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2008年4月9日のブックマーク (13件)

  • ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

    ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PCポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称であり[1][2][3]、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す[4]。「政治的正しさ[5][6][7]」「政治的妥当性[8][9][10]」などと訳される。なお、特に性別の差異を回避する表現をジェンダー・ニュートラル言語(英語版)と言う。またハリウッドなどでキャストやスタッフの多様性を確保するよう求める条項は包摂条項と言う。 具体例として、看護婦・看護士という呼称を性別を問わない「看護師」に統合したことや、母子健康手帳という名称を父親の育児参加を踏まえて「親子手帳」に変更したことなどが挙げられる(後述)。 学術界や教育

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ネイルで使う材料で、DIY時の木割れやネジ跡を派手にしたらかわいい OSB合板でちょっとしたボックスをつくりました。 ビス止め下手すぎて木を割ったり穴あけすぎたりした場所に、好きな派手色の樹脂を詰めてパテ代わりにしてみました。 ちょっと某HAYっぽみ出て可愛かったので、自分用にメモです。 手順 塗装 派手色グミジェルで失敗部分…

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  • 記事一覧 - とれいん工房の汽車旅12ヶ月

    はてなダイアリーを久しぶりに開いたら、はてなブログになってました。 てな訳で、「とれいん工房の汽車旅12ヶ月」、4年ぶりの更新です。 ブログをお休みしている間に、商業執筆の話がやってきて、20年ぶりの新刊が、2022年11月28日に刊行することになりま…

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  • どうして逃げないの? - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080228/1204229625 第二次世界大戦中、ホロコーストによって虐殺されたドイツ国内や周辺地域のユダヤ人たちは、何故さっさとアメリカなりへ亡命しなかったのだろうか? いずれはああいう目に遭うことがわかっていたはずだ。それなのに逃げようとせずに収容所へ送られ、殺されたのなら、それは彼らの選択の結果、自己責任ではないのか? 18世紀末、植民地主義の勃興期において、ドイツの思想家ヘルダーの文化相対主義は、それに対する痛烈なカウンターになっていた。西欧「文明」は非西欧「野蛮」に優越するという啓蒙主義的なヨーロッパ中心主義に対して、ヘルダーは各地方固有の神話・伝承を再評価し、それぞれの地方に根付いた文化・伝統はヨーロッパのそれに劣るものではないと述べ、現地文化・伝統の破壊や西欧文明の押し付けを批判した。『人類歴史哲学考』において

    どうして逃げないの? - 過ぎ去ろうとしない過去
  • チベットとルワンダ、あるいは相対化と普遍化 - hokusyu’s blog

    http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080326/p1 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080330/p1 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080331/p1 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080401/p1 ホテル・ルワンダ論争を思い出してしまったわ。 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060228/p1 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060307/p1 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060324/p1 1月の南京事件論争のときは、右が他の虐殺事件と比較したことを左が叩いていたが、今回は左が他の虐殺事件や差別の問題と比較したことを右派が叩いている。ということは

    チベットとルワンダ、あるいは相対化と普遍化 - hokusyu’s blog
  • 「観客席」への補注 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    ※ 末尾に追記あり+idトラックバックを忘れていたところを追加。(2008/04/06 09:40) 「観客席なんかありません」の記事について、いくつかの注意と、ブクマコメントへのレスなどを書き留めておく。 こういう話をしていると、いつも「自分のことで手いっぱい」という人のことが指摘され(これは分かる)、そういう人は「観客席」にいるしかないではないか、というような意味のことで反論されたりする(これは分からない)。「自分が生きることで手いっぱい」という人については、そのように手いっぱいであること自体が「抑圧と侵害」であり、であるなら、その人は自分が生き延びるためにいっぱいいっぱいの努力をしている(せざるをえない)ということが、つまりは「観客席にはいられない当事者」ということであり、その人自身が生き延びるということ、それ自体が、大事な戦いだと、僕は考えるのだが。それは、チベットで弾圧される誰か

