たいせつなエッセンスがつまっていた。 星野道夫さんの本で知って読みたいと思っていたアン・モロウ・リンドバーグのことが再び出てきたし、テグジュペリの飛行機から見るひとのいとなみの話も。 ある断片がこころに残っているときに、そこにすっと繋がるなにかが訪れるようになった。 このことはもっと耳をすますことで頻繁に起こり、はっきりと澄んでくるんだろう。 もしかして、積む前にわかるようになるのかもしれないとも思う。 + たくさんの本を次々に読んでつぎつぎにためてゆくより、今は同じ時間でさらに噛むことを求めることのほうがたいせつな気がしている。 再び読んだものを掘り出し、横に広げてゆく作業。 なにもないところに新しく珍しい種を植えるのではなくて、ひとつの、もう知っている芽に取り組みかかわって、見守ること。 + そうして丁寧にかかわって信じたものだけを発したい。 揺らぐものとゆらがざるべきものをその都度わ
土曜日に友人のマスナリジュンさんの個展 (Click!) に行ってきました。 女性の胸元から上を写した正面像がギャラリーを一周並んでいる。 にっこり笑うでもなく、視線をカメラからはずすわけでもない女性たちの姿を見ながら私は、鏡に向かっているときのことを考えた。 鏡を見るとき、わたしはこういう顔をしているんだという確認とともに、他の人にこう見られたい、という顔をしているような気がする。 けれど実際そこに映っているのはわたしがそう見せたい、わたしはこうだと信じている自分の顔。 多分自分だけが知らない顔なんてたくさんあるのだと思う。 正面からカメラを向けられてレンズと対面しているその女性たちをじっと見ているとああこのひとは好奇心が強いんだろうなとかまるく穏やかな空気だなあとか仕事ができそうだ!とかどんな声なのかなあとか…いろんな想像が薄く重ねられてゆく。 まったく知らない人なのに、そして当たり前
いちにち気持ちが彷徨ったままだった。 ひっそりと染みついた淋しさが浮き出てきてからだに膜をはっているようだった。 見たいものにも逢いたいものにも、どんな言い訳もせずにまっすぐあいに行かなきゃいけない。 でもそう決意したとたんに、そんなふうに何ものにも絡めとられずに向かいたいという強い気持ちがあるだろうかと考える。 願うだけではいけない。 まっとうに手を伸ばしていてはじめて、そこへ向かえるのだもの。 それほどわたしはきちんとなにかとぶつかっている? なにかを芯から求めている? 今この時間に生きていて多くのことにこころを動かされている。 踊りの舞台、友達のことばやいつかの笑顔、一緒に見た景色とか、読んだ本、…。 そのたくさんのことをちょっぴりずつ舐めてわたしにできることはなんだろう。 この世界になにかをかえさなきゃいけない。 受けとったよろこびとかかなしみとか光も傷も、ちゃんとつなげていかなき
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