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コンテンツ、人件費が安い割りに、視聴率がそこそことれる。 そんだけの話。円高もそれに拍車をかけている。 昼間の再放送の枠が全部韓流になったなとか、通販ばっかだなと個人的に思うことはある。 しかし、通販番組がこれだけ多いのは裏に何か巨大な組織がいるのだろうか。 高田社長は実は悪の枢軸で、裏で何かつながりがあるのだろうか。 通販番組特権なるものがあるのだろうか。 ない。コンテンツを生み出す能力がないなかで、安いコンテンツで枠を埋めれるものがそれだからにすぎない。 メイドインチャイナが身の回りの物を占めることと同じ。 ある程度の品質のコンテンツが物価の安い国から出てくればこうなることは必然だった。 文化集団的に言えば、かつてだったらビジュアル系のファンになっただろう少女がボーカロイドに吸収されているように かつてであればビルボード洋楽、ジャニーズに憧れるようなファン層がK-POPに引き寄せられて
正確には、議論が許される場が好きだ。だから2chの議論できるスレや増田が好きだ。 俺は直接見てきたわけではないが、大正デモクラシー前夜の電車で演説をぶつ人や新聞上での議論を連想する。 ただ、議論をしない社会というのも尊重しなければならない。議論が息苦しいという人の気持ちも分かるからだ。例えばはてなハイクはゆるい空気だからこそいいとなる。それを議論で汚染されたくない人の気持ちは痛いほど分かる。 でも、両者を住み分けしようとすると、議論しない場は排他的になり、議論する場はどんどん公共性を失い、醜悪なものになる。そんな議論ならやらない方がましだ。 では住み分けしないとなると、議論しない場は議論する場に汚染されることを避けられない。議論する(1)としない(0)を足したら1になるわけだ。議論したくない人たちの気持ちは無視されることになる。 議論しない人と議論する人の共存はどうすればいいかということを
6/21追記: http://anond.hatelabo.jp/201006210004476/21追記2: http://anond.hatelabo.jp/20100621194920俺は英語学習オタクだ。これまでの人生の中で大量の時間を英語学習に費やしてきた。中学校から始めて、日本にいてできる英語学習法は殆ど試したと思う。高校時代には学習参考書や問題集を二百冊以上終わらせた。ネイティブの個人家庭教師がついていて、さらにマンツーマンの英会話スクールにも通った。大学は迷わず英語学科を選んだ。大学在学中にTOEFLのスコアは640を超えた(厳密には覚えていないが、目標が640でそれを超えたのは間違いない)。 大学を卒業後、アメリカの大学院の博士課程に留学した。ここでも俺の英語は「通用した」。授業に問題なくついて行き、ディスカッションにも十分に参加できる。タームペーパーや授業でのプレゼンの
・ミソジニーなひとたち ・中身とは切り離してネタ=メタ=構造=テンプレ=ガイドラインとして楽しんでいるひとたち ・流れに便乗してるひとたち 下二つだって一番上と同じだろう。三十路ニーでないならこの流れに乗りたくならないだろうし、メタだというのはただの予防線であって、それを隠れ蓑にして自分は悪人でないと思い込もうとしてる分一番上より二番目が圧倒的に悪質。
・本気でやってるが、指摘されたときはネタだと言い張る これによって自分だけ傷つかずに好き勝手言える それで通じると思ってるのは言う方だけだがね 性別関係なく、これを使ってる人を見かける。
[blog]インターネットにおける議論の進め方の一典型非常に常識的な事ですが、世の中に批判を免れるような価値観というのは一切存在しません。例えば「職業に貴賎はない」というテーゼすら批判される余地のあるものです。 批判されるべきではない価値観などは存在せず、常に批判にさらされ磨かれるからこそ、そういう価値観が普遍化もするし説得力を増すものと私は考えております。 インターネット上で議論していて気になるのは、一部の批判を認めてしまうと、全てが否定されてしまったように思う人がいること、あるいは一部分で論破できたからといって、相手の全てを論破し得たなどと勘違いしている人がいることです。 自分の側に論理的におかしなところを認め、その上でこれとこれについては認めるべきだと主張すれば、うまくいけば批判する側を味方につけることができます。自分の側に論理的におかしなところがあることに目をつぶり続ける限り批判は
吉田アミさんなんかに典型だけど、「何かを嫌いっていう時間に好きなものを楽しむ努力をしたい!」みたいな発想がアニメファンや音楽ファンやらマンガファン――要するにサブカルチャー好き全体に広まって行ってる様子なのかしらん。東浩紀さんも昔SFセミナーでトラブルがあったときに「批判がしたけりゃ自分がいないところでやってくれ」みたいなことを言ってましたっけ。なんだかなあ。 たしかに、頭ごなしに駄作認定してネガティブキャンペーンを張るのはよろしくない。そんな暇があったら好きなものを楽しむ努力をした方がいい。しかし分析的に、理由を挙げながら批判(≠批難)をしているものにまで「そんな暇があったら――」と言ってしまうのは精神的ひきこもり症状ではないのかなぁ。そこには成長がない。「成長」という言葉遣いに抵抗があるなら、「変化」と言い換えてもいい。ひとが忙しい毎日の中で、わざわざ時間を割いてサブカルチャーに接する
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