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communicationと*_R:倫理に関するo_keke_nigelのブックマーク (5)

  • 行きつけのスタバのマネージャーがすごかったという話 - デマこい!

    「正しい面接」というと就活生とか受験生とか、面接を受ける側の話になりがちだ。入社試験のような「振り落す」ための面接ならば、面接官は偉そうにふんぞり返っているだけでいい(優秀な学生は内定辞退するだろうが)。しかし学校の三者面談や職場の定期面談――世の中の「面接」のほとんどは「相手を理解する」ために行われる。したがって「運営側」つまり面接をする側のほうが、「正しい面接」の方法を熟知していなければならない。 では、面接官が理解しておくべき「正しい面接のやり方」とはなんだろう。 行きつけのスタバのマネージャーが凄まじかったので、書き残しておく。 私がスタバを利用する最大の理由は「電源が使い放題だから」だ。が、スタッフの教育が行き届いているのには驚かされる。差別化の難しいコーヒー飲料という商材で、しかも価格は高め。ひねくれた人からは「MacBook Airを見せびらかしたいやつらが行く場所だろ?」な

    行きつけのスタバのマネージャーがすごかったという話 - デマこい!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2012/02/15
    1)これ「マネージャが本当に理解してる」んじゃなくて「理解してるふりして理解させてる」だよね?実際は使い手の「心理的強度」こそが試される2)こういう舞台裏を客に見せるのが「ホスピタリティ」なのか?
  • 「Aを選ぶのは自由だよ。ただAを選んだら差別されるだけで」

    「Aを選ぶとさ、凄い冷たい視線で見られたり悪口言われたり無言のプレッシャーかけられたりして、実質的にもうA選べないよな。この国はAを選ぶ自由がないよ」 「いや、Aを選ぶのは自由だよ。別にAを選んだからって逮捕されるわけじゃないでしょ。ただAを選んだら、陰口叩かれたり、『そういう目』で見られたりするってだけ。選ぶ自由はあるよ」 「なんでAを選んだらそんな目にあわなきゃならないんだ」 「だってAを選んだらそうなるってことは分かってるんだから、色んな目にあっても、それはAを選んだ人の自己責任だよ。自由は責任とワンセットだよ。Aを選びたい、でも責任は負いたくないなんて我侭だよ」 っていう論調をたまに見かける。 でもこれって要は「Aを選ぶのは自由。ただAを選んだら差別されるだけだよ」って言ってるにも等しく、更に「それを選んだら差別される」状況は自由とは言わないのではないか?(自由に関して色んな定義が

    「Aを選ぶのは自由だよ。ただAを選んだら差別されるだけで」
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/09/26
    そもそも「選択肢の提示の仕方」自体予め価値観が混入された誘導的なものだから、「選択する自由」という表現自体がある種のトリック/差別される、という事実を受け入れることとそれを正しいものとすることは別。
  • 倫理の根源は呼びかけにある - モジモジ君のブログ。みたいな。

    5月9日の記事(応答責任、再論)から、sivadさんの4月の記事にトラックバックを送ったところ、さっそくお返事をいただいた。>倫理の根源は想像力にあると思う@赤の女王とお茶を ここでsivadさんが「想像力」というキーワードを提起したことで、違いがより鮮明になってきたと思う。以下、議論したい。 ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか(以上、kanjinai氏の記事からの引用) への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。 この部分に、まず同意できない。元の文を次のように言い換えてみよう。「私は他人を見殺しにした」。意味合いは変わっていないと思うが、こう書き直せば明瞭であるように、これは事実についての命題である。そして、事実命題と

    倫理の根源は呼びかけにある - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/19
    「「万人に共通の前提」で語ることは、「万人に共通に信じられている前提」で語ることとは違うのだが、しばしば、置き換えられる。その意味でこれは錯覚なのである。」
  • 「責任」という言葉の使いづらさ。 - hishimaruの日記

    ①自分がしたことと結果との間に因果関係がある ②自分の意思でしたことである ③結果について責めを負うべきである 責任があるかどうか、は上の3つの要素を満たしているかどうか、だと16日の日記に書きました。 そして3つの要素を1つの言葉のうちに込めてしまうと、論点が増え、煩雑になるので、②と③は分けたほうがいいと。 これは、その追記です。 「責任」という言葉には、評価尺度が2つあります。 「責任がある/ない」「責任が重い/軽い」この2つです。 上の3つの要素を見ると、①②については「因果関係がない」「自分の意志ではない」と「ある/ない」で評価することが出来ますが、③に関しては「ある/ない」で評価することは出来ません。 自分の意志で行動し、それによってネガティブな結果がもたらされた場合、責任が「ある/ない」の問題ではなく、負うべき責めが「重い/軽い」の問題になります。 大事なのは、重いか軽いかと

    「責任」という言葉の使いづらさ。 - hishimaruの日記
  • 儀礼的無関心について - Oblivion? Oblivion!

    (追記。やや考え直した。のざきさんのテキストを読んだことが大きい。リンクの仕方が失礼な場合もリンクされたことへの反応が失礼な場合もあるだろうということは、リンクしたほうかされたほうかというのは事の核心には関係ない、という気がしてきた。また、失礼かどうかというのは個別のケースで議論すべきことで一般論にするのがおかしい。それになにより、心無いリンクは止めようと「提言すること」自体は、すでにマナーではなく規制の領域に明確に入っている。儀礼は運動のようにして提言されるようなものではないだろう。マナーはリンクするほうが内心で検討することで、リンクされたほうが相手に向かっていうようなことではない。他者に向かって議論する論拠として使うことを想定している時点ですでにそれは政治的な論理なのであり、権利や禁止の問題である。それに、やはりこれはもとの下の文章でも大きいのだが、例え話を使って、心情への配慮を訴える

    儀礼的無関心について - Oblivion? Oblivion!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/04/13
    「マナーとしてしてはいけないというのと、権利として、ルールとしてしていい、いけないというのはどう違うのか。ここが判然としていないかぎり、マナーの名でルールが密輸されてしまう。」
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