    「観客席」への補注 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • inumash氏へ、「観客席なんかありません」 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    inumash氏からのトラックバック。>http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080401/p1 論理の筋道の問題と運動論の問題を摩り替えている、というところは、あちこちで指摘されているとおりだけど、ではなぜこれを摩り替えてはいけないのかというところを付け加えておく。つまり、この種のすり替えは、「運動論として」ダメなのだ、ということ。 だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。 その「左派に期待している/いた人」ってのは、一体誰のことで、今、何をしているんだ?「期待している」というからには、外部にいるんだから、左派じゃないんだよな。かつ、「左派を叩きたいだけの人」、つまり敵でも

    inumash氏へ、「観客席なんかありません」 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    iteau氏が反論を書いたそうだ。>id:mojimoji氏への反論 しかし、不思議な読解をする人たちだな。 元々、「アイヌとチベットと」の中で、「チベット問題との温度差をすげえ感じた - NC-15」という記事に対して示されている、「「どっちもどっち」「いずこも同じ」なる相対化を行い、目前の暴力行為に沈黙をしてしまう、沈黙を強要する」という解釈が的外れだ、ということなのだ。 指摘するまでもないことだと思うが、muffdiving氏は、アイヌ問題とチベット問題の両方を問題だと考えているのは明白だ。仮にチベットを問題にするならば、少なくともアイヌを問題にすることを批判するな、と主張しているのである。そして、(これはバカでないなら分かることだが)「アイヌを問題にすることを批判するなら、チベットについても問題にするな」とは述べていないのである。当たり前だ。何をどう読んだら「沈黙を強要する」ことに

    排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、先の記事に対して、id:ruletheworld氏から返事があったので、応答する。>http://anond.hatelabo.jp/20080331011310 「お返事」部分に対して、逐一応答していく。 「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミットを批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」 なんというわら人形。一番質的な所が全く述べられてないんだが。その記述に倣うならこう。 「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミット『をチベットに関連付けする事で、来チベットへ向かうべきであった問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させてしまう事』を批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」 ブコメだから適当読解で、言ってもいないことを勝手に読み取るマンはカンベンな。 要するに、自分の信奉する政治

    排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、見つけてしまったので、「倫理の一貫性」(@extra innings)という記事について反論しておく。チベット問題を語っているときに、パレスチナはどうなのだ、アイヌはどうなのだ、という論点をぶつけられたとして、それをどう理解するか、という問題。「排外主義者、あるいは日曜サヨク」の続き。 iteau氏の二つの記事について ↑でid:kurotokage氏が提示したリンク先の記事を書いた人がそもそも倫理の一貫性を行動として示してきたか非常に疑問があるのだが、id:kurotokage氏が仮に倫理の一貫性を問うのだとすれば、その対象の取捨選択は恣意的ではあってはならないはずである。 言うまでもなく、それらは同様に抑圧と侵害の問題系なのであり、「すべてが問題である」と述べるのは当たり前のことである。ただし、人の使える時間は無限ではないから、一人で何もかもについて発言し、行動しつづけることは無

    排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク - モジモジ君の日記。みたいな。

    今ここで手を組めば、この人を助けることができる。そのような決定的な場面においてであるならば、悪魔とだって手を組むかもしれない。ただし、ほとんどの瞬間は、そのようなマンガみたいな決定的瞬間の遥か手前にあって、そのような地味な場面で考えられるべきことは別にある。 倫理が力を持つのが、倫理を語る者が腕力を持っているからであるならば、倫理など不要であり、ただ腕力だけがあればいい。そうではなく、倫理が、倫理であるがゆえの力を持つとすれば、それは何に由来するのか。仮にそんな力があるとすれば、それはそこで語られる倫理の一貫性に由来するはずである。倫理が、その恥じ入らせる力によって力となるためには、一貫性がなければならない。一貫性を欠いた倫理は、既に倫理としての力を欠いており、ただの飾りである。その一貫性を欠いた倫理要求が仮に受け入れられることがあるとしても、それは倫理として受け入れられたのではなく、ただ

    排外主義者、あるいは日曜サヨク - モジモジ君の日記。みたいな。
  • ララビアータ:石原吉郎の『望郷と海』 - livedoor Blog(ブログ)

    石原吉郎『望郷と海』について、以前走り書きしたものを掲載する。これは、中島一夫氏の「媒介と責任――石原吉郎のコミュニズム」(『新潮』誌2000年11月号所収)に触発されて書いたものである。 なお、脚注が打てないので、便宜上文中に挿入したイタリックで注を表すことにした。できれば字体を変えるかポイントを下げるかしたいところであった。なんとも腹立たしいくらい汚いテクストになってしまった。 共産主義者の倫理的立場 ――石原吉郎『望郷と海』について―― 中島一夫氏は、その石原吉郎論『媒介と責任――石原吉郎のコミュニズム』(新潮2000年11月号所収)において、共産主義者の倫理的立場という論点を提起している。 石原吉郎は、ラーゲリ体制を告発するような立場を自覚的に放棄する。この点には、これまでも多くの批判が存在した(吉隆明氏、内村剛介氏など)。国家や政治体制に対する視点を欠き、もっぱら個人の道徳や良

  • http://yaplog.jp/kiyop/archive/321