・ミソジニーなひとたち ・中身とは切り離してネタ=メタ=構造=テンプレ=ガイドラインとして楽しんでいるひとたち ・流れに便乗してるひとたち 下二つだって一番上と同じだろう。三十路ニーでないならこの流れに乗りたくならないだろうし、メタだというのはただの予防線であって、それを隠れ蓑にして自分は悪人でないと思い込もうとしてる分一番上より二番目が圧倒的に悪質。
・ミソジニーなひとたち ・中身とは切り離してネタ=メタ=構造=テンプレ=ガイドラインとして楽しんでいるひとたち ・流れに便乗してるひとたち 下二つだって一番上と同じだろう。三十路ニーでないならこの流れに乗りたくならないだろうし、メタだというのはただの予防線であって、それを隠れ蓑にして自分は悪人でないと思い込もうとしてる分一番上より二番目が圧倒的に悪質。
・本気でやってるが、指摘されたときはネタだと言い張る これによって自分だけ傷つかずに好き勝手言える それで通じると思ってるのは言う方だけだがね 性別関係なく、これを使ってる人を見かける。
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります いない「誰か」を見せるやりかた たとえば外界から隔絶した部屋の中で2人、カウンセラーと被験者とが6時間ぐらい。 被験者から話を聞いたカウンセラーは、常に隣の「誰か」と相談してから返答を返す。 被験者は、見えない「誰か」をいぶかしみながら、治療者たるカウンセラーに変な突っ込みも できなくて、5 時間目までそんなやりとり。 被験者と治療者。密室の中で、そんな歪んだ関係を5 時間も続けた頃には、 被験者の現実認識はカウンセラーに依存するようになっている。 カウンセラーが「力の勾配」を意図的に利用したならば、 被験者にはその意図に対して防衛するすべがない。 話も煮詰まった5 時間目。「……ですよね~」なんて、見えない 誰かと何百回目かの「相談」を行っ
罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題 - ARTIFACT@ハテナ系 事実、「とめていなかった」のではなくて「これまでなぜとめられなかったのか」と考えたほうがいいかもしれません。事実をどれくらい「知って」いるか「知らない」かを基準にするのは、その主体の決定と判断によるものであると定義します。その後で、何らかのアクションを、それぞれの動機に基づいて起こすこともある。 画面の奥のやり取りで「どこまで可視化」されているか、という明確な規定と目的が、両者で可視化されておらずわからない場合、多くは事実を知ることができません。完全に知ることができるのは、明確な当事者となった場合――つまり、他者と私が「画面」ではなく「対話」として「出会った」瞬間、となります。また、「可視化されている」という事実と、「読む」という事実が揃わなければ、第三者が明確な心象や目的の明確化と納得へいたることはで
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