によって新政府の独立が宣言された。スコットランドではイギリスからの独立をめざす住民投票がおこなわれた。中東ではイスラム教スンニ派の武装勢力によってシリアとイラクの国境線をまたぐかたちで「イスラム国」の樹立が宣言された。昨年1年だけでも、これまでの国家の枠組みをゆるがすようなできごとが相次いだのである。 ただし、これらの動きを主権国家そのものの衰退ととらえることには無理がある。クリミア半島のロシアへの編入はあくまでも既存の主権国家への領土の編入であるし、ウクライナ東部の独立宣言も、国際的な承認はまったく得られていないとはいえ、新たな主権国家の独立宣言である。スコットランドの住民投票も、賛成多数にはならなかったものの主権の
京都に残った公家たち 華族の近代 (歴史文化ライブラリー) 著者:刑部 芳則 出版社:吉川弘文館 ジャンル:歴史・地理・民俗 京都に残った公家たち―華族の近代 [著]刑部芳則 明治になり、天皇は東京へ居を移すことになった。それに伴い、多くの公家華族が京都から東京に引っ越した。 しかし、京都(または奈良)に残った公家華族もいた。住み慣れた土地を離れたくないとか、高齢の親を介護しなければならないとか、それぞれに理由があった。政治の中心地(東京)と地理的距離があるゆえに、彼らはなかなか官職に就くことができず、困窮のあまり犯罪に手を出すものまでいた。もちろん、貴族院議員となって東京と京都を意欲的に往復したり、貴族の文化を熱心に次代に伝えたりするひともいた。 「京都に残った公家」が果たした役割、経済的実情や人間関係について、本書は詳細に分析論考する。狭い世界を研究対象にした本のように思えるかもしれな
言論抑圧―矢内原事件の構図 [著]将基面貴巳 東京帝大の矢内原忠雄教授が、雑誌での反戦発言などをめぐって辞職に追い込まれた事件(1937年)は、滝川事件、天皇機関説事件と共に、自由主義的知識人への一連の政治弾圧の一コマとされがちである。しかし著者は、歴史を複眼的に見る「マイクロヒストリー」の手法を用い、この事件のさまざまな顔を明らかにする。 矢内原の反戦論が、社会科学者としてよりも、むしろ敬虔(けいけん)な無教会派の「キリスト者としての使命感」から来たのではないかとの著者の指摘は、この事件が「学問の自由」だけにかかわるものでないことを示す。 矢内原失脚の要因として、所属学部内の勢力争いや、大学総長のリーダーシップの欠如などが指摘されてきたが、教授処分の権限がどこにあるかにつき、当事者間に誤解があったことが核心だと著者は述べる。大学が十分な自治能力をもたなかったからこそ、権力の介入を招いた面
松居直と『こどものとも』 創刊号から149号まで (シリーズ・松居直の世界) 著者:松居 直 出版社:ミネルヴァ書房 ジャンル:児童書・絵本 松居直自伝・松居直と『こどものとも』・翻訳絵本と海外児童文学との出会い [著]松居直 昔読んだ(読んでもらった)絵本についての記憶は、驚くほど鮮明だ。『ぐりとぐら』『どろんこハリー』『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』『おおきなかぶ』……。名前を聞いただけで、リズミカルな言葉と、ちょっとユーモラスな絵が、またたく間によみがえってくる。 これらの名作絵本をプロデュースしていたのが、福音館書店の名編集者だった松居直である。彼が見いだしてメジャーになった作家は、安野光雅、加古里子、長新太、寺村輝夫、中川李枝子、山脇百合子など数知れず。 この「目利き」は、幼少期に親しんだ日本美術と、文学や芸術に造詣(ぞうけい)の深い家庭環境によって培われた。むさぼるように展覧
