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ブックマーク / newsnews.exblog.jp (5)

  • 原発事故報道と戦前の新聞 | ニュースの現場で考えること

    東日大震災の後は、半ば呆然とした日々が続いていた。札幌は、地震も津波も原発事故も、ほとんど影響がなかったし、今もない。自分の日常の仕事も、震災前と同様に続いている。 新聞労連の集会に呼ばれて青森県の八戸市へ出向いたのは、2月初旬のことだった。東北各地から地方紙の記者や販売・営業担当の人たちが集まり、夜は店を3軒もハシゴしながら「地方紙はこれからどうしたらいいか」といった話を続けていた。あのとき、夜遅くまで話した人たちも、かつてない事態の最中にある。その場で一緒した「今だけ委員長」さん、河北新報の寺島英弥さんの「余震の中で新聞をつくる」、あるいはその他の奔流のような報道に接していると、現場のすさまじさと足下の日常との、あまりにも違うその落差を前にして、私はなかなか語るべき言葉を持ち得なかった。 それでも、書いておきたいことは山のようにある。何からどう書いておくべきか、頭の中の整理が仕切れて

    原発事故報道と戦前の新聞 | ニュースの現場で考えること
  • 「報道」とは結局、何なのか。 | ニュースの現場で考えること

    夜になって、東京は雪になった。重く、湿った、札幌でいえば3月のような雪である。たぶん、明日の朝は通勤・通学でたいへんな思いをする人も多いだろう。 数日前、「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社)を読み終えた。リクルート事件が表面化したのは、1988年だからもう12年22年も前のことだ。リクルート事件の関連書籍はほとんど読み尽くしたつもりだったが、この江副氏のは出色である。 御承知の方も多いと思うが、リクルート事件は、川崎市の助役に対し、リクルートコスモス社(当時の社名)が未公開株を譲渡していたことを朝日新聞が報道したことに端を発している。取材に当たったのは、朝日の横浜・川崎両支局の若い記者で、それを指揮したのが、調査報道の旗手として知られた山博氏だった。少し前、山氏と事をしながら、調査報道とは何か、といったテーマで話をさせてもらったことがある。「なるほど」と感心することが

    「報道」とは結局、何なのか。 | ニュースの現場で考えること
  • 「容疑者=犯人」報道は、やっぱり続く。 | ニュースの現場で考えること

    裁判員制度と報道の関係は、どうあるべきか。それに対する報道機関の姿勢を問うような「逮捕劇」が、裁判員制度がスタートしたまさにその日に起きた。「中央大学教授殺害事件」での、元教え子の逮捕である。 それを伝える新聞やテレビを見て、違和感を感じた人も多いのではないか。 裁判員裁判の開始に向けて、事件報道のあり方を変える。新たな報道指針をつくる。そういったことをマスコミ各社はうたっていたはずなのに、実際の報道は、これまでとほとんど変わったところがないように思えるからだ。新聞に限っていえば、確かに各社は工夫を凝らし、記事表現の方法を(一部ではあるが)変えている。「・・・と供述していることが、捜査部への取材で分かった」というスタイルは、その典型だ。各社によって表現方法の際はあるが、これが裁判員制度下での記事表現で、一番目立つようになったスタイルだ。 この種の表現は、これは捜査当局への公式発表ではあり

    「容疑者=犯人」報道は、やっぱり続く。 | ニュースの現場で考えること
  • まずは、8勝7敗、9勝6敗で | ニュースの現場で考えること

    情報流通促進計画というブログを主宰している弁護士の日隅一雄さんが、そのブログで、「道新高田さんへの質問~孤高の虎でなければならないのでしょうか? 」というエントリを立てている。私が先日、自身のブログに書いた 「きれいごと」と「闘い」 に対する、質問というか、提案というか、そんな内容である。 その中で、日隅さんは、こう書かれている。 <私自身、耳が痛くなるが、果たして、この強烈な檄文だけでよいのだろうか。孤高の虎は、この檄文に応えることができよう。しかし、この世の中、虎ばかりじゃぁない。ウサギもいれば、もいるし、それこそ犬もいよう。それらの人に、虎になれといっても難しい。> <私は、高田さんに、ただ、檄文を書くだけでなく、マスメディアが世の中の労働組合を守り切れなかったことを反省するとともに、今後労働組合を強化し、あるいは、別の方法で団結を強化し、マスメディアでも編集部が社内的に少しづつ独

    まずは、8勝7敗、9勝6敗で | ニュースの現場で考えること
  • 「きれいごと」と「闘い」 | ニュースの現場で考えること

    岩波書店の月刊誌「世界」に、神保太郎氏という筆名の方の、メディア批評が連載されている。毎回、もっともだな、と感じ入りながら読んでいる。ただ、一方では、「しかし」との強い思いが消えぬ。 時々、私はジャーナリズム関係の講演やシンポジウムを聞きに行く。先だっても都内の大学で、新聞労連の委員長さんも出席したシンポを聞きに出かけた。やはり、良いことを言っている。心底、そう思う。ただ、ここでも「しかし」である。 或いは、(とばっちりのような形になって申し訳ないが)、有名なガ島通信に最近、「草彅さん報道に見るマスメディアの病理」というエントリがあった。細かな部分には異論もあるが、だいたいにおいて、納得できる内容だった。まさに、日事件事故報道の病的症状は、末期と呼ぶに相応しいからだ。ただし、ここでも、「しかしなあ」と思うのである。 「世界」に連載中の神保太郎氏は、私の記憶では、連載初期、自分はメディア

    「きれいごと」と「闘い」 | ニュースの現場で考えること
    nekotekikaku
    nekotekikaku 2009/05/12
    お前は何をしたのか。と問われている訳です。すみません。
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