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communicationと*_Sot:相対主義に関するo_keke_nigelのブックマーク (5)

  • ★ 電脳ポトラッチ: 相対化の時間がやって参りました

    相対化の時間がやって参りました ● 前回エントリの続き。Masaoさんがプライベートモードに入ってしまい、現在ブログが見られない状況になっておりますが、ウェブ魚拓で保存されたキャッシュを見つけたので、彼の最後のエントリへのリンクは貼り替えておきました。 例によってはしごたん関連なので興味ない人はスルースルー。 彼のかつてのid:hashigotanさん擁護をもってして、「自業自得だ」「ダブスタだ」と攻撃している皆様は、攻撃者を容認するという点に於いて以前のid:Masao_hateさんと似たような場所に自ら降りちゃってるように見えるんだけど、そんなこと無いの? 正義は錦の御旗 話がすり替わってるよー。ブログで発言している以上、主張の内容に対する反論や叩きのリスクはつきもの。わたしだって誰かの主張がおかしいと思えばガンガン突っ込んでるんだから、ツッコミ返されるのは覚悟している。 でも、

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/02/04
    「人それぞれ」が全然人それぞれではない、という件についての論考と指摘。本来「相対主義」は「差異の立脚点を確認するため」のツールに過ぎないのであって、「正論ゲーム」のためのミサイルなんかじゃない。
  • 「あくまで私の意見ですから」 - kmizusawaの日記

    ■「あくまで私の意見ですから」 ときどき読んでていやーな気持ちにさせられる文章に出会うことがある。日常で出会った人や見かけた人、ドキュメンタリー番組で取り上げられている事柄や人の生き方に関わる社会現象などを一方的に決め付けて見下している感じのする文章に多い。 そら私だって、人の悪口・批判や嫌味はまったく書かないわけじゃないし、怒りのあまりつい…とか、日ごろの不満が噴出してしまったとか、なんだかんだでものの見方や受け止め方がゆがんでいるとか、そういうことまで非難しようとは思わない。 嫌なのは、そういう人が批判に対してしばしば「自分のブログなんだから何を書こうと勝手でしょ」「嫌なら見なければいい」「これはあくまで私の意見ですから」というような発言をして相手の意見の内容は無視する形で自己正当化を図ることだ。 「ひとそれぞれ」という言い方がある。私も使う。他人のやっていることや書いていることに腹が

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/09/26
    異質な他者への”寛容”と”相対主義”を使いこなすのはかように難しい。「人それぞれ」という命題が有効なのはあくまでも「理解したい」「相違点・立脚点を理解したい」場合。
  • 相対主義 - Oblivion? Oblivion!

    http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html 最近、俗流のポストモダン的相対主義を批判するには、断固としてモダニズムでいくのもいいんだろうけど、ニーチェ的観点が有効かもしれないと思う。(それにしてもあたらしい思潮が前代の思想の内在的克服、上位互換になることを要求されず、「もうそんな時代じゃない」になってしまうのは、実に駄目なところだと思う。)通俗リベラルの抱く相対主義とは、ニーチェ的に言えば不能の表現なのだ。自らの暗黙に前提しているモラルに対して無防備な人間ほど、モラルを言揚げすることを嫌い、モラル一般を否定する。まさにそれこそが、制度としてのモラルの抑圧的機能なのだ。自然化され、モラルではないような「自然な成り行き」として提示されるものこそ、まさしく支配するモラルのなのである。そしてそれこそが現代思想の明らかにした知見であ

    相対主義 - Oblivion? Oblivion!
  • 寛容さと共存の何が問題なのか

    「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」でオルテガを話題にしたところ、しあわせのかたちのsho_taさんより、「自由主義デモクラシーの賛美こそオルテガの真骨頂であり、これを取り上げるべき」とのご指摘を受けました。 そこで「美しい」として引用されていたのが以下の下りです。 政治において、共存への最も高度な意志を表明した形態は、自由主義的デモクラシーである。自由主義的デモクラシーは、隣人を考慮しようとする決意を極端に示しており、「間接行動」の典型である。政治権利の原則は自由主義であり、社会的権力はその原則に従って、全能であるにもかかわらず自分自身を制限する。つまり、最も強い人たち大多数の人たちである社会的権力は、自分が犠牲を払っても、自分が支配している国家のなかに、自分たちと同じように考えたり感じたりしない人びとが住めるような場所を残そうと努める。今日このことを思い出す必要があるが、自由主義とは

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/07/27
    いや、人が人を致命的に傷付けないために、合い食むことのないために「寛容さと共存」はなお必要だ。しかし目的のない無定見な「寛容さ」は指摘のとおり穴に落ちる。
  • 空気が読めない者、その罪状と判決 : ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    今まで何度か「ブログを非-mixi的・非-お付き合いの道具的に使うこと」について書いてきました(※1)。コメント欄の敷居の高さや、ブログ全体で用意しておく殺気や「壁」についてです。 ところが、中には「壁」そのものが見えない人がいます。いわゆる「空気が読めない人」です。 防壁を突破してくる人というのは二極分化していて、片方は侠気と知性に溢れた好人物、そしてもう一方が防壁を認識する能力すらない「空気が読めない人」です。真ん中のメインストリームはバッサリ切り捨て、という問題は脇に避けておくとして(笑)、この「壁が見えない人」の威力は凄まじいです。 「壁が見えない人」も大別すると二種類いて、一つは古典的なパラノイア。 昔からリアルでも壊れている人になつかれる傾向が強いのですが、このブログのテクストが彼・彼女の宇宙に突然ヒットしてしまったらしく、「それは冥王界で言うところの下位の神ですね!」的な熱烈

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/07/27
    1)主体性論の問題2)政治的ロマン主義か否か3)いずれにせよ「断罪」される側からすれば「空気」でされようが「主体的」にやられようが同じことだ。こういうメンタリティに違った視点でのフレーミングを提示できるか?
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