文明と文化の思想 [著]松宮秀治 評者が漠然と感じていたグローバリゼーションなどの不気味さの正体を知らしめてくれたのが、前著『ミュージアムの思想』(2003年)と『芸術崇拝の思想』(08年)だった。第3弾の本書は、西欧近代の価値観の本質とその限界を解き明かしている。 西欧近代思想が世界を席巻したのは、神話的な根拠を失った善や正義に、「進歩」と「文明」「文化」という概念を通して、時代に即応するような「絶対性を与えることができた」からだと著者はいう。 著者によれば、「進歩」の観念に沿って「人間の世俗活動」を、物質的豊かさである「文明」と、精神的内面的活動の成果である「文化」で再構成したものが「世界史」である。これを語りうるのは「西欧の近代思想のみ」。ヘーゲルの「自由」とウェーバーの「合理精神」が、西欧圏の「非西欧圏に対する優越性の主張の論拠」となる。 「世界史」はまた、「記憶を創り出す作業」で
現代の起点―第一次世界大戦(全4巻) [著]山室信一、岡田暁生、小関隆、藤原辰史 ドイツ国境に近いフランス・ベルダンの丘で、双方の国旗がともに秋めく風にたなびいていた。100年前の夏に始まった第1次世界大戦の激戦地である。同時に、30年前には、両国首脳が手をつないで哀悼した和解の象徴の地でもある。1世紀の区切りの今年、訪れる人は例年より多いという。 英仏などで第2次大戦以上の死者を出した欧州は、暗い過去を統合の「起点」となる踏み台にも用いる。これに対して、悲惨さも政治・外交の失敗も第2次大戦の記憶が際だつ日本で、第1次大戦を知る意味はなにか。 そんな思いで、このシリーズを手にとった。共同研究を得意とする京都大学人文科学研究所が、異なる分野の研究者を集めて7年かけて仕上げた。 貫く問題意識は、第1次大戦を欧州に限らず、米国やアジア、トルコ、中東まで世界のいまにつながる「起点」とすることだ。4
エラスムス 人文主義の王者 [著]沓掛良彦 エラスムスはルターとの対比で語られることが多い。行動派で勇猛果敢な後者に対して、前者は思索的で優柔不断な人と、どちらかといえばエラスムスに分が悪い。しかし、本書を読むと、こうしたイメージは一変する。 「もの書く男」としての生涯を貫いたエラスムスは、当時の絶対権力者、ローマ教皇を「世界のキリスト教会の疫病」と呼んだ。『痴愚神礼讃(らいさん)』では「どれほどさまざまな商売、どれほどの莫大(ばくだい)な収穫と、大海をも埋め尽くすほどの財貨」と、言い尽くせないほどの利権を手にした教皇を、類いまれな筆力で痛烈に批判している。この本が出版されたのは、ルターが宗教改革の狼煙(のろし)を挙げた1517年より8年も前のことである。 「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵(かえ)した」宗教改革は、ルターによって「似ても似つかぬ雛(ひな)」(プロテスタントという巨大
ナショナリズム入門 [著]植村和秀 「愛国無罪」を叫ぶ反日デモを中国で幾度か取材し、政治が重用するナショナリズムを目の当たりにした。日本に戻ってみると、書店に「反中嫌韓」棚と「日本ってすごい」本が、増殖している。 私自身も、サッカーのワールドカップ観戦ならいざ知らず、「国」をやどかりに考えたり、気持ちが動いたりする機会がなんとなく増えていないだろうか。争いの種として耳にすることが多いナショナリズムってなんだろう——。 この本では、国家、国民、民族などの意味をもつ「ネイション」にたいする肯定的なこだわり、と説明する。正義でもないが、悪でもない、と。そして、どううまれ、歴史に作用したかについて、各国の例をあげて示している。 戦争などによって地理的な国の形や統治者が変わるとき、国力が大きく動くとき、移民に触れるとき……。日本を出発点に、ドイツを始めとする欧州を厚めに紹介し、米国、ロシア、トルコ、
